解題
厳樫俊夫(いつかしとしお)は初瀬小学校教頭の職につきながら、初瀬の郷土史家として有名な人物だった。とりわけ初瀬地域の民俗・伝承・習俗については造詣が深かったことが、この「初瀬」を始め、彼の残した文章から窺われる。 決して著作の数は多作ではないが、1つ1つの記述の濃さから、おそらく活字化されていない無数の資料が彼の手元にあったものと思われる。
たとえば与喜山1つ取ってみても、複数の人物が初瀬の生き字引だった厳樫俊夫の導きで与喜山中を案内されたことに触れている。
「この日は幸いにして、初瀬の旧家に生まれ育った郷土史家厳樫俊夫氏の先導を得たので達することができた」(藤本浩一「長谷寺と天神山」『磐座紀行』向陽書房、1982年)
「われわれは郷土史家の厳樫俊夫氏の案内で千古斧鉞を入れぬという与喜山の山の中にわけ入った」(水谷慶一『知られざる古代』日本放送出版協会、1980年)
「第一回、第二回調査に初瀬の厳樫俊夫氏が案内役に当られ」(松本俊吉『桜井の古文化財その二 磐座』桜井市教育委員会、1976年)
以上3名は、与喜山中の磐座群をいずれも厳樫俊夫の案内により実見している。藤本浩一については今は所在位置が不明となっている磐座も案内されており、松本俊吉の調査記録にも今となってはどれを指すのかがはっきりしない夫婦石が記載されている。
これらの磐座や夫婦石は、他の文献には一切登場しない唯一の情報源である。
単に与喜山の土地勘に詳しいのではなく、彼自身が持っていた情報は、他文献・他学者には一切触れられていない独自の情報源が多いということが、ここからもわかるのである。
さて、今回紹介する「初瀬」は、その名の通り初瀬の民俗的情報が包括的に記載されている。あくまでも本の一節を担当のため、1つ1つの場所の情報はおそらく意図的に簡潔であるが、さりげなく何気なく、奥深い情報や貴重な記述が各所に登場する。彼が持つ膨大な資料・知識の氷山の一角を、僅かな紙幅で著されたという趣がする。
今となっては叶わないことであるが、 初瀬の民俗誌を紙幅を気にせず余さず書いたものを一冊後世に残していただければ、没後も私を含めた多くの後学者が救済されただろうにともったいない思いである。
重要部分引用(原文ママ)
豊秋津姫神社
此の社のある山を両部山と云う。土地の人は弁天山と呼んでいる。与喜天神社の末社である。社殿は弁天様の祭祀せられている処である。今も小さな祠がある。
豊受神社
両部山西南端の山麓の老松(「ようがの松」とよばれている)の附近にあったと云われ、豊受比売命を祀っていたが、明治四十一年式内村社、山口神社に同祀され、社殿は無くなっている。
多羅尾滝
与喜山の東の麓にある。高さ三米ばかり、其の滝壺の中に不動明王両足の跡といわれ、長さ三十糎深さ十糎ばかりの足跡の様な穴が岩上にある。
口碑
長谷観音の霊木が当地に引き寄せられ置かれた所は今の崇蓮寺の附近で、霊木の置場所であった。それで小字名は、木小路(きしょじ)とよばれている。
※他にも多数重要情報が記載されているが、それらには引用元の原典で別途確認できるため、ここでは紹介しない。
0 件のコメント:
コメントを投稿
記事にコメントができます。または、本サイトのお問い合わせフォームからもメッセージを送信できます。