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2016年3月15日火曜日

志賀剛「大和国城上郡二三 鍋倉神社」(『式内社の研究 第2巻 宮中・京中・大和編』雄山閣、1977年)

解題

延喜式内社の研究書として有名なシリーズである。
 本書の鍋倉神社の記述から重要と思われる部分を抽出しておきたい。

■現・鍋倉神社が素戔雄神社の境内にある理由

境内の北にあって南面している新しい社はかつてこの式社の摂社であった素戔雄命の社である。しかし今は(中略)主客顛倒して式社の方が摂社となっている。その理由は明でないが、ナベクラサンという原始的祭神よりもスサノヲノ命の神格が高く、一般に知られていたからであろうか。或は経済上の理由からであろうか。



■鍋倉山の位置

初瀬の天神山の西が少し下がって肩のようになって西面している山が鍋倉山である。
(中略)
式社の後の山すなわち鍋倉山は地形による名称であるが、険しくて中腹に恐しい巨岩が屏風の様に立ち、吉野の大峰山のようなノゾキ岩があるという。式社となったのはかかる巨岩への信仰もさることながら、有力な理由は西岸の名刹長谷寺の守護神としての意味もあったからであろう。

 まず、鍋倉神社が素戔雄神社境内にある理由については、神格の差や経済上の理由を挙げて説明を試みているが、これについては5年後に発表される類書の式内社研究会の『式内社調査報告』のほうが詳しく、かつ事実に正確であるため、そちらで改めて触れることとする。

 志賀が記す鍋倉山の位置は、下図に示す丸で囲んだ場所だろうか。


 志賀のこの指摘が正しいかを検討する必要がある。
 鍋倉山の位置を示す文献は複数あるが、文献ごとで位置に揺らぎが見られるためだ。
 志賀によると、中腹に屏風のごとき「ノゾキ岩」 があると書いている。
 文献上では「北ののぞき」のみが知られており、それは上図の「ノゾキ岩」の場所にある。
 鍋倉山の中腹と言うより、与喜山の中腹と言った方が正確である。
 このように、志賀の記述は、現地の地理を正確に知った上で書かれているとまでは言えず、批判的に読むことを求められる。

 ただし、与喜天満神社宮司の方が話していた「南ののぞき」「東ののぞき」という場所が本当に昔から言い伝えられていた旧跡であるとしたら、そのいずれかが鍋倉山の中腹にあった可能性までは、まだ否定できない。したがってこの志賀の記述の正確性については保留しておきたい。

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