JpGU2025で発表した内容の一部です。
pdf版は↓よりどうぞ。
http://www.yokkaichishibunkakyoukai.com/Pass77.pdf
尾張大國霊神社の磐境。本殿向かって右手前に存在。 |
写真中央の立札の裏あたりが、拝殿と廻廊の境目 |
その境目から磐境を撮影すると上写真のようになる。 |
西から撮影 |
南から撮影 |
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磐境の北辺を拡大 |
五石が囲む中で、西側(写真手前側)だけ1人分のスペースが空く。 |
袋井市には寄木神社が三社あるが、その中で最も原型とされるのが西同笠の寄木神社である。
その証左とされる存在が寄木神社向かって西側に鎮座する、境内社の津島神社の特異な社の在りかたである。
津島神社 |
津島神社を背後より撮影。写真手前の配石は炉か。 |
葉で覆われた高さ1.6mの高床式の建物である。
竹4本を四方に立てて、中心に立てた白木の角材の上に神札を付け、その周りを大量の葉で覆い塀とする。葉は境内に繁る杉の葉が用いられる。
極めて原初性の高い建築であり、遠州灘沿いの海岸部において寄木という地名から、海からの漂着神信仰に由来するものではないかと考えられている。
その漂着神のよりつく霊代としての木の信仰が、地名と立木の祠に現れ出たということになるが、岩石信仰の観点から注目されるのは、祠を設けた場に敷かれる「砂」である。
津島神社の聖域に敷かれた砂(雨天時の撮影のため祠の周囲は濡れている) |
この祠が建てられる聖域には約二メートル四方にわたって、高さ五センチほど白砂が盛られている。そして、前面の二本の自然木を柱として注連縄が張られている。この祠の造営は毎年交替で一〇名ずつの神役によって行なわれる。神役は部落の南にあたる遠州灘で禊ぎを行ない、続いて、渚の清浄な砂を社域用として境内に運び、その後、杉の葉と竹で祠を造るのである。野本寛一『石の民俗』雄山閣出版 1975年
野本氏は、砂運びが年1回という定期的な間隔でおこなわれていることを指摘し、定期的な祭礼で招く神の座として砂が機能していたことに注目する。
砂は、海や水にかかわる神の座として相応しい媒体であるばかりか、「砂は石の小極」とみなす立場から、各地の神社で白砂が敷かれることの意味もあらためて問うている。
岩石信仰における「砂」の聖性を示す典型例と言える。
秋葉山舘山寺に接して太刀山愛宕神社が鎮座する(太刀山は舘山と同音)。
神社の裏には山道が続き、5分も登れば山頂の尾根筋に出る。そこには無数の岩塊が露頭し、一画に玉垣に囲われた石祠が存在する。太刀山愛宕神社の奥宮と目される。
愛宕大権現(太刀山愛宕神社奥宮) |
石祠に捧げられた穴あき石 |
藤本浩一『磐座紀行』(1982年)では「館山寺・磐大権現」と題した一項を置いている。
いわく、『東海道名所図会』の絵図には山の西側に「磐大権現(権現岩)」と書き入れてある場所があり、岩石群の合間に社が挟まれた様子が描画されている。当地の岩石群がそれで、館山(かんざん)は神山に通ずることからここは神山の磐座ではなかったかと所感を述べている。
しかしながら、残念なことに藤本は誤読しており、『東海道名所図会』の絵図に記された文字は正確には「愛宕大権現」である。
下に寛政当時の版本を掲載する。
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国立国会図書館デジタルコレクション『東海道名所図会』65コマ。 インターネット公開(保護期間満了)資料のため転載自由。 |
愛宕が縦書きでやや字が詰まり気味で書いてあるので「磐」の一字に誤認したのかもしれないが、それでもあまりに異なる字であり、「磐」であってほしいという固定観念に冒されていたようだ。
以上のことから、この地は愛宕大権現に関わる岩石群だったということが、歴史学的にもっとも古く遡れる評価だろう。
現地には、岩石の傍らに名前を冠した看板が建てられているものも多い。気づいたものをまとめておこう。
ながめ岩 |
見かえり岩 |
神付岩(かみつき岩)。「頭をカミゝして厄を落して下さい」の説明も付される。 |
寄仲岩。後ろの建屋の床下あたりに「木魚岩」なる岩石もあったらしいが見逃した。 |
初登岩。山頂尾根の岩塊で最大規模。「初登岩」というネーミングは他で聞かない。 |
天辺岩。山頂尾根に沿って屹立する岩石群を天辺に準えたものか。 |
くぐり岩 |
船岩 |
先出の藤本浩一は、同図会の「火穴」という場所も「大穴」と誤読している。
火穴は現在「舘山寺穴大師」「弘法穴」と呼ばれてまつられている場所で、弘法大師がここで修業して自作の石仏を安置し、舘山寺の開基につながったと伝えられる霊窟である。
穴大師入口部分 |
なお、舘山の山中には十数基の古墳の存在が伝わるというが、本古墳の他に古墳認定されているものはない。
参考文献