2025年10月5日

2025年9月27日

尾張大國霊神社の磐境(愛知県稲沢市)

愛知県稲沢市国府宮


尾張総社として知られる尾張大國霊神社(通称・国府宮)の磐境は、現存する数少ない磐境の実例として著名な存在だが、拝殿と本殿の間にあるためおいそれと実見できるものではない。

このたび、神職さんのご厚意に預り磐境の見学および撮影許可をいただくことができた。磐境に関する取扱いや位置づけには不明なところも多かったので、誤解のないように今後に向けて重要な情報をまとめておきたい。

尾張大國霊神社の磐境。本殿向かって右手前に存在。


神職さんからの聞き取り


◆「磐境」の読みかた

「磐境」の字で「いわくら」と読んでいる。
この場所は神様をお招きした「座(くら)」であり、岩石で境をつくり、その中に神様が座すという理解なので、その意味を重視した読みかたであると以前の宮司から引き継いだものである。
ただし、「境」で「さか」と読む立場もあることも承知されており、否定まではされていない(神社発行の由緒書にも「いわくら」「いわさか」の両音が併記されている)。

◆ 磐境の個数

文献によって磐境の岩石の個数を7個と紹介されることもあるが、神社としては「5個」と認識している。
見ようによっては5個以外にも周辺に石が見えるものの、磐境としてとりわけ特別視しているのは5個である。

◆ 磐境への祭祀の現状

磐境に対して定期的に行っているような神事・祭礼は存在しない。
すでに神様が隣の本殿内に鎮まっているので、現在の祭祀は本殿に向けておこなうということである。
磐境は社殿が設けられる前の古い祭場であるという意味で大切にされている。

注連・紙垂は最低年2回は新しくするが、荒天などにより傷んだ折はその都度交換するようにしている。
近年、社叢に鷺が住み着き糞害や羽根・落葉などの掃除に悩まれていることも伺った。

◆ 磐境の見学・撮影についての立場

場所柄、誰しも見られるという意味での公開はしていないが、(今回、吉川が許されたように)状況に応じて見学を許可されている。写真撮影も禁じられてはいない。
基本的には、神職の方々が対応できる時期やタイミングであれば、下記の手続きを踏むことで可能とのことである。

  • 尾張大國霊神社の神事・祭礼日などは当然ながら神職者は忙しいので、そのような日を避ける。筆頭は全国的に有名な2月の儺追神事(はだか祭)であるが、その準備期間には正月も重なるので、12月からは多忙とのこと。また、はだか祭の後も5月に梅酒盛神事が大きな神事となるので、毎年6月~11月が望ましい。
  • 書面での事前申請をお願いしたいとのこと。申請内容としては、いわゆる昇殿参拝(正式参拝)としていただければ、昇殿時に本殿・拝殿の間にある磐境の案内・説明もいただける。尾張大國霊神社の昇殿参拝の初穂料は一人あたり千円が目安とのことで、事前予約は必要なものの、祈祷などの初穂料とは異なり正式参拝のみで磐境見学が可能である。
  • できれば個人参拝が相次ぐよりは、ある程度人数がまとまった団体参拝での申請のほうがありがたいように感じた(私にも30分を越えるご説明をいただいたので、毎回説明を行うことを考えれば納得である)。
  • 昇殿せずに外から磐境を撮影したい場合は、拝殿向かって左側の、拝殿と廻廊が接する角から本殿向かって右手前を望むと磐境の上部だけ見えているので、そちらから撮影する分には止めていない。ただし、時と場合によって拝殿の扉を閉めることもあるのでご了承願いたいとのことである。

この辺りの情報は今まで明らかになっていなかったと思うので、今後、同好の方におかれては参考としてほしい。

写真中央の立札の裏あたりが、拝殿と廻廊の境目

その境目から磐境を撮影すると上写真のようになる。


吉川の所見


岩石信仰研究の立場から最も興味深かったのは、磐境の5個の岩石は「境」であり、神が降り立つのはその内側の「場」にあり、それを「座」とみなす部分だった。

これは岩石を「境」の役割としていて、岩石自体に「座石」の機能を求めるものとはなっていないが、見方を変えれば、境たる岩石も含めたその場一帯が「いわくら」なのだと解釈もできる。
磐境という存在が「空間」性を特徴とする岩石祭祀であり、その点で、磐境は磐座を内包しうるというのは他例を顧みても肯けるところである。

そして、現在、磐境は現役の祭祀の施設ではなく、かつてここが祭祀の淵源だったことを歴史的に示す「聖跡」として位置づけられるのもそのとおりである。


磐境の個数については7個説と5個説があったが、今回伺ったお話により、信仰・祭祀の当事者としては5個を磐境として神聖視されていることが明らかになった。

7個説は「誤り」ということになるが、写真をご覧いただくとわかるように、主石となる5体の傍らにも小さな岩石が複数確認できる。

西から撮影

南から撮影

磐境の北辺を拡大

磐境の北側に仕切りのように並べられた岩石群もある(上写真)。玉砂利より一段階大きく磐境を構成するものとみなすこともできるが、苔むしているものと比較的新しい石肌のものに分かれるようで、仕切りとして後世追加されたところもあるように見受けられる。

また、磐境の内側の地表面には、地中から僅かながら顔を出しているものもあり、他にもまだ地下に埋まっているような感もある。
その点を踏まえると、現在の姿は時代の経過と整地の蓄積である程度地層が重なったもので、地表面の原景は異なる姿だったのかもしれない。


歴史記録まとめ


磐境に言及した文献に『張州府志』(18世紀)と『尾張大国霊神社神祠記』がある(田島 1977年)。それらによると、瑞籬の内に「磐石」があり、祠官が崇敬していたことが記される。
さらに当時、空海がこの石を畳にしていた(磐境の横たわる一石か)という俗信があったようで、それは後世の付会でむしろこの磐石は「大穴持像石」だったのではないかという考えが示されている。


江戸時代の記録においては、「磐境」という用語は登場せず「磐石」という表現になっていることに注意したい。
「磐石」は岩石の当時の呼びかたであり、普通名詞のような使われかたである。つまり、神官が崇敬する存在だったにもかかわらず来歴は当時すでに不明となっており、この岩石群に定まった呼び名が伝わっていなかったようである。だから文献著者も「磐石」と書くしかなく、空海の机石説や大穴持命の神像石説も飛び出す「無色透明」な存在だったのだろう。
磐境の語は神道用語として長らく使われてきたが、明治時代以降の神籠石論争を経て学者間で広く知られるようになった。磐境の字はその頃に定着した可能性もある。


尾張大國霊神社の宮司であった田島仲康氏は、空海の畳石説、大穴持命神像石説は後世の付会であることに加えて、鳥居龍蔵博士のストーンサークル説や国司庁・神社建設時の石材・庭石説などにも否定的である。

大穴持命の神像石という説は、石川県の宿那彦神像石神社などの「神像石神社」から着想を得たものと思われ、たしかにこの説に強力な根拠はないものと思われる。
また、空海説についても弘法大師伝説の付帯する岩石は全国数多く、空海が実際に足を運んでいたか否かを問わない状態である。同様に高い説得性は持たないだろう。ただし、江戸時代の俗伝として弘法大師信仰に絡める人々がいたというのは事実となるので、この磐石に弘法大師信仰の側面があったことは認められるだろう。


先出の田島氏によれば、磐境の配置状態から祭祀の向きは東方向になると評価しており、その先には尾張本宮山が見えた可能性を指摘し、本宮山を祭祀するための施設だったのではないかという仮説を提示している。

五石が囲む中で、西側(写真手前側)だけ1人分のスペースが空く。

祭祀の向きを東方向とみなしたのは、磐境の五石のうち、岩石同士がもっとも離れているのが西側であることから、そこを司祭者のスペースと解釈したものと思われる。
現在の磐境の配置が、地表に露出したまま原位置を保ち続けていたと仮定するなら、西側に岩石がない意味を説明する1つの理由となるだろう。

しかしながら、五石のうちの一石は立った状態ではなく倒れている。
初めから倒すことに意味があった可能性もあるが、磐境が石を立たせることに意味を持たせるものとするなら、この石も元来立っていたと考えないとならない。
また、仮にこの石が立ったままなら、東側にも隙間が認められることになる。その場合、東西に隙間のある環状配石となり、東を志向していたか西を志向していたかはどちらも対等となりうる。
先述のとおり、地中には埋もれているかのような岩石の露頭も認められる。原位置と現状が異なる可能性を考慮すると、現在の状態から性格・機能を類推するには限界があるように思う。

ちなみに、神社境内からは祭祀用か生活用かは不明だが、弥生時代の土器片が見つかっているという話がある。さらに神社約500m東の「塔の越遺跡」(稲沢市長野)からは、古墳時代の竪穴建物・掘立柱建物も出土しており、これらは尾張国府や社殿建立前の歴史を物語る考古資料と言える。


参考文献

  • 田島仲康 「尾張大国霊神社記」 『尾張大国霊神社史料』 尾張大国霊神社 1977年
  • 新修稲沢市史編纂会事務局 「国府宮の磐境」 『新修稲沢市史 本文編 上』 稲沢市 1990年
  • 尾張大國霊神社発行由緒書


2025年9月23日

寄木神社境内社 津島神社の砂(静岡県袋井市)


静岡県袋井市西同笠

 

袋井市には寄木神社が三社あるが、その中で最も原型とされるのが西同笠の寄木神社である。

その証左とされる存在が寄木神社向かって西側に鎮座する、境内社の津島神社の特異な社の在りかたである。

津島神社

津島神社を背後より撮影。写真手前の配石は炉か。

葉で覆われた高さ1.6mの高床式の建物である。

竹4本を四方に立てて、中心に立てた白木の角材の上に神札を付け、その周りを大量の葉で覆い塀とする。葉は境内に繁る杉の葉が用いられる。

極めて原初性の高い建築であり、遠州灘沿いの海岸部において寄木という地名から、海からの漂着神信仰に由来するものではないかと考えられている。

その漂着神のよりつく霊代としての木の信仰が、地名と立木の祠に現れ出たということになるが、岩石信仰の観点から注目されるのは、祠を設けた場に敷かれる「砂」である。

津島神社の聖域に敷かれた砂(雨天時の撮影のため祠の周囲は濡れている)


この祠が建てられる聖域には約二メートル四方にわたって、高さ五センチほど白砂が盛られている。そして、前面の二本の自然木を柱として注連縄が張られている。この祠の造営は毎年交替で一〇名ずつの神役によって行なわれる。神役は部落の南にあたる遠州灘で禊ぎを行ない、続いて、渚の清浄な砂を社域用として境内に運び、その後、杉の葉と竹で祠を造るのである。
野本寛一『石の民俗』雄山閣出版 1975年

野本氏は、砂運びが年1回という定期的な間隔でおこなわれていることを指摘し、定期的な祭礼で招く神の座として砂が機能していたことに注目する。

砂は、海や水にかかわる神の座として相応しい媒体であるばかりか、「砂は石の小極」とみなす立場から、各地の神社で白砂が敷かれることの意味もあらためて問うている。

岩石信仰における「砂」の聖性を示す典型例と言える。


2025年9月21日

岐佐神社の赤石(静岡県浜松市)


静岡県浜松市中央区舞阪町舞阪


どういうわけか大国主命の命を奪ったとされる真っ赤に焼けた赤石も鎮座する。宮司の高柳智さん(74)は「昭和十七年に現在地の神殿横に置いた。その前は神社の鳥居近くにあった。いつ、赤石を神社に持ってきたのか知らない」と話す。火傷などに御利益があるとされ、赤石をさすっていく人も多い。
静岡新聞社[著・発行]『石は語る』2003年

原位置からの移動伝承を持つ岩石である。
また、現在は看板に「赤猪石(あかいし)」と名付けられ、出雲神話にさらに寄せた名称となっている。歴史的に遡る静岡新聞の「赤石」表記を優先して表示した。


2025年9月15日

太刀山愛宕神社裏山の愛宕大権現(静岡県浜松市)

静岡県浜松市中央区舘山寺町 舘山寺

秋葉山舘山寺に接して太刀山愛宕神社が鎮座する(太刀山は舘山と同音)。

神社の裏には山道が続き、5分も登れば山頂の尾根筋に出る。そこには無数の岩塊が露頭し、一画に玉垣に囲われた石祠が存在する。太刀山愛宕神社の奥宮と目される。

愛宕大権現(太刀山愛宕神社奥宮)

石祠に捧げられた穴あき石

藤本浩一『磐座紀行』(1982年)では「館山寺・磐大権現」と題した一項を置いている。

いわく、『東海道名所図会』の絵図には山の西側に「磐大権現(権現岩)」と書き入れてある場所があり、岩石群の合間に社が挟まれた様子が描画されている。当地の岩石群がそれで、館山(かんざん)は神山に通ずることからここは神山の磐座ではなかったかと所感を述べている。

しかしながら、残念なことに藤本は誤読しており、『東海道名所図会』の絵図に記された文字は正確には「愛宕大権現」である。
下に寛政当時の版本を掲載する。

国立国会図書館デジタルコレクション『東海道名所図会』65コマ。 インターネット公開(保護期間満了)資料のため転載自由。

愛宕が縦書きでやや字が詰まり気味で書いてあるので「磐」の一字に誤認したのかもしれないが、それでもあまりに異なる字であり、「磐」であってほしいという固定観念に冒されていたようだ。

以上のことから、この地は愛宕大権現に関わる岩石群だったということが、歴史学的にもっとも古く遡れる評価だろう。


現地には、岩石の傍らに名前を冠した看板が建てられているものも多い。気づいたものをまとめておこう。

ながめ岩

見かえり岩

神付岩(かみつき岩)。「頭をカミゝして厄を落して下さい」の説明も付される。

寄仲岩。後ろの建屋の床下あたりに「木魚岩」なる岩石もあったらしいが見逃した。

初登岩。山頂尾根の岩塊で最大規模。「初登岩」というネーミングは他で聞かない。

天辺岩。山頂尾根に沿って屹立する岩石群を天辺に準えたものか。

くぐり岩

船岩

これらの名称は文献上で確認できていないが、現代に名付けられたものか、地元で古くから口伝で語り継がれてきた名称なのか、経緯がよくわからなくなり独り歩きする前にはっきりしたいところではある。

火穴

先出の藤本浩一は、同図会の「火穴」という場所も「大穴」と誤読している。

火穴は現在「舘山寺穴大師」「弘法穴」と呼ばれてまつられている場所で、弘法大師がここで修業して自作の石仏を安置し、舘山寺の開基につながったと伝えられる霊窟である。

穴大師入口部分

この岩穴であるが自然の洞穴ではなく、文化財上では舘山寺古墳・弘法穴古墳と呼ばれており、古墳時代後期の横穴式石室であることがわかっている。
大師の霊窟として奥は禁足地となっているので詳細不明なところもあるが、天井石が1個欠けているだけで石室の保存状態は極めて良好である。玄室に対して羨道が長いことが特徴だという(浜松史跡調査顕彰会『浜松の史跡』1977年)。

なお、舘山の山中には十数基の古墳の存在が伝わるというが、本古墳の他に古墳認定されているものはない。


参考文献

  • 藤本浩一『磐座紀行』向陽書房 1982年
  • 秋里籬島 編『東海道名所図会』上冊,吉川弘文館,明43. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/765194 (参照 2025-09-01)
  • 浜松史跡調査顕彰会 編『浜松の史跡』続編,浜松史跡調査顕彰会,1977.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9537735 (参照 2025-09-01)