神社縁起によれば、この神社はもと志摩伊雑宮から勧請し移されたもので、御神体は大石である。この大石はこの地に勧請された夜、突然一夜にして神社社頭に出現したもので、これは仙鶴の化身であると信じられた。仙鶴は勧請と同時に稲一株をくわえてこの地にとび来たったまな鶴で、里人は稲作を伝えた神として信仰してきた。今もこの大石は懸税(かけちから)の御霊石といい、瑞垣の内、社のうしろにあり、地上高さ約一・九メートル、長さ五・四メートル、短かいところで一・八メートルに及ぶ独立した花崗岩である。昭和の初め頃、この霊石の地深くから中世の神杯、竹へらなど土器が出土した。岡田文雄 著『久居市史』上巻,久居市総務課,1972. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9540485 (参照 2026-07-26)
稲葉神社は『延喜式』神明帳に「伊勢国一志郡 稲葉神社二座」として記録され、二座を一社にまつったことがわかる。地元では左殿を伊佐波登美大明神、右殿を穂落大明神と呼んでいる。
一夜にして岩石が出現する類型説話をもつが、細かく見ると、社の勧請が先であり、その夜に後から岩石が出現したという流れになっているのが他例とは異なる特徴と思う。
懸税は稲の供え物のことで、仙鶴がくわえた稲に由来しての「懸税の御霊石」の名称だろう。稲作を伝えた神は地域の開拓神としての神格に通じ、神社鎮座地を稲葉山と呼ぶ地名もここから来ているとみて良い。
鶴は空から降臨する神のかたちを偲ばせるが、岩石の佇まいは地盤に根を張って、地表に岩盤の顔だけを出すかのような地霊の趣も見せる。
稲葉山の段丘は堆積岩の岩相だが、西方には花崗岩を含めた火成岩が広がり、その一部が当地に岩頭として残ったものと思われる。
「中世の神杯、竹へらなど土器」の記述については、竹へらが土器につながらず実態が掴みにくい。
昭和の逸話には正確な記録が伴わないケースが多いが、一応、神社一帯では中世の土師器が見つかった稲葉山遺跡と弥生時代の石器が見つかった稲葉垣内遺跡が確認でき、このうちの前者が前掲書の記述に相当するのではないかと考えられる。
両遺跡とも当地における古くからの人足を伝えるが、遺跡指定範囲を見る限りでは御霊石の場所からはわずかに離れており、稲葉山遺跡が境内入口の向かい側で稲葉垣内遺跡が境内東側に位置する(参考リンク:津市遺跡地図No.118)。