聞き取りの記録
■福持さん(80歳代の奥さん)のお話
- 与喜山中にある杉髙講の石碑をお見せしたところ、山本コノヱ氏のことをご存知。山本さん、神さん、拝み屋さんと呼んでいた。
- 門前町の郵便局よりさらに下った辺りに、山本コノヱ氏の家があった(今はない)。郵便局の下に右折する道があり、それを山側に進むと集会所がある。その周辺には年配の方が多く、山本コノヱ氏のことを知っている人も多いのではないか(近所だから)
- 山本コノヱ氏の墓は六地蔵と呼ばれる所にあったが、いつの時代かにどこかに遷されて今はない。
- 福持さんが子供のころ、体調が悪い人がいたら山本氏の家に行くことが多かったという。体調が悪い時、山本氏はいつでもヨモギを潰してこれを飲めと言ったらしい。倉持さんも母に言われて山本氏の家へ行き、ヨモギの粉末をもらったことがあった。苦かった。直接山本氏の顔を見るまでの関係でもなかったから、顔やどんな方だったかまでは覚えていない。
- 杉髙講の石碑に刻まれた人名のほとんどは初瀬の人。1人1人どこの誰と言ってくれて、名前を知っていた。いずれも存命ではないとのこと。福持さんから見てさらに1つ上の世代に属する方々という。
- 石碑に刻まれている土井育次郎氏の息子さんは神職さんで、数年前に亡くなった。奥さまは存命されている。
- 講元の重走由太郎氏の息子さんは現在行方を知らない。どこかに行った。
- 与喜山中のノゾキを知っている。子供のころ、友達と一緒に与喜山の「チビンチビン谷」という場所へ行った。崖になっているような場所で、友達が落ちかけたことを覚えている。ノゾキと同じ場所か違う場所かは記憶が定かではない。
- 初瀬の街は昔(戦後)に比べて寂れてきてしまっているから、何とかして復興してほしいと思っている。
- 与喜天満神社は宮司さんが新しく来てから境内が綺麗になったので感謝している。
■与喜天満神社 金子宮司のお話(2度目。福持さんとお話ししている時にお会いできた)
- 杉髙講を「すぎたかこう」と発音。
- 杉髙講は、山本コノヱ氏の信念で与喜山の中に鳥居や石碑を置いたのだろう。石碑に書かれた「元伊勢最後の地」については元伊勢伝承の本来の記述とは違っており、それも元伊勢最後の地としたいという山本氏の信念によるものだろう。山本氏も元伊勢について色々調べたのだろうが、あまり勉強しているような感じには見受けられないとの考えを持っておられる。
- 杉髙講の設備の奉献者に東京や但馬の地名が混ざっているのは、初瀬出身者が外に出ていった後の地名を使っているからだろう。
- 山本氏や杉髙講については一新興宗教のことで、もう終わったことであり、山中に本来ある磐座のこととは切り離して考えたい立場の模様。これ以上その講を追い求めても得るものはないだろうという考えの様子。
- 「重岩」に名前はない。それより、その東に行くと傾斜のなだらかなところがあり、そこにワニの背中のように規則的に並ぶ場所がある。これが堝倉神社がかつてあったところではないかと推測している。
- 「重岩」の前を通る時は必ずお祓いをしている。写真を撮ると線が写る。北の谷も含め、不穏なところだから近寄らないようにするのがよい。
- ノゾキは左と右にある。右は北ののぞきと思われるが、左は東ののぞきということになるので、植林地帯かどうか伺ったら肯かれた。その後、福持さんはノゾキは左の1ヶ所しか知らないとおっしゃった。
■大和屋オーナーご夫妻のお話(主にご主人から)
- 杉髙講の石碑を見せたところ、1人1人関係を言っていただけた。初瀬の人で大半を占めており、全員亡くなっている。
- 石碑の方の血縁で、こういった歴史に詳しい方はいますか?と尋ねたところ、豊森實氏の息子さんが大和屋ご主人の5歳上で、この方が知らなければもう誰も知らないのではないかとのこと(豊森さんには2013年に聞き取り済)。15年前なら、本間時代氏の息子さん(本間電気店)が詳しかっただろうが故人。
- 重走由太郎氏自身は地元に詳しい方だったが、息子さんは東京に行っている時期が長かったからこういうことに詳しくはないだろう。 土井氏の奥さんも詳しくはないはず。金子宮司も最近来た方だから当時のことは詳しくない。
- 厳樫俊夫氏などの学者や土井氏などの神社関係者も、歴史のことはみんなそれぞれが持論を言うからなあという気持ち。
- 与喜山には昔、何度も登ったことがある。シイタケなどを取っていた。最後に入ったのは30年前。長谷寺が立入禁止と言ったことがあるらしい。 それから誰も入らなくなり、道が消えたのもそのためかもしれない。
- ノゾキを知っていた。ノゾキは1ヶ所しか知らない。もし東にもう1ヶ所あるのだとしたら、それは長者屋敷や榛原に抜ける道の方向ではないか。ただ、そういう場所を聞いたことはない。
- 山本コノヱ氏は、ノゾキと「重岩」と見廻不動の三ヶ所を整備した。山本氏の信者がお金を出し合った。おそらくこの石碑を建てた時が講のピークだったのではないか。山本氏は最後は病気で寝込んで、そうしたらみんな離れていった。山本氏が色々なことを当てるから周りが群がったと見ていた。山本氏が亡くなったと同時に、講の後を守る人はおらず自然消滅した。
- 山本氏の家の中には祭壇のようなまつる場所があった。
■吉野館の女将さんのお話
- ノゾキを知っていた。結婚前(約40年前)、ご主人に連れられて登ったことがある。長谷寺が見えるから。ノゾキ以外にこれはという場所はわからない。
- 椎の実がとれる。また、夏にはマムシが出る。タヌキ、イノシシ、サルもいる。
- 与喜山にハイキングしに行く人をよく見かける。赤いテープをたどれば辿りつけるらしいことも知っている(ハイカーの人から聞くらしい)
- 昔、子どもが化粧坂にふらふら歩いて行って怖い思いをした。引き寄せられるような何か。与喜山もそういう暗いイメージがある様子。
所感
2013年に聞き取りをした厳樫幸子さんが亡くなられ、杉髙講講元重走さんが運営されていた花水館も取り壊され、初瀬の地元にしか伝わらない歴史というものが、刻一刻と失われていくことを恐れながらの訪問だった。今回も、貴重な情報を記録に残すことができた。
1つは、杉髙講および山本コノヱ氏のより具体的な歴史が浮かび上がったこと。始まりはわからないが、戦後のタイミングで名張から初瀬に来て、家を構え、ヨモギをすりつぶして病人に与え、占い事も当てる拝み屋の一人であったこと。お話から察すると、当時、初瀬のある程度の方が山本氏を認識し、頼っていた様子が窺える。山本氏の晩年と、死去と同時に講が自然消滅したこともほぼ明らかになった。
なぜ私がこの講にこだわるのか。講の信者でもないし、講の残した主張が真実とももちろん思っていない。答えはただ、杉髙講という「一新興宗教」で片付けられかねない、記録も話者もおらず間もなくすべての記憶が失われる人々の足跡を、歴史として捉えているためだ。歴史に軽重はないという歴史学の基本姿勢を大事にしていきたい。
誰かがすでに記録をしていればいいが、していないという事実が、私が杉髙講ひいては与喜山を15年間目を向け続けさせている理由である。
そのような意味で、今回、幼少のころ山本コノヱ氏の家に行ったことがある方や、ノゾキなど与喜山中を知っている方に出会えたのは貴重だった。10年後、20年後、同じように聞ける話とは思えない。
今回、複数の方からお話を伺い1つ感じたのは、与喜山が「暗い」山だとイメージされていることだ。2013年、金子宮司が与喜山の「重岩」で幽霊が出るとおっしゃった時にも感じたことだが、登山道がないことも手伝い、「登れるんですか?」「迷わないですか?」「お祓い」「写真を撮ると・・・」「山の中は暗くないですか?」といった、不安げな様子を感じ取った。
神聖だからこその裏返しで、畏怖に近いものかもしれない。が、それは長谷寺が入山禁止にしてからの影響が強いようである。それ以前は大和屋のご主人が何回も登っているし、 吉野館のご主人も奥さんを長谷寺が眺められるスポットとして連れていくほどだ。また、遠足で与喜山に登ったことがあるという話も別の方から聞いたことがある。
かつて、与喜山は地元の人足が入った場所だった。杉髙講が勝手に山中に祭祀設備を置いたのもそうした時代の空気だっただろうし、長谷寺が入山禁止と言ったのならそれも増える入山と手を加えることに対する反動だろう。つきつめれば、与喜山に幽霊が出たり迷いの山と呼ばれるゆえんも、時代の流れによる人の心の反映と見たい。
ノゾキを福持さん、大和屋のご主人、吉野館の女将のいずれもご存知だったことはとても大きい事実である。まず、呼び方は「ノゾキ」で共通している。「北の」はついていない。そして、いずれも「ノゾキ」は1ヶ所という認識だった。
この「ノゾキ」からは長谷寺が見えるということから、『長谷寺境内図』の「北ののぞき」と見て間違いない。
それ以外の「ノゾキ」については、今後、地元の古老の方からお話を伺えるまでは、判断保留としたい。
福持さんが語った「チブンチブン谷」は初出情報であり、これも貴重である。
質問者である私の問題意識が欠けていたことにより、与喜山の地名収集についてはまだ不完全であると感じた。今後、地元の方の間にしか伝わらない地名の情報収集を意識していきたい。
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