2025年6月7日土曜日

荒鎺山/堀谷アラハバキ神社(静岡県浜松市)


静岡県浜松市浜名区堀谷

社頭扁額には「荒鎺山」とある。

明治時代に建てられた石碑には「荒鎺●神」とある。 ※●は「大」「土」「之」のいずれかで、現地案内を参考にすると「荒鎺大神」か。

岩石頂上。岩山の観を呈す。

向かって右側から撮影。

向かって左側から撮影。

神社から道路を挟んだ向かい側にも注連が張られた露岩が存在。かつては道路をまたいで岩石同士を注連縄で渡していたともいわれる。

字・堀谷に鎮座するアラハバキ神社なので堀谷アラハバキ神社と表記されることがあるが、単にアラハバキ神社ないしは、社殿を擁さないので扁額・石碑に記された荒鎺山・荒鎺大神が元来的な呼称だろう。

いくつかのソースで文献調査を行ったが、当社の文献史学的な情報にたどりつくことはできなかった。いわゆるアラハバキ信仰の詳細についても不明といわざるを得ない。


補足情報として、旧堀谷村は石灰が産出される地として明治時代以前から知られていたようである(浜松県[編]『遠江国地誌小成』1874年)。

当社の北500mという距離には、堀谷洞窟という石灰岩の鍾乳洞がある。

人類学者の近藤恵氏を中心としたグループが2021~2024年度にわたって堀谷洞窟を調査しており、結果、縄文時代草創期に遡る可能性をもつ土器片の発見にいたった(「静岡県西部の石灰岩地帯における旧石器~縄文時代層の人類学・考古学的調査」)。

堀谷が縄文時代から人足のあった地であることはたしかである(これをもってアラハバキと縄文時代を接続するのは安易である)。


遠州山辺の道の会の会員である郷土史家・小野田正吉氏が当社について講演をされている。小野田氏であれば地元に伝わる資料などをお持ちのことと思い、詳しくご教示を乞いたいものである。

歴史講座:仮説、アラハバキ神と式内社


2025年6月2日月曜日

御白山浄居院の岩石信仰(静岡県浜松市)


静岡県浜松市北区引佐町奥山 浄居院(じょうごいん)


「浄居院の巨岩群」として地元では知られていたようで、竜ヶ岩洞にある「夢現の岩穴」掲示板には渭伊神社境内遺跡、幡教寺の巨石と共にその名が挙げられている(参考)。

浄居院

本堂向かって右奥に小丘が続き、上写真のとおり岩肌が露出しているのが参道からも見える。
境内から小丘に登る道が設けられている。

入口に置かれた灯籠

巨岩群入口

朱の鳥居でまつられた巨岩群が存在する。それぞれの高さはゆうに10mを越えるだろう。
巨岩群の懐に抱かれるように、少なくとも三か所に分かれて祠が鎮まる。

祠① 背後に亀裂をまつる。

祠② 手前に注連が張られているため正面から拝むことはできない。

祠③ 本堂向かって左側から墓域の奥に鎮まる。

他で見ない特徴は、巨岩と巨岩の割れ目を渡れるように、コンクリート製の石橋が架けられていることだ。

石橋(下から撮影)

石橋の上から祠①を撮影。

巨岩の亀裂の高さは奥方で10mを越えると思われる。

製法からして昭和時代の遺構と類推されるが、一種独特の参拝体験を通して丘の頂上まで参拝できる。
頂上には三体の石仏が石祠に納められていた。

丘の頂上

引佐の奥山地区の他の寺院と同様、臨済宗方広寺派に属す寺院であるが、この寺院に関する情報は少ない。常住寺ではなく、現地には説明板もない。インターネット上の情報も管見のかぎりほぼ皆無も同然だ。

唯一参考となるのが、静岡県引佐郡教育会編『静岡県引佐郡誌』下巻(1922年)に収録された「背山薬師如来記」という文献の記述である。

明和3年(1766年)、背山に薬師堂が落成した縁起を記した内容(安永年間成立か)であるが、背山(奥山地区の山間部の地名)はもともと御白山といわれていたという一節があり、浄居院に薬師堂は存在することから背山の薬師堂は現・浄居院のことを指すとみてよい。

岩石の名は伝わっていないが、御白山という名は岩肌から由来するものと思われ、岩石自体が山と同一視されていた可能性もある。

同書によれば、薬師如来は石像で顕され、初めは白山(御白山)の下、その後、岩壁の間にまつったという。
当地の巨岩群との関係が垣間見える記述である。

しかし、「薬師如来の石像及妙理権現の社は其の創造を詳にせず」の一文もある。

妙理権現の社は、巨岩群の裾にまつられた祠のいずれか、またはすべてを指すものと思われるが、薬師堂の建立以前の歴史は江戸時代当時の人々にとってもすでに不明だったことが窺われる。

2025年5月24日土曜日

岩巣と神座古墳群(静岡県湖西市)


静岡県湖西市神座 嵩山中腹


「今調査している古墳の近くに、大きな岩がごろごろしている場所がある」と駒澤大学の方から聞いたのは2013年だった。

気になる存在だったが、それから10年以上経過して時機到来して現地を訪れた。

古墳群は現地の地名から神座(かんざ)古墳群として知られ、そして岩群にも岩巣という名で呼ばれていることを知った。


駒沢大学考古学研究室による発掘調査報告書も2016年までに通算5冊発行され、調査にも一区切りついている。

報告書によると、神座古墳群は神座A・神座B・神座Cの3つの群に分かれて計27基が分布し、そのうち神座B古墳群の8基(うち1基所在不明)が嵩山(すやま。標高170m)という三角山に存在している。

一部の古墳が発掘され、結果、おおむね6世紀後半~7世紀初めに築造された群集墳であることが明らかになった。

嵩山(神座地区から撮影)

神座B古墳群

その古墳群に隣接するのが「岩巣」と俗称される自然石の群れである。

高さ5mを越える立柱状のチャートの露頭であり、一見した雰囲気は、同県浜松市の渭伊神社境内遺跡のチャートの露頭と類似するものがある(丘陵上という立地も共通)。

渭伊神社境内遺跡では自然石の傍らから古墳時代の祭祀遺物が見つかったが、岩巣では2012年に地形測量がなされたものの直接的に古墳時代の遺物は見つからなかった。その代わりではないが、古墳という厳然たる古墳時代の遺構が隣り合うという状況を見せる。

具体的には、岩巣は嵩山頂上から北東に延びる支峰頂上(標高98m)に露出し、その岩巣を挟んで東に3号墳、西に4号墳が築かれる。

それぞれの古墳からは肉眼で岩巣を認識できる近さであり、古墳築造時にこの岩巣の存在を知ったうえでこの地に古墳(墓域)が形成されたということになる。

岩巣(頂上部)

立柱群(4号墳側から撮影)

3号墳側から撮影

岩巣には岩陰があるものもあるが、防空壕として利用されたものもあるとのこと。


前述のように岩巣からは遺物が出土しなかったため報告書上ではほぼ看過されている(言及しようがない)存在となっているが、本記事ではもう少し岩巣に言及したい。


岩巣はその名称以外に特段伝承も信仰・祭祀の跡もみられない存在だが、尾根先端にある岩の一岩石上からは麓が一望できる好立地である。

岩巣の尾根端(東端)

麓の眺望

麓の神座地区には、産土神としての上座神社が鎮座する。「上座」は「じょうざ」と読むが、元は「神座(かんざ―かみざ)」から転じたものとみるのが適切である。

上座神社は寛永11年(1634年)の創建といわれるので古墳時代に遡るものではないが、地名としての神座がいつまで遡るか、そして嵩山の聖山としての位置づけがいつまで遡るかという点はさらに追究されてよい問題だろう。

なお、上座神社境内の北西隅には下写真の岩石がまつられているが、これは「最近」置かれたものだという(中根 2002年)。

上座神社境内の岩石

興味深いのは、神座B古墳群の石室石材は現地性のチャートだったことが判明しており、つまり、嵩山の岩石を採ったということになる。

ドライに見れば、岩巣は単なる石取り場の跡だったのかという見方さえできる。当時の人々にとって、嵩山は山に手を入れて墓を造成して良い場所であり、そこにある岩石で石室を造ってよかったという認識にあったことがわかる。では岩巣にも手を入れてそこから岩石を採ったのではないかという実利的な側面である。

一方で、同じ浜名湖周縁地域に属する渭伊神社境内遺跡では自然の露岩群を対象とした祭祀が確認されているわけで、こちらは岩石を神聖不可侵なものとする見方が語られる。


両者が相まった考え方としては、岩石に聖性を認めたからこそ、その聖なる岩石を墓に利用したという意味での岩石信仰も仮説として浮かぶ。この場合、自然石は利用されてそれでも信仰として成り立つ。

発掘の中で、7号墳からは古墳時代の焼土層も検出されている。順序としては、墳丘築造前に地山を整地して、その後に整地面で火を焚いて、それから石室と墳丘を構築していくという流れである。そのため、古墳築造時の一種の儀礼行為としてなされた跡ではないかと報告書でも指摘されているが、このように山に対して手を入れることと祭祀は両立しうる。

いわゆる山は神聖不可侵で立ち入らないという性格ではなく、山に積極的に立ち入って利用していくという性格の信仰が垣間見える。しかし古墳時代は全般的に文字資料不在につきこのあたりの心の在り方がわからず、現時点では確定的に言えることは少ない。

岩石信仰の観点で見れば古墳と自然石の同居事例の好例の一つであり、古墳石材が現地性であることもわかったという点で今後の研究の参考となるところ大だろう。


参考文献

  • 駒沢大学考古学研究室[編集・発行]『静岡県湖西市 神座B古墳群第1次発掘調査概報』2012年
  • 駒沢大学考古学研究室[編集・発行]『静岡県湖西市 神座B古墳群第5次発掘調査概報』2016年
  • 中根洋治『愛知発 巨石信仰』愛知磐座研究会 2002年


2025年5月18日日曜日

『松尾山寺遺跡』~山林寺院と岩石信仰の関係事例~

立命館大学考古学研究会[編集・発行]『松尾山寺遺跡―平安京周辺山林寺院の調査・研究―』(2025年)が発行されました。

2003年、初めて松尾山を紹介されてその時に登った一人として、20年越しの区切りを見た思いです。

 

京都市の松尾大社の裏山・松尾山で見つかった寺院跡の調査報告書です。

京都で見つかっている、古代から中世にかけての山林寺院遺跡の一例となりますが、他例と比べて土師器の割合が高い遺物構成というのが特徴ということがわかりました。


灯明を灯すための皿が多く出土した同市内の梅ヶ畑遺跡との関連性が挙げられていて、興味深く読みました。

梅ヶ畑遺跡は発見当時、仏教系祭祀遺跡という位置づけでしたが、京都市埋蔵文化財研究所による遺物再整理を通して寺院跡という見直しがされていたことも初めて知りました。


報告書では、岩石信仰と山寺の近接性も指摘されていました。

正確に書けば、報告書上では「岩石信仰」ではなく「磐座」「巨石」「巨岩」の3つの表現が同義的に使われていました。

当会の過去会報『考古館』での私の議論(2001年~2003年)が継承されていないのは残念ですが、継承できなかったのは私の力不足でもあります。


巨石信仰・巨岩信仰という言葉自体が不適切というわけではありません。

"巨大な岩石"という"巨大さ"に信仰の要因の重きを置く文意として使ったのであればアリだと思います。

実際、松尾山の磐座も類例として挙げられた大宮釈迦谷遺跡・西賀茂妙見堂遺跡の事例も"巨大な岩石"と言えるので、巨大なものへの信仰という共通性はあるでしょう。

ただ、せめて巨岩と巨石の表現一致は欲しいところです。
(石と岩の概念整理)


山中の寺院と平地の神社との関係、社地に対する神宮寺としての関係なども問題提起されていました。

報告書では明示されていませんでしたが、管見のかぎりではに岩石信仰との関係も複数事例を挙げることができます。

その辺りをまとめると下のとおりです。

遺跡名岩石寺院神社古墳
松尾山寺遺跡
名称磐座(ご神跡)松尾山寺松尾大社松尾山古墳群
立地山頂直下山腹平坦地山裾山頂尾根
梅ヶ畑遺跡
名称石塊・巨岩群御堂ヶ池古墳群
立地山頂・山頂直下山頂山頂尾根
大宮釈迦谷遺跡
名称巨石釈迦谷廃寺上賀茂神社
立地山腹対岸平地
西賀茂妙見堂遺跡
名称巨石霊巌寺上賀茂神社
立地今昔物語伝承上対岸平地
上賀茂神社
名称降臨石神宮寺上賀茂神社
立地神山山頂神宮寺山山腹神宮寺山山裾
参考:滋賀県日吉大社事例
名称金大巌日吉神宮寺日吉大社日吉古墳群
立地山腹山腹山裾山裾~山腹

突貫で作ったので色々調べが足らないところもありますが、岩石と山林寺院の関係については距離の近さ/遠さをどのように評価するかという論点は提示できます。

滋賀県日吉大社事例では、金大巌と日吉神宮寺が山域を分け合って存在していたという説が出されており、他例でも検討されるべきテーマです(「金大巌と日吉大社の岩石信仰」)。

梅ヶ畑遺跡の石塊と寺院跡は立地を同じくする同居例と数えられるかもしれませんが、梅ヶ畑遺跡における岩石信仰は厳密にいえば山頂の石塊と山頂直下斜面上の巨岩群(銅鐸出土地で今は消失)の2地点に分かれます。

この場合、寺院跡と銅鐸出土地の巨岩群とは、直線的な距離とは別で、立地としての空間の分け合いが認められます。


その観点から松尾山をふりかえると、松尾山の磐座(ご神跡)は山頂直下斜面上に存在するのに対して、松尾山寺は北に離れた山腹平坦地に築かれています。尾根は1つ分またいで山域を分け合っているという考え方もできるかもしれません。


神社については梅ヶ畑においてこれといった神社が指摘できませんが、古墳については報告書でも指摘されているように古墳時代後期の群集墳が共に存在しています。

これらの立地は、山頂尾根に数十基が分布しており、岩石信仰の関係でみれば、梅ヶ畑は古墳のすぐ上に銅鐸埋納地の巨岩、松尾山は逆に磐座(ご神跡)の上の尾根に古墳が築かれています。

その点で両者の立地に統一性があるわけではありませんが、それは自然石が人の手によらない地質的存在であることと、古墳は尾根上のほうが作りやすいという築造条件によるものなど、信仰上の問題とは別の要因も考えないといけません。

言い方を変えれば、そのような諸条件・諸要因による規制を受けても問題ないという信仰のありかただったとも言えます。


対応する神社や古墳を指摘できない事例もあるので、前掲表の事例群がぞれぞれ比較対象として適切かには異論もあると思いますが、時代を越えて山地利用をおこなう際に、それ以前に存在した「聖地」を後世の人々がどのように位置づけて、山での同居ないしは住み分けなどを図っていたかはさらに注目されてよい問題でしょう。


立命考古研の皆様には、山林寺院跡発見によって測量が途絶した松尾山古墳群の調査の再開を望みたい、と勝手な希望を記して今後の活動継続を祈っています。


2025年5月17日土曜日

「日本列島の自然石文化と岩石の信仰」オンライン参加方法

本イベントは終了しました


―――

先日お知らせした

日本地球惑星科学連合(JpGU)2025年大会でポスター発表を行います

このポスター発表について、予稿集と参加方法が発表されたのでご案内いたします。


予稿集より


日本列島の自然石文化と岩石の信仰

吉川宗明

キーワード:自然石文化、岩石信仰、磐座、巨石、鑑賞石


人が岩石をどのように利用したかではなく、人が岩石に接してどのように感じたかに注目したい。

自然に存在する岩石に影響を受けて生まれた文化を自然石文化と呼ぶ。その一つの極致が、岩石を神や仏、精霊としてあがめるなどの岩石信仰である。自然石のまま信仰する場合もあるが、場所だけ動かして並べたり積んだりして祭りをする場合もある。また、場所は移動しないが自然の岩肌に図像や字を刻んで拝む場合もある。もちろん、石材として完全に切り出して整形したうえで成立した信仰もある。

岩石にどれだけ手を入れたかという違いはあるが、これらはすべて、岩石が露出した時の自然の姿に対して抱いた心理の差とも言える。一方で、自然石を見て石材として用いない選択をした心理や、神仏として崇めるにいたらなかった心理、そもそも岩石を意識することなく放置したという心理のありかたも存在する。岩石と一言でまとめても、自然石のありかたによって人の感受性には多様性が認められる。

本発表では、磐座や巨石信仰と通俗的に呼ばれる岩石から、そのような用語では当てはまらない数々の岩石信仰の事例も紹介して、岩石信仰の領域の理解につなげる。さらに、自然石に美を見出した水石や庭石などの鑑賞石、聖でも美でもない民話のキャラクターとして登場する岩石など、自然石文化の裾野の広がりも明らかにする。

人間と岩石の精神的な関係は、さまざまな学問において分析されるべきテーマということが伝わる発表を目指す。


大会サイト:日本地球惑星科学連合(JpGU)2025年大会

発表日時・場所


■ 発表日時
2025年5月25日(日) 9:00~19:15

※JpGU大会の会期は2025年5月25日(日)~30日(金)ですが、5月25日のみパブリックセッションデー(一般公開日)として一般向けのパブリックセッションが用意されています。パブリックセッションは事前登録の上で無料参加・観覧ができます。
吉川の発表はパブリックセッションで、地学関係者に限らず一般の方向けにポスター掲示を行います。

■ ポスター実物掲示会場 
幕張メッセ国際展示場 7・8ホール
※入場には事前登録が必要

■ オンライン掲示URL
オンライン上のポスター掲示サイト「Confit」
https://confit.atlas.jp/guide/event/jpgu2025/subject/O05-P02/detail
※ログインには5月24日までの事前登録が必要

吉川はオンライン参加ですので現地会場にはいません。
ポスターはConfit上でいつでも観覧できますが、コアタイムと言って発表者が質疑応答で常駐する時間が定められています。
コアタイムは、5月25日(日)17:15〜19:15です。この時間帯はConfit内で待機していますので、Confit内のコメント機能を使って、発表者と質疑応答(チャット)を交わすことができます。吉川と会話したい方はこの時間内でどうぞ。

参加方法

オンライン(Confit)上で参加する方法を案内します。

発表日前日の5月24日(土)までに、下記の申込フォームから申し込んでください。

「パブリックセッションオンラインポスター参加申込フォーム」
https://business.form-mailer.jp/fms/6108b4b4144375

大会事務局より、ConfitにログインするためのIDが無料で発行されます。5月25日 1日限定のIDです。
お手数をかけますが、パスワードも設定していただく必要があります。

大会当日(5月25日)に申込しても、大会事務局は当日会場で運営に専念するため、IDの発行はできないとのことです。ご注意ください。

その他詳細は以下の参考リンクにてご確認をお願いします。


参考リンク

一般公開(パブリックセッション)参加者の方へ|JpGU2025
https://www.jpgu.org/meeting_j2025/for_public.php