2026年10月25日

白龍稲荷神社の岩山は岸劔神社旧地だった(岐阜県郡上市)

岐阜県郡上市八幡町肴町


郡上八幡城下を散策すると、必ずと言って良いほど目に入るのがこの岩山である。

吉田川沿いに岩山が屹立する。

岩山中腹まで参道が切り込むように造られている。

白龍稲荷神社の名でまつられる。(以上、向井一雄氏提供写真)

岩山には現在、白龍稲荷神社が建立されているが、その沿革は郡上八幡観光協会の下記Facebook投稿に詳しい。


まとめると、

  • 江戸時代の地図には「神路山」「キシツルギ山」と記される場所だった。
  • 岸劔神社の境内に属する岩山だったが、明治19年(1896年)に神社が郡上八幡城内に遷座したため、個人に移譲された。
  • 白龍稲荷神社はその後、大正~昭和初期に建立されたものである。

ということで、歴史的には岸劔神社旧地の神路山・キシツルギ山と呼ぶべき存在らしい。


さらに、岸劔神社はかつて岩剣神社の別称もあったという。それは、神社創建の由来と関わっている。多少の揺らぎがあるので、いくつかの文献を引く。

八幡城下清水彦右衛門なる人吉田川下流の岩間に荘厳なる御剣のかかれるを発見し小祠を営んで奉斎した。慶長一九年当城下の氏神として社殿を造営、岩剣神社として崇められたと言う。
神社本庁調査部 編『神社名鑑』,神社本庁神社名鑑刊行会,1963. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2997363 (参照 2026-10-25)

八幡城下の吉田川の岸(現在の宮ヶ瀬橋の下)の岩間に剣のかかっているのを清水彦右衛門がみつけ自分の家に持ち帰った(現在この岩をかかり岩という)。
太田成和 編『郡上八幡町史』下巻,八幡町,1961. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3008816 (参照 2026-10-25)

仲上善六といへる人、宮が瀬(後ちの名付)洗場の岩上に、不動尊の御剣漂着せるを発見して拾ひ帰り、小山の巖上に小祠を営みて納めけるが、種々の奇瑞ありとて、町内挙りて領主に請ひ、北町の氏神と崇めたり、かかり岩、宮が瀬、岸剣の名は皆是れに因由せり。
戸塚城崖 編『郡上郡案内』,岐阜県郡上郡協賛会,大正6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/958178 (参照 2026-10-25)

どうやら吉田川上流から流れてきた剣が当地の「かかり岩(掛かり岩)」と呼ばれる岩間に漂着し、その剣を岩上にまつったのが岩剣神社、ひいては岸劔神社の元になったことがわかる。

掛かり岩と岩山は別の存在であり、前掲『郡上八幡町史』下巻には掛かり岩の写真も掲載されている。川岸に突き出た岩の突端に御幣をあしらった写真で、ドンビキ岩の別称も付記している。これが今もこのような形で「現在の宮ヶ瀬橋の下の岩間」にあるのかは未確認である。


さらに、この流れ着いた剣は由来不明の存在ではなく、吉田川上流の明宝・気良の地に鎮座した鳥居宮(とりのみや)の神体剣だった。

『明宝村史 通史編』下(明宝村 1993年)には「鳥居宮と成就の宮」の伝説として詳しく記録されている。別場所なので大略を紹介するにとどめるが、雨乞いのために吉田川にある「み幸岩(神流岩)」に鳥居宮の神剣をまつったところ大雨が降り、その濁流で神剣も流されてその漂着先が当地の掛かり岩だったという。このため鳥居宮は別の神を勧請することになり今は「神輿岩」として旧跡ととどめるのみとなり、一方の掛かり岩側では神剣を「成就の宮」と呼んでまつり、後に岸劔神社を号したという。

ここで多くの岩石群の名称が登場したが、また機会があれば明宝・気良の現地を確認したい。一応、Googleマップにこの辺りかと思われるポイントを打っておいた。

郡上八幡城下の岩山は白龍稲荷神社のみの歴史にとどまらず、郡上八幡の氏神である岸劔神社の旧跡であり、上流の鳥居宮と複数の岩石信仰を取り持つ場でもあった。


2026年10月18日

谺石(岐阜県中津川市)

岐阜県中津川市落合

こだま石と読む。

中山道の落合宿と馬籠宿をつなぐ道中に「谺石」の看板が目に入った。

正確には旧中山道沿いではなく、現在は車道として拡幅されたつづら折りの坂にある。

あまり情報が入ってこない岩石だが、すぐ近くに小規模ながら「こだま石公園」があり、webサイト「中山道(木曽街道)六十九次・ひとり旅」によれば、かつては看板に「石に向かって叫んで下さい」と書かれていたらしい。

音が反響する岩石としてのこだま石一例に数えてよいだろう。


2026年10月10日

笠置山(岐阜県恵那市)

岐阜県恵那市中野方町

笠置山 恵那郡中野方村の東南に峙ち、中野方、蛭川、笠置の三村に跨っている。古くは山の形をとって舟伏山と呼んでいた。海抜一一二七、九米。頂上あたり全山熊笹でおほはれ、山頂には鬱々たる太古さながらの巨木を存して居り、又奇岩怪石の賞すべきが少くない、曰く物見岩、百丈岩、潜り岩等
『濃飛の誇り』上卷,岐阜日日新聞社,[1931]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1900931 (参照 2026-10-10)
笠置山(江戸時代までは舟伏山が主流)

物見岩

百丈岩/百畳岩

潜り岩/くぐり岩

富士見岩

山頂の笠置神社奥社の背後斜面

一時期、ペトログラフ探しが過熱していた頃、山中の岩石にペトログラフの存在が報告された。その名残を示す看板。

「NO.6 水を我らにと祈る」。実際にこれらが人為的線刻であるかは後世の批判的検討を待ちたい。


中野方観光協会発行のリーフレット「岩になる。」には下記の岩石群も紹介されている。

・亀岩洞窟/亀天水神
水がわきだす洞窟で、かつて炭焼きをしていた農夫たちに水神として信仰された。洞窟の天井は亀のような形をしていて、洞窟の奥には万病を治すという岩石がまつられている。未訪。

・男岩/上タル(巨大夫婦岩)
高さ約30mといわれる巨岩。未訪。

・女岩/下タル(巨大夫婦岩)
高さ約58mといわれる巨岩。未訪。

男岩と女岩を総称して「タル」あるいは「巨大夫婦岩」という。詳細沿革は情報収集不足につき不明。

2026年10月4日

女夫岩(岐阜県中津川市)

岐阜県中津川市駒場桃山

男岩。根石・男根岩とも称す。高さ7m、胴回り24m。

女岩。陰石・女陰岩とも称す。高さ3m、胴回り30m。

両岩の位置。隣り合わせて存在する。

陰陽石の代表格に挙げられることもある名石だが、その歴史ははっきりせず、出自不明の数多の逸話に彩られている。

まず、現地看板は壮大な由来を物語る。
イザナキ・イザナミの両神が恵那の地で天照大神を産み、両神の化身であるこの二岩を女夫岩と名づけた。その後、元正天皇の治世時(715~724年)、山上憶良が女夫神社を勧請したという。しかし、憶良が女夫神社を建てたという歴史的な裏付けを欠いており自称の域を出ない。

現地看板

性神研究で知られる民俗学者の伊藤堅吉氏は、嫁に逃げられた飛騨の若男と婿に捨てられた東海道筋の娘がこの地で邂逅したことで息絶え、やがてムクムクと女夫岩が姿を見せたという縁起譚を記している(伊藤堅吉『いんよう石:みようと石の姿と土俗』図譜新社 1967年)。
伊藤氏の想像による筆致が混ざるのでどこまでが史実を反映した紹介か掴みかねるが、日本神話に擬せられる前の伝承はこのようなものだったのかもしれない。

これとはまた異なる文脈で、女夫岩の存在が世に知られるようになったのは近代という話もある。
明治初期頃には杉や桧などの樹林であった。その後、山林が伐採され、ようやく人目をひくようになった。以来、万物出生の源といわれ、縁結びの神としてあがめられるようになったのである。
林久統 著『滅びゆく性神と秘仏を訪ねて』伊豆編,大孝弥栄会,1972. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12169060 (参照 2026-10-04)
川ばたにあるので、たびかさなる洪水のために、この女夫岩は大正時代まではすっかり泥砂に埋まっていたものを掘り出したのである。
柳沢清士 著『信濃交通史研究 : 柳沢清士遺稿集』,柳沢二葉,1988.11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13269864 (参照 2026-10-04)

以上、複数の説を紹介したが、上記には矛盾した記述も含まれることから、おそらくはいずれかが後世の創作か誤りだろうと思われる。


女夫岩が存する桃山は現在、桃山公園として整備されており、同公園内には恵北高椅(けいほくたかはし)神社も鎮座する。
料理の神である栃木県小山市の高椅神社を昭和53年にこの地に分祀したものだが、その境内に包丁塚(包丁供養処)と呼ばれる石穴がある。
不要になった料理用刃物を神前に供え、刃物の供養を祈った後にこの石穴に刃物を奉納すると供養されるという。物の魂を鎮める岩石祭祀の場と言える。

恵北高椅神社

包丁塚の看板

2026年9月28日