2026年11月8日

飛瀧神社の岩石信仰(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)

和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山


那智の滝を飛瀧権現(ひろうごんげん)として神格化したのが飛瀧神社である。

神社境内に残る数々の岩石信仰の地を紹介したうえで、那智の滝を岩石信仰の観点から捉えなおしてみたい。


那智経塚

1968~1969年に発掘調査がなされた国内有数の大規模な経塚(時枝2006)で、現在は駐車場として埋め立てられている旧「枯池(からいけ)」を中心に飛瀧神社の参道沿いに分布している。

現在も参道の左右に無数に散らばる岩石群の一部は経塚である。

飛瀧神社の参道入口に立ち並ぶ立石群。写真中央の立石の背後から経塚および経塚遺物が発見されている。

写真奥に見える駐車場にはかつて枯池があり、そこが那智経塚の中心部だったという。

段丘状に整地されて石が一面に敷かれている。すべてが経塚ではなく後世の営為も織り交ざる。

参道沿いで確認できるのは敷石や立石だが、山側斜面には岩窟状の構造を有するものもあるという。山側の詳細は図化されておらず不詳である。

おおむね平安時代後期~室町時代にかけて集中的に築かれ続け、その後、年代経過により隣接する斜面からの落石なども重なり、現在のような人為と自然の混然一体とした光景が広がった。

那智経塚は、方形の基壇を構築してその中に納経したもの、小さな石室を設けてその中に納経したもの、そして自然岩塊と地山の隙間に納経したものの大きく3種類の経塚形態に分かれる。
経塚と重複するように、同じく自然岩の裾部・岩陰に密教法具などを安置し、火を焚いた痕跡の修法遺構も確認されている。

修験道考古学を専門とする時枝務氏は、「埋納施設を構築しない経塚は、経典を神仏に奉納することを意図して造営された」(時枝2006)と指摘する。
したがって那智経塚の中でも、手をかけて基壇や石室を構築せず、自然岩塊に抱かせるように納経や修法をおこなった事例は、経塚の本来的目的である後世への経典保存を目的としておらず、神仏の影向しそうな巨石に奉納したケースなのではないかと論じている。
ならびに、経塚群は那智の滝の直下ではなく参道入口側に離れて形成されている点や遺物の産地・型式がまちまちである点などから、那智の外から参詣した人々が次々に奉納していった結果だろうと考察している。


二十八仏石

有名な鎌倉積みと称される現在のお滝道の左右に、自然石又は割石に立石が側石として立ち並んでいるのを、寺側の伝承では二十八仏石と称して秘石としているが、これは那智大滝をその本地千手観音と見たてた場合の前立として名付けられたものとしてよい。土地の故老も勿論知らず、寺側の口伝として伝わっているのみである。
(佐野1963)

神社参道沿いの石垣には時折このような立石が登場する。

石垣に埋め込まれて一見石材としてある岩石は、二十八仏石として宗教上の前立の役割を担ったのか。

参道左右の岩石群は、単なる自然の風景や実利的な石材としてあるのではないということになる。
先述したように、かつて神仏の影向した納経・修法の対象としての岩石信仰だった歴史が、残滓的に変形して二十八仏石の伝承となったのかもしれない。


光り石/光ヶ峯遥拝石

参道石段を降りきった東側に存在。

現在は「光ヶ峯遥拝石」として、石をなでると各種霊験を授かるとの信仰を明文化する。

かつては「光り石」の岩石名も伝わっており、那智七石の一つに数えられることもある(佐野1963)。
参道の東にそびえる光ヶ峯(標高686m)が神武天皇東征時に発光したという伝承があり、その霊光の元が光り石だったという話もある。
7月の例大祭では光ヶ峯の遥拝式も執行される存在である。


神霊石(みたまいし)

拝所の内部に建つ御瀧本祈願所に安置されている。
平成23年の紀伊半島大水害の復旧工事中に当地から見つかった丸石を新たにまつったものである。

神霊石。護摩木を円周状に並べた中央に据えられる。

那智の滝

那智の滝(那智大滝/那智御滝)において岩石信仰の要素は宿るだろうか。

飛瀧神社

那智の滝(一の滝)。自然石の神籬を以てまつる。

滝の主役は言わずもがな水にある。瀑布に神仏の動きを見たことから飛瀧権現名が冠せられているが、では背後の岩壁は何らの影響も果たさなかったと言えるのかと問われれば、直感的な次元での違和感をもつ方もいるだろう。

滝と岩石の精神的関係

滝における岩石の聖的・美的存在感は無視できない。
那智の滝を評価する上でも、岩石の存在が滝の形を変えて美称を生んだことへの言及が見られる。

落口の岩盤には三つの切れ目があり、三本になって落ちるところから「三筋(みすじ)の滝」とも呼ばれている。滝は下部にある階段状の岩盤で岩かどに当たるたびに裾を広げ、大音響と水煙をあげつつ落下する。
(横山・渡辺1984)

さらに伝説上では、那智の滝の岩壁にはかつて千手観音の摩崖仏が彫られていた話が残る。この摩崖仏は治承4年(1180年)の地震で岩壁の一部崩落とともに失われたそうだが、これが歴史的事実だとすれば岩壁は飛瀧権現の本地仏として位置づけられる(那智山の本地仏自体が千手観音である)。

中世史を専門とした村山修一氏はこの「滝壺石不動」説話を石信仰の諸相の一例と捉えて、これは石仏がただ失われたという話ではなく、岩石が欠けたことも「世の末」の証とみなされて、「観音の名は単に便宜的なものにすぎず、巌石に対する信仰自身は観音の名より古きを思はしめるのである」(村山1948)と評する。

神仏習合の聖地において、動的な存在(滝水)に垂迹としての神を見て、静的な存在(岩石)に本地としての仏を見た。その静的と思われた本地仏さえ揺らぎ崩れたところに、当時の人々の末法思想が教訓めいた逸話として語られたのだと解される。
とはいえ、一部が欠けてもその奥の岩根から別の顔をした岩肌が再度現れ、那智の滝における岩石は依然として失われない。そこに岩石の不変性を認めることもできる。岩石にわざわざ仏を描かずとも聖なる存在は顕れるという教訓もまた解釈可能だろう。


参考文献

  • 時枝務「那智経塚考」『山岳修験』第37号 2006年
  • 佐野大和「那智山内の石信仰」『國學院雜誌』 第64巻第2・3号 1963年
  • 横山光雄・渡辺達三[編]『日本の名勝 第4巻 自然Ⅱ』講談社 1984年
  • 村山修一『中世日本人の宗教と生活』目黒書店 1948年


2026年11月2日

備宿遺跡群―備崎経塚・大黒島・立島・岩窟―(和歌山県田辺市)

和歌山県田辺市本宮町本宮字大黒島


備宿遺跡群とは

備崎経塚を筆頭として、備崎の丘陵部に分布する各種遺跡を総称した名称が備宿遺跡群である。

備宿とは「備の宿(そなえのしゅく)」の意で、熊野古道の1つである大峯奥駈道の一の宿に数えられる。

当地では、丘陵上に12~14世紀からなる39か所の経塚遺構が確認されているほか、丘陵頂上直下には備宿があったと推定される平坦地が造成されている。

備崎丘陵

アクセスルートがあまり大っぴらにされていないのでここで詳述する。

備崎橋北端に「史跡 大峯奥駈道」の看板と「七越峰」への行き先を示す標識があるので、備崎橋の下をくぐり熊野川の護岸上に続く道を歩む。

備崎橋の北端。「七越峰」の標識方向へ歩道が続いている。

川岸を歩くルートに変貌するが気にせず進む。

森にぶつかるが気にせず進む。

登山口。踏み跡はしっかりしているのでそれに従って登る。

備崎橋北端から備崎丘陵頂上(標高156m。159m説もあり)までは、余裕を見ても徒歩片道30分ほどで到着する。


備崎経塚

備崎は、備宿遺跡群を形成するこの丘陵を指す一名である。

山中は熊野古道として比較的整備されており、現在の登山道沿いには大きく7基の経塚が分布する。

登り始めて最初に目に入る、第1経塚と呼ばれる遺構。

このように自然岩群を利用した経塚もある。

先の自然岩群の前に敷かれた川原石群。

丘陵頂上部の経塚は翻って表面に石が露出せず、土盛りとして存在。

丘陵頂上部の平坦面。備宿の建造物などが存在したと推定される。

備崎経塚の特徴は、最高所の経塚こそマウンド(土盛り)が形成された塚であるが、それより下方斜面の経塚の多くは地山を掘って、地表下の岩盤上に納経して上部を川原石で覆う構造を持つという。丘陵上の自然岩を利用するように寄り添って築造された経塚もある。

現地看板の表現を借りると「周辺一帯には、露呈する大きな岩盤が点在していることから、備崎経塚群は自然崇拝を根源とした古代信仰の形態をうかがい知ることができる」と岩石信仰との関連性を匂わせる。

川原石を麓から運んだ人工性と自然石信仰の相貌をもつ経塚群と評価できるが、備宿遺跡群の岩石信仰の場はここだけにとどまらないらしい。


大黒島・立島と熊野本宮大斎原

熊野本宮大社(旧名・熊野坐神社。以下、熊野本宮)が、明治時代に熊野川の増水で流されるまで川中の大斎原(おおゆのはら)にあったことはよく知られる話である。

大斎原(熊野本宮の旧社地)

さて、熊野本宮がなぜ大斎原の地に鎮まったのかという理由について、それは熊野川を挟んで真向いにそびえる備崎の丘陵があったからだとする一説がある(山本2007)。

ここで嘉永6年(1853年)成立『西国三十三所名所図会』の記述を引こう。

大黒島(だいこくじま)(本宮村はづれより向かふの山の裾の岩組を云ふ。備の宿ともいふ。山伏の行所なり)
立島(たてじま)(大黒島の左に有る岩組をいふ。土人曰く、この所より竜燈あらはるるとぞ)
林[編]1980

大黒島と立島という名称が登場する。島の字を書くが、説明のとおり岩組を指す。

「本宮村はづれ」では場所がピンとこないが、大黒島には「備の宿ともいふ」の重要な一文が加わる。つまり備崎の丘陵にあるということである。

丘陵の右に大黒島、左に立島という位置関係は、熊野本宮(大斎原)からの視点である。

大斎原の現地から熊野川越しに眺めると、山の裾にこのような岩場が見える。

大斎原から熊野川越しに備崎丘陵を望む。写真中央に二か所に分かれて岩場が見える。右が大黒島で左が立島か。

大黒島と思われる岩場を拡大。

岩組というより岸辺に露れた岩肌であるが、熊野川の度重なる水害で景観を変えてきたことは想像に難くなく、また、下記の逸話も大黒島の重要な歴史を物語る。

〇土中出現黃金佛
今玆文政八年乙酉の春、熊野本宮社川除の堤を築かんとて、社境内の川上なる大黒島といふ岩山より、大石を引き出だす。爰にあやしき事あり。石を出だす雇夫等、砂を穿ち磐石を割るのいとま、暫く労を休めんと側によりて憩ひ居れば、巖上の土石おのづから崩れ落ちて止まず。工人各その業をなす間は、土石崩るることなし。憩へば又崩る。(略)そがままに土石を穿つに、その日も既に亭午になりしころ、土中より一つの瓷顕れ出でけり。そのさま今の世に見なれざる器なれば、人みなうちよりてこれを見るに、その瓷に彫れる文字あり。(兎園小説)
日本随筆大成編輯部[編]1928

大黒島の岩山が熊野本宮の堤を造るための石材として取り出されたことから、大黒島はかつて岩組と形容できるほどの岩の集積地であったことが想像される。

そして、大黒島の岩山の中から「瓷(かめ)」が出てきたことがこの逸話の核心である。この瓷の実物は現在も東京国立博物館に保管されており、複製品が熊野本宮に隣接する世界遺産熊野本宮館で公開されている。

大黒島から発見されたという経筒外容器(世界遺産熊野本宮館展示の複製品)

つまり経塚遺物である。保安2年(1121年)の銘も刻まれており、これは本宮経塚の代表的遺物として知られるが、仔細を突き詰めれば本宮経塚とは大黒島の自然石信仰に内在するものだったことがわかる。

大斎原から南を向き、熊野川を渡河した先の岩山に納経したという祭祀構造が浮かび上がり、ひいては熊野本宮が大斎原に鎮まった選地理由もこの岩山にあったのではないかという可能性に行き着くのである。


なお、『紀伊東牟婁郡誌』(東牟婁郡[編]1970)という文献には当地の別称がまとめられており、大黒島は「大黒嶋」「大黒岩」「大黒谷」「備の宿」の名が同じ存在として併記されている。立島は「竪嶋」の字が当てられている。

また、大黒谷の後ろの谷を「袋谷」と呼び、その前後にそびえる山を「飯盛山」と呼ぶという。大黒島を擁する備崎丘陵の山名は関連書を捲るかぎり現在はっきりしていないようだが、古名に求めるなら飯盛山となるのではないか。


大黒島の上方斜面の岩窟

大黒島は川岸の岩山を指すようだが、その上方斜面で新たな岩窟の存在が発表されたのは21世紀に入ってからである。

山岳修験研究を専門とされる山本義孝氏「山岳信仰遺跡を読み解く(一)―玉置山・備崎―」(2007年)において実測図付きで紹介されており、氏によればこれは丘陵北端ぎりぎりの山裾を歩く近世大峰奥駈道の道沿いに立地するものであるという。
(現在の登山道は中世の大峰奥駈道を辿る)


現地へのアクセスルートは、本来、近世大峰奥駈道の踏み跡を進むのが正規ルートだったようだが、岸辺スレスレという厳しい立地にあることから道が崩れやすいようであり、ルート上の木の橋も朽ちているとの情報がある(参照元URL「田辺市本宮の備崎遺跡行」)。2026年現在は入口に立入禁止のロープと表示がなされているので入れない。

登山道入口の立入禁止ロープ。すぐ裏は熊野川岸の切り立った崖のようだ。

そこで、私は丘陵尾根部から目星をつけて降りることにした。踏査当日はまだ山本氏論文が手元にない状況だったため、丘陵頂部からいくつかの谷間を降り登りしながら踏査した。

丘陵頂上部から降りた谷間の様子(西側)

東側の谷間の様子。岩石らしきものは見当たらない。

事前情報で得ていたイメージよりも、丘陵北斜面はそこまで岩盤が露出しているわけではなく意外だった。しかし薮の濃い一帯であり斜面を自由に行き来することは至難である。丘陵尾根部から分岐する作業用の踏み跡をうまく利用するしかない。


結論だけ記せば、丘陵上の下写真の経塚が見えたら、北斜面に向かって続く踏み跡を目印に降りていくと現地にアクセス可能である。

丘陵尾根中間部のこの経塚を見かけたら、写真左の斜面を向く。

この谷間に踏み跡が続いている(2026年10月時点)のでそれを利用して降下した。

樹林の中に、下写真のような岩々からなる突端地形を認められたらそこが岩窟の頂上部である。世界測地系(JGD2011)で「33度49分52.33秒 135度46分30.08秒」の地点となる。

樹林の間に黒い影のように写るのが岩石群。

岩石群の頂上部。この下に崖状の岩石が露出する。

山本氏によると高さ約18mの岩石規模とのことである。

私は頂上部からのアクセスだったため、高さ18mの最下部まで降りたかったが、藪に覆われた急斜面で足元がわからず危険を感じたため、岩石の上部に開いた岩窟の確認までで終えた。そのため近世大峰奥駈道の現状や、道沿いの岩石裾部に設けられたという平坦地(礼拝所?)などは確認できていない。

それでも明瞭な岩窟を1か所確認したほか、すぐ近くに、地形の流出改変が認められて荒れ気味ではあるが若干の岩陰を残した窪み地形を1か所認めた。その上方に、斜面から垂直に(水平面からは斜めに)立つ高さ約2mの立石も確認した。

岩窟(東より撮影)

岩窟(北より撮影)

岩窟内部

岩窟上部を構成する岩肌。これは自然の摂理で説明できる亀裂である。

岩窟下部の隙間を埋めるように小礫が敷き詰められているのは一部人為か。

わかりにくいが、倒木と岩石の下に岩陰状の窪みが形成されている。

岩窟および岩陰の上方斜面に屹立する立石(西より撮影)

同じ立石を東から撮影。

同じ立石を正面から撮影。

岩窟の上方やや西に存在する岩群。

岩群の上部。

岩群の下部。僅かな岩陰を形成する。

近くには集石・敷石のような景観も複数個所に散在する。

立石の上方斜面に広がる露岩①

さらにその上に広がる露岩②

現地から斜面下を撮影すると、崖下にすぐ熊野川が迫る。対岸は大斎原。

探訪後に山本氏論文と照らし合わせたところ、明瞭な岩窟は2か所なければならないことや、単独の立石の存在が記録されていないことなど、現状と図面で岩石の状態が異なるところが気にかかる。しかしここ以外に大規模な岩窟は確認できず、近世大峰奥駈道が崩壊するほどの急斜面であることから、一部の岩石が落下転落などしている可能性を加味して、地点的にこの岩窟が山本氏論文で命名された「胎蔵窟・金剛窟」と考えている。

山本氏はこの岩窟を「磐座」と記して、その後、備崎の磐座としての名称が独り歩きしているが、「磐座」は岩石信仰の総称たりえない概念であることは拙著で触れたとおりであるので、私は事実面で認められる「岩窟」の表記にとどめたい。

別の角度からは、「大黒石と呼ばれる巨大な洞窟の割れ目からは瓦質の土器が採集され、修験関係の修法場と推定されている」(中村2019)という記述から、この岩窟を大黒島(大黒岩・大黒石)と呼ぶ向きもあるだろう。

しかし先述してきたように大黒島は川岸の岩肌部分を指すようであり、その岩肌からこの岩窟までが一続きの岩山として一括できる場合は大黒島が適切であるし、そうでなければ大黒島上方斜面の岩窟として切り分けて取り扱うべきである。
(私は岩石下部および川岸まで降下できていないためその判断ができない)


ところで、山本氏はこの岩窟の状況をそれぞれ「窟上の高まりは巌の最高所となっており、これが権現垂迹の磐座をなしていると判断され、磐座直下の窟は垂迹後の権現が宿る母の胎内という構図が存在するのであろう」「頂上に磐座を持ち床面に穴(陰部)の開いた窟を『胎蔵窟』、権現垂迹の石躰(陽部)のある窟を『金剛窟』というように理解すると、両窟で陰陽が融合した権現垂迹の理想的な窟となる」(山本2007)と解釈を施すが、磐座と胎内の関係や、立石であれば石躰でそれは陽を表すなど、何か仏典上でこのような記述があって裏付けられる解釈なのか気にかかる。私の場合、文献のない古墳時代の祭祀遺跡を取り扱うことはあるが、岩石の形態上の比較を以て直接に祭祀構造を解釈することには慎重である。

当岩窟においては、現地の急峻な地形環境を見れば山本氏が踏査した時と私が踏査した時の環境も異なり、でははたして中世や古代以前の現地はどうだったのかと考えるとまた異なる景観だった可能性がある。すぐ下では大黒島の石採りもなされて改変されていた。地表下から出土した遺構で論ずる分にはまだ良いが、すでに地表に露出している遺構においては、時代経過による後世の改変の可能性を加味することを望みたいところである。


最後に

この岩窟については他のインターネットページでも言及されていることがあるものの、その正確な位置は明示されることが少なかった。川沿いの危険な立地にあることや、不用意に不特定多数が訪れることへの危機感などによるものと理解している。

一方、私個人の考え方は、すでに報告書上で調査がなされて発表された文化財は広く公表されて世に問うべき存在であり、位置を明示しないことで逆に誤った踏み跡を作り、それによる事故を避けたい思いがある。以上の考えに基づき本記事を記したことを承知されたい。


参考文献

  • 中村浩「熊野本宮備崎経塚について」『紀伊風土記の丘年報 』(47) 和歌山県立紀伊風土記の丘 2019年
  • 山本義孝「山岳信仰遺跡を読み解く(一)―玉置山・備崎―」『熊野』132・133通号 2007年
  • 林英夫[編]『日本名所風俗図会』18 角川書店 1980年
  • 日本随筆大成編輯部[編]『日本随筆大成』第二期巻一 日本随筆大成刊行会 1928年
  • 東牟婁郡[編]『紀伊東牟婁郡誌』下巻 名著出版 1970年
  • しげよあゆみ「田辺市本宮の備崎遺跡行」https://shigeyoayumi.hatenablog.com/entry/55603130(2026年11月1日閲覧)

2026年10月25日

白龍稲荷神社の岩山は岸劔神社旧地だった(岐阜県郡上市)

岐阜県郡上市八幡町肴町


郡上八幡城下を散策すると、必ずと言って良いほど目に入るのがこの岩山である。

吉田川沿いに岩山が屹立する。

岩山中腹まで参道が切り込むように造られている。

白龍稲荷神社の名でまつられる。(以上、向井一雄氏提供写真)

岩山には現在、白龍稲荷神社が建立されているが、その沿革は郡上八幡観光協会の下記Facebook投稿に詳しい。


まとめると、

  • 江戸時代の地図には「神路山」「キシツルギ山」と記される場所だった。
  • 岸劔神社の境内に属する岩山だったが、明治19年(1896年)に神社が郡上八幡城内に遷座したため、個人に移譲された。
  • 白龍稲荷神社はその後、大正~昭和初期に建立されたものである。

ということで、歴史的には岸劔神社旧地の神路山・キシツルギ山と呼ぶべき存在らしい。


さらに、岸劔神社はかつて岩剣神社の別称もあったという。それは、神社創建の由来と関わっている。多少の揺らぎがあるので、いくつかの文献を引く。

八幡城下清水彦右衛門なる人吉田川下流の岩間に荘厳なる御剣のかかれるを発見し小祠を営んで奉斎した。慶長一九年当城下の氏神として社殿を造営、岩剣神社として崇められたと言う。
神社本庁調査部 編『神社名鑑』,神社本庁神社名鑑刊行会,1963. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2997363 (参照 2026-10-25)

八幡城下の吉田川の岸(現在の宮ヶ瀬橋の下)の岩間に剣のかかっているのを清水彦右衛門がみつけ自分の家に持ち帰った(現在この岩をかかり岩という)。
太田成和 編『郡上八幡町史』下巻,八幡町,1961. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3008816 (参照 2026-10-25)

仲上善六といへる人、宮が瀬(後ちの名付)洗場の岩上に、不動尊の御剣漂着せるを発見して拾ひ帰り、小山の巖上に小祠を営みて納めけるが、種々の奇瑞ありとて、町内挙りて領主に請ひ、北町の氏神と崇めたり、かかり岩、宮が瀬、岸剣の名は皆是れに因由せり。
戸塚城崖 編『郡上郡案内』,岐阜県郡上郡協賛会,大正6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/958178 (参照 2026-10-25)

どうやら吉田川上流から流れてきた剣が当地の「かかり岩(掛かり岩)」と呼ばれる岩間に漂着し、その剣を岩上にまつったのが岩剣神社、ひいては岸劔神社の元になったことがわかる。

掛かり岩と岩山は別の存在であり、前掲『郡上八幡町史』下巻には掛かり岩の写真も掲載されている。川岸に突き出た岩の突端に御幣をあしらった写真で、ドンビキ岩の別称も付記している。これが今もこのような形で「現在の宮ヶ瀬橋の下の岩間」にあるのかは未確認である。


さらに、この流れ着いた剣は由来不明の存在ではなく、吉田川上流の明宝・気良の地に鎮座した鳥居宮(とりのみや)の神体剣だった。

『明宝村史 通史編』下(明宝村 1993年)には「鳥居宮と成就の宮」の伝説として詳しく記録されている。別場所なので大略を紹介するにとどめるが、雨乞いのために吉田川にある「み幸岩(神流岩)」に鳥居宮の神剣をまつったところ大雨が降り、その濁流で神剣も流されてその漂着先が当地の掛かり岩だったという。このため鳥居宮は別の神を勧請することになり今は「神輿岩」として旧跡ととどめるのみとなり、一方の掛かり岩側では神剣を「成就の宮」と呼んでまつり、後に岸劔神社を号したという。

ここで多くの岩石群の名称が登場したが、また機会があれば明宝・気良の現地を確認したい。一応、Googleマップにこの辺りかと思われるポイントを打っておいた。

郡上八幡城下の岩山は白龍稲荷神社のみの歴史にとどまらず、郡上八幡の氏神である岸劔神社の旧跡であり、上流の鳥居宮と複数の岩石信仰を取り持つ場でもあった。