| 磐境石/おぼれ石 |
| 坂手大神御神石 |
| 現地看板 |
| 注連縄で若干隠れているが「坂手大神」の刻字が確認できる。 |
| 磐境石(おぼれ石)の背面 |
| 磐境石/おぼれ石 |
| 坂手大神御神石 |
| 現地看板 |
| 注連縄で若干隠れているが「坂手大神」の刻字が確認できる。 |
| 磐境石(おぼれ石)の背面 |
白山神社の境内にあった石で、夜ごと丑三つ時になると泣くので、外に出したら泣きやんだ。堀田吉雄 編著『東海の伝説』,第一法規出版,1973. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12467820 (参照 2025-11-10)
一般的な夜泣き石は神社の中に移されることで泣き止むと言えるのか、事例数を元にしたデータで見たことはなく論拠不明だが、夜泣き石境界神説については今後検討の余地がある。
津島神社境外摂社の大土社の社殿裏に、石垣に突き出た形で基壇が用意されその上に岩石が置かれている。
石棒状と形容するには短寸であり、本来何を志向した形なのかは一考の余地がある。
津島市の観光案内などでは「大土社の石神様」と紹介されることが多いようだ。
しかし、大土社は石神様の現所在地を指すにすぎず、歴史的にはもともと少し離れた辻沿いにあり、「石神社」として一座の社扱いだった。
明治43年(1910年)の津島の大火により社地焼失してから、大土社に石神様のみ移設されたという流れらしい。
このあたりの沿革について最もまとまった記録として、子宝信仰の事例を医療の観点から取り上げた『愛知県医事風土記』(1971年)を引きたい。ここでは「石の陽物」と題して紹介されている。
大土社背面にあって、明治四十三年、辻(現在、市道元標あり)の大火までは辻東側の石神社のかこいの中にあったという。辻は名古屋から津島への東西の道路と津島北口から佐屋、桑名への南北の道路との交差点で、古くから道祖神が祭ってある。道祖神が陽物をシンボライズしていることは諸国の例から考えても珍らしいことではないが尾張地方には珍らしいというので、民俗学に興味のある人々が時々来訪し、寸法を測ったり写真を撮ったりして行く。子のない人が妊娠を祈り、また良縁があるように祈る人があるという。
『愛知県医事風土記』,愛知県医師会,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12644342 (参照 2025-10-30)
なお、愛知県が運営するサイト「Aichi Now」の紹介文には、「おもかる石」の別称も挙げており、石を持ちあげてその重さでご利益を占う祭祀も付帯している。運試しをしてはいかがと同サイトでは推奨しているが、岩石の大きさとしては今後の保存が不安になるほどである。前掲文献では、かつては石神社のかこいの中にあったというから、その頃におもかる石の祭祀があったのかには疑問もある。
また、「NPO法人 まちづくり津島」のサイトには「旧石神社跡地にも陽石が置かれています」との興味深い一文が見られる。旧社地とは、現・大土社から西約400mに鎮座する秋葉神社(境内に大土社の祠がある)の辺りではないかと思料したが、秋葉神社およびその手前の道沿いには確認できなかった。他の場所かもしれない。
| 秋葉神社(津島市橋詰町2丁目)。写真右が大土社の祠。 |
直径二メートル、一.四メートル、三メートル短径一メートル前後の滑らかな硬砂岩の自然石三個が、境内に巴状に置き並べられています。この三つ石は「尾張名所図会」の神社境内図にもほぼ現在の位置に描かれています。津島神社は欽明天皇元年(五四〇)にここ居森の地に鎮座したと伝承されており、古代祭礼の場としての磐境と考えられることから、神社の鎮座と何らかの関わりがあるのかもしれません。
(現地看板より)
| 白雲神社の社殿背後に存在。玉垣は岩石を囲わず手前の供花台と板石の部分を覆うのも独特である。 |
| 写真中央の岩肌に凹凸の陰影の深い部分があり、これを人面に準えたものか。 |
| 側面から撮影。岩石の基部には、岩盤に石を噛ませているようである。 |
| 現地看板 |