2025年3月29日土曜日

日本地球惑星科学連合(JpGU)2025年大会でポスター発表を行います

2025年5月25日~30日に開催される、日本地球惑星科学連合2025年大会で、「日本列島の自然石文化と岩石の信仰」と題したポスター発表を行います。

私が所属する文化地質研究会のセッション「変動帯の地質と文化」の中で参加します。

セッション「変動帯の地質と文化」では,とくに日本列島のような変動帯に生きる人々の生活や文化・文明が,地質とどのように関わってきたか,そして現在もどのように関わっているか,幅広い視野での研究成果を提示する.たとえば,(1)石材などの材料・資源とその由来,(2)考古遺物の分析と由来,(3)日本列島や地域の固有文化と地質の関わり,(4)博物館やジオパークなどでの啓発普及・教育実践,(5)地質に関わる文学や哲学,(6)山岳霊場や岩石信仰など宗教と地質との関わり,などについての研究発表である.これらの人と地質との関わりを論じた研究成果に加え,市民活動の報告を幅広く示すことで,私たちが変動帯に位置する日本列島で生きることの意味を総合的に議論したい.

https://confit.atlas.jp/guide/print/jpgu2025/session/O05_25PO1/detail


初日の5月25日(日)、幕張メッセ国際展示場7・8ホールがポスター会場です。

私は現地参加せずオンラインでの参加です。また、招待講演と書いてありますが特に講演はしません。

オンライン上の大会サイト「Confit」にてポスターを掲示します。当日のコアタイムとされる17:15〜19:15の間、ポスターをご覧になった方からの質疑応答に対応するつもりです。

https://confit.atlas.jp/jpgu2025?lang=ja


日本地球惑星科学連合(JpGU)は地球惑星科学(地学)に関する学会・協会が参加する組織です。

基本的に参加学会・協会経由でJpGUのIDを取得して参加する形ですが、初日5月25日(日)だけはパブリックセッションデーとされ、一般の方も所定の手続きで参加可能と聞いています(詳細はまだ公開されていないので不明)。


5月16日に大会予稿集のpdfファイルが公開予定なので、その時にまた詳細をお知らせいたします。

というよりこれからポスターの内容を詰めます。5月まではポスター作成に勤しむことになりそうです。


2025年3月19日水曜日

自然石文化における岩石文学作品集『書物の王国⑥ 鉱物』メモ

『書物の王国⑥ 鉱物』(国書刊行会 1997年)は、巻末の解題を記した高原英理氏によると、氏が責任編者になって選定した鉱物に関する古今東西の選集である。

高原氏自身が「私の伝えたいヴィジョンはひとまずここにある」(p.221)と認めるとおり、体系的な基準で編まれたものというより、鉱物に惹かれた高原氏の「癖」と、版権・訳書・紙幅の力学によって計36の作品が収録された。

鉱物に惹かれるものの共通項として、高原氏は次の表現で言葉に言い表している。

  • 自己に囚われたくないとする客観志向
  • 静謐なものへの憧れ
  • 人間を離れたがる傾向
  • 永遠志向
  • 生き物である人間が無機物を前にして、到底かないそうにないと無視できなくなったときの慌てぶり

客観したがる傾向は私のことかとドキッとしたし、4つ目の「無視できなさ」は岩石への特別視の共通項として見逃せない重要なキーワードのように感じる。


本書は「鉱物」括りなので自然石以外の鉱山鉱石・水晶・宝石などのモチーフも含まれるが、自然の石・岩をモチーフにしてつくられた作品も多い。

その意味において、自然石文化における一角に自然石から触発された物語があることは否めない。いわば神話もその一種であり、物語化の末に信仰も生まれると言える。そのような視点から本書掲載の作品を敷衍したい。

高原氏の解題分類に沿って、自然石に関わる部分に限って注目的な記述を紹介する。

※過去記事ですでに取り上げた作品は除外。


神話・伝説・民間伝承ブロック

ジョルジュ・サンド「馬鹿石、泥石」

フランス中どこでも大石は農民の想像力を刺激している。(p.123)

石はときと場合によっては口をきくにちがいないと思われている。(略)しかし石たちは頑固で偏狭なので、それ以上の言葉を教えることはできない。ときには、その近くを通っても石が見えないことがある。というのは、実際、そこにいないからなのだという。(略)彼らは性悪な以上に馬鹿なので、ときどき居場所をまちがえる。前の晩には荒地に転っていた石が翌日は同じ時刻に、種をまいた畑に立っていたりする。作物はだめになる。柵もこわされる。しかし、そのばあい、地主には言わないほうがいい。(略)石のほうでもいずれは元の場所へ戻らなければならないことになっている。もしすぐに元の場所が思いだせなかったら困るのは石のほうなのだ。(p.125)

葛洪「石随」

神山は五百年にして開き、その中から石随が流れ出る。これを服すれば、その寿命は天とともに終わる(pp.50-51)

蒲松齢「石を愛する男」

天下の宝は、これを愛惜する人に与えらるべきです。この石もいい持ち主を見つけたというもので、私もうれしく思います。だがこの石は自分から世に出ることをいそぐのです。世に出ることが早いと、魔劫がまだのぞかれないのです。(略)並すぐれた物は、禍のもとである。身をもって石に殉じようとするにいたっては、執着もまた甚だしい! だが結局は石が人と最後までいっしょになっていたのだから、石に情がないなどとだれが言えようか!(pp.55-57)


日本の怪談奇談ブロック

根岸鎮衛「石中蟄龍の事」

「左様に怪しき石ならば、如何なる害をなすやも知れぬ。焼き捨つるがよかろう」と述べたが、「それはとんでもない事」と斥け、結局、人家より離れた所に一宇の堂社があるゆえ、そこに納めるのがよかろうと決した。一同は件の堂社へ赴き、石を納め置いて帰った。然るにその夜、件の堂中より雲を起し豪雨を降らせ、風雨雷鳴と共に上天するものがあった。後刻、堂社に到り検分したところ、かの石は二つに砕け、堂の様子は全く龍の昇天した跡の体であったと、邑中の者が奇異の思いをなした。その節、「石を焼くべし」と発言した者の家宅は微塵になったという。(pp.71-72)


鉱物をめぐる思想・随想ブロック

アンドレ・ブルトン「石の言語」

石は、成人に達した人間の大多数をすこしも立ちどまらせずに、そのまま通りすぎさせてしまうわけだが、それでも万が一ひきとめられるような人がいると、もうとらえて離さなくなるのが常である。(p.149)

おなじ道すじをゆくふたりの人間でも、両者が奇妙に似かよっているのでないかぎりは、おなじ石を拾いあつめることはできないはずだ、と私には思われる。ことほどさように、たとえまったく象徴的なかたちでしかみたされない状況であるにせよ、人は深層でなにか欲求を感じた対象だけを発見するものなのだ。(p.151)

ためらいこそ、こうした石に、「自然の気まぐれ」と芸術作品とのあいだの、ひとつの鍵としての位置をさずけがちなものである。(略)人間はみずからのもっとも貴重な特質のいくつかを放棄したことによって、石たちを残骸とみなしおおせることができたのだと思われる。石たちは――とくに硬い石たちは――まともに耳をかたむけようとする人々に対して、語りかけつづける。(p.154)

ピエール・ガスカール「鍾乳石」

何ともわけのわからぬ重なり方や曲がり具合のせいで、石の形は、個々に見ようが全体として見ようが、全然定義できず、幾何学の法則に還元できず、したがって記述できない。(略)鍾乳石や石筍の形成を支配する非合理なるものは、原始芸術を支配する非合理に近い。(p.155)

石に新しい名前をつけ、それを通じて洞窟の各部をも新たな名称で呼ぼうとするのは、多分この洞窟が自分たちのものだということを確認し、また洞窟に寄せているひそかな期待を表明するためでもあろう。だが遠慮からか、内心を見すかされるのを嫌ってか、どんな名前にも満足できず、やがて思いついたのは、石とそれを容れている広間を単なる番号で呼ぶことであった。(p.160)


日本の小説ブロック

稲垣足穂「水晶物語」

路ばたの石も、海岸の石も、共に永い永い歴史を持っているのだと云わなければならない。(略)ただひとり石や砂だけがずっと続けて昔通りだ――これは何故であろう。おしまいのそのおしまいに石はどうなるのか。この同じ場所に再び埋まってしまうならば、その次に自分のような者によって拾い上げられるまでには、きっと何万年かが経過している。それでも石は目立つほどに小さくなっているわけであるまい。更に次回に何万年が続く……とうとう粉微塵になる時がきたところで、その粒の一つ一つには永い歴史の記憶が含まっている。(p.36)

日野啓三「石の花」

石を集め出してみるとそれは思いがけなくきれいな鉱物があって、そのうちにこんな石の話の花園ができてしまったんですね。石の花なんて言ったって、死んだ石ころじゃないかとおっしゃるのですか。まあ、そんなことを。結晶もスクスクと成長するにでございますよ。(p.139)

「物質の深みに封じこめられている何かと、われわれの意識の奥に閉じこめられている何かとは、もしかすると同じものかもしれない」「わたしたちが石の花を育て咲かせようとしていることは、そうすると、わたしたち自身のなかの新しい何かを解き放つことでもあるのですね」(p.140)


詩歌ブロック

オハマ族の歌「岩」

かぎりなく遠い むかしから じっと おまえは休んでいる 走る小路のまんなかで 吹く風のまんなかで(p.135)


2025年3月16日日曜日

木村重信「石と日本人についての芸術的考察」(『日本人と石』より)

株式会社エス出版部より編集・発行された『日本人と石』(1992年)は、「第1部 心」「第2部 技」「第3部 西洋との出会い」の3部に分かれて、石に関する信仰・芸術・石造技術・建築を中心に構成された全144ページの写真集である。

今となっては出版意図がつかめないところがあるが、バブル崩壊直後、出版不況の入口に立ちつつも、英対訳を載せた豪華版で西洋文明の公害化に対する警句も散りばめられた一種の時代感がふんだんである。

巻頭言を飾るのが国立国際美術館長の木村重信氏「石と日本人についての芸術的考察」である。これが短文ながら、石と人間の関係を芸術分野から考える際の有効な資料となるので、次の記述を紹介する。


日本の芸術家は、石に対して付加する述語ではなく、主語である石そのものの実存を問題にする。したがって欧米の彫刻がひとつのコンストラクションであるとするならば、日本の石庭はかかるコンストラクションを否定し、いわばアレンジするだけである。欧米的芸術観ではアレンジしただけでは芸術にならず、コンストラクトして初めて芸術となる。しかし日本人はそうは考えず、アレンジメントこそ重要な芸術的契機であるとする。(略)アレンジメントには、いけばなの場合も、石庭の場合も、自然のものをどのように組み合わせても、もの自体は自然を越えることはできないという考えがひそんでいる。(同書p.13)


「日本の芸術家は~」「日本人は~」などの主語が大きく、学術的にデータを明示した論拠になっていない。言い換えれば西洋=人工、東洋=自然を貴ぶとする1992時点の構図であり、それ以降相対主義が進んだ2025年現在では人口膾炙の文明観と言えるが、アレンジメントの概念は今なお参考となると思う。

自然が主語であり、アレンジメントは自然を越えることがないという木村氏の見方は、そのまま、自然の石のままの方が芸術になりうるという許容を生み出し、なぜ自然石の石肌をそのままにして置いたか、石を動かしても自然芸術として鑑賞されたのはなぜか、の回答となる。

また木村氏は、自然がもたらす「偶然性」が鑑賞者に自由を確保することにつながり、鑑賞者の感受性や想像力いかんで芸術としての価値は大きくも小さくも変化し、その鑑賞作用によってある人には作品となり、ある人には作品となりえないというところに自然の美があるという鑑賞観を提示している。

美の認定も人の心理ありきで、自然物は「偶然性」が「美の訴え(契機)」となる論理は、自然石信仰を含めた自然石文化を考える上での重要な指標となるだろう。


「変身する空間――石」(岩田慶治『草木虫魚の人類学』より)

岩田慶治『草木虫魚の人類学』(講談社 1991年)の第2章第2節が「石」であり、海外のアニミズム(草木虫魚教)に関する石の事例を取り上げている。


ニュージーランドのマオリ族

緑石を加工して石器を作る。

日常使用は打製石器のままでよいが、加工と研磨を加えたものは装飾品となる。

それらの中で、何世代にもわたり研磨されたものは、労力の結集、祖先伝来の宝器となり、子孫の礼拝を受ける。

これは石が石でなくなり、石のメタモルフォ―ゼと岩田氏は形容する。

自然石信仰とはまた異なる、加工された石に対する信仰と言える。


ボルネオ内陸に住むケラビット族

インドネシア領カリマンタンとの国境地帯に多くの巨石が残るといい、ケラビット族の所産とされる。

バトゥ・ナンガンとバトゥ・シノパッドという二種類の巨石構造物を作る(バトゥは「石」の意)。

村人の話によると、バトゥを作ることで個人の霊を慰め、個人の霊魂がさまよわないようにするためだという。

ケラビット族は4種類の階級に分かれていて、バトゥを作るのは第一階級のみという。


バトゥ・ナンガン

ナンガンは「支える」の意。大石を数個の石で支えたもの。いわゆるドルメン型の構造物。

生前に功績を残した人物や首長を記念して、死後に村人が建てる。


バトゥ・シノパッド

シノパッドは「立てる」の意。細長い石を地上に垂直に立てたもの。いわゆるメンヒル型の構造物。

祖父母、父母の死後に子孫が建てる。


バトゥを作る時のルール

個人の記憶が残る死後1~2年のうちに行う。

バトゥの立地は、山地だが村人がよく通る場所が選ばれる。峠道が多い。

村人が結集して石をその山地に運ぶ。

七日七夜にわたる祭りを行う。故人の思い出を語り、家畜を屠り供えて、村人全員で共食の後に歌と踊りを連日行う。


興味深いこととして、現在のケラビット族はバトゥを作らないが、それ以外は今も同様の祭りを行うということで、石は主役ではなくなっている。

岩田氏は「石はカミの依り代でありえたのだろうか」という疑問を投げかけているが、その答えは明言されていない。


ドルメン、メンヒルに属する巨石文化の典型的事例として語られるものだろう。


2025年3月9日日曜日

霊巌寺の巌廉(京都府京都市)


京都府京都市北区西賀茂船山


霊巌寺(りょうがんじ)の巌廉(いわかど)は、『今昔物語集』巻第三十一「霊巌寺別当砕巌廉」に登場する岩石で、巌廉は岩門・岩穴と同義とされる。

以下、丸山二郎[校訂]『今昔物語集 本朝篇 第5』(岩波書店 1954年)を底本として、該当箇所を現代語に意訳しておく。

―――

今は昔、北山に霊巌寺という寺があった。この寺は妙見が現れた所である。寺の前から三町(約330m)ばかりの所に巌廉があった。人が屈んで通れるくらいの穴があった。たくさんの人が詣でて験あらたかなので、僧坊が数多造られて大いに賑わった。

ある時、三条天皇が目を病んだので霊巌寺に行幸するという話が出たが、巌廉があると御輿が通れないというので、行幸はなしとするということを霊巌寺の別当が聞いた。別当は、行幸が起これば私は必ず僧綱になれるのにと思って、行幸を起こすために巌廉をなくそうと思った。別当は人夫を雇い多くの柴を刈り、巌廉の上下に積んで火をつけて焼こうとした。

同じ寺の年長者の僧からは、この寺の霊験あらたかなのは巌廉によるもので、この巌廉を失ったら験が失せて寺は廃れるだろうと嘆く声もあった。しかし別当は我欲のためにそれらの僧たちの言うことには耳を貸さず、柴に火をつけて岩廉を焼いた。

こうやって岩廉を熱した後に大きな鉄槌で打ち砕いたところ、岩廉はことごとく砕け散った。その時、巌廉が砕け散った中から百人ばかりが同時に声を出すかように轟音を発したので、僧たちは、ひどいことだ、この寺は荒ぶ、魔障に謀られたのだと別当に悪態をついた。

巌廉はこのように失われたが行幸もないままで、別当の喜びも止まった。別当は寺の僧たちに嫌われて寺にも来なくなった。その後、寺は荒れに荒れて堂舎・僧坊もすべて失われ、誰も住まなくなりただ木こりが使う道になった。

これを思うに、益のないことをしでかした別当と言える。僧綱になる可能性がなくなるからといって、巌廉をなくすことにするとは智慧のない僧ではないか。智慧なく我欲にとらわれて霊験の源泉を失うという空虚な出来事である。ということで、その場所にはその場所の験が存在する(所ニ随ヒテ験モ有ケル也)と語り伝えられたという。

―――


巌廉は寺の霊験の源泉として信じられたこと、そして、そんな中でも我欲にとらわれると信仰当事者の仏僧ですら霊岩を破壊する移り気のあっただろうことが当時の人々の心性として読み取れる。

仏教者にとって、本尊ではない、土地に根差した岩石という存在に向けられた一種不安定な立ち位置を示すだろう。しかし「所ニ随ヒテ験モ有ケル也」として無視できなかったのである。


さて、この巌廉、ひいては霊巌寺がどこにあったのか、そもそも実在したのかということには長年の議論があった。

霊巌寺自体は今に存在せず詳細な場所は未確定の段階であるが、候補地として西賀茂の船山南山腹が有力であり、一部の文献では船山に造成されたゴルフ場内にそれらしき一対の岩門状の岩石があると報告されている。


川勝政太郞「芸苑紀行 西賀茂の石佛と岩門」(『史迹と美術』29-3、1959年)では、川勝氏が実際にゴルフ場を見に行き、「岩門と見られる向い合った巨岩」を確認している。詳細位置を地図上で記録してくれていないのが残念だが、その岩石を撮影した写真をp.119に掲載しており参考となる(門のように一対となった岩石の後ろにはゴルフ場とみられる開けた傾斜地、そして船山らしき山容が望める)。

このゴルフ場の辺りで同志社大学の酒詰仲男教授らが堂跡や古瓦を見つけて、ここを件の霊巌寺に比定した話にも触れている。


寺河俊人『幻の寺』(春秋社 1970年)にもこれと同一物と思しき岩石が報告されている。

今では霊巌寺跡はゴルフ場になって、手入れのゆきとどいた芝の丘陵がゆるやかなスロープを見せている。およそ六十万平方メートルというゴルフ場の私道に車を乗り入れて、西の端に行ってみた。そこに大きな岩がある。今もゴルフ場のコースとコースを結ぶ通路の門になっているが、もとはといえば、霊巌寺の山門だった。(寺河、1970年、p.121)

ゴルフ場の西の端あたりで、通路の門のようになった岩石という具体的なヒントがある。

ちょうどその辺りは「西賀茂岩門」の地名まで残るが、これが歴史を忠実に伝えるものとして素朴に信ずるべきか、後世の付会によるものと史料批判を経るかの作業が必要である。

前掲文献群では断定的に霊巌寺の岩門と書かれていたが、現時点では候補地とみるにとどめるべきだろう。

いずれにしても、候補の岩石が現在もゴルフ場内に現存するのか、その正確な位置確認から望まれる。


また、西賀茂船山の北に隣接して西賀茂妙見堂の地名が残るが、文化財上はそこに西賀茂妙見堂遺跡が確認されている。

最近の報告として、立命館大学考古学研究会が同地で岩石の露頭を確認している。

妙見堂は霊巌寺の別称として知られ、そこに寺域地形が見られて露岩が存在することも『今昔物語集』の巌廉と関連して考慮されていく必要があるだろう。