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2016年3月31日木曜日

【2016年版】Googleマップ(マイマップ)で指定の場所を地図の中央に表示して埋め込む方法

あまりにもうれしかったのでシェアします。

2014年でしたか、それまではGoogleマップで決まった場所を埋め込み表示させるのは簡単だったのですが、突然それができなくなりました。
前のブログで改悪改悪と私はぼやいていたのですが。

正確に言うと、Googleマップで1ヶ所だけを埋め込み表示するのは今も楽勝です。
「デフォルトビューを設定」で、好きな場所を初期表示設定できます。

忍坂坐生根神社の石神/磐座(奈良県桜井市)

忍坂坐生根神社
(おっさかにいますいくねじんじゃ)

所在地:奈良県桜井市忍坂



本殿を持たず宮山をご神体とし拝殿の北側に神が鎮座する「石神」と称する自然石十数個を並べた「磐座」があります。
――現地解説板より

2016年3月28日月曜日

小夫天神社(奈良県桜井市)


奈良県桜井市大字小夫3147番地

小夫天神社
伊勢神宮の壺石というのが、何を指すのかわからない。

小夫天神社
四つ石がどれを指すのかわからず、地元の方に尋ねたところ、道に埋め込まれたこの4つの石とのこと。

小夫天神社
四つ石の別称が古代氏族の名といい、烏帽子石の俗称が天子といい、意味深である。

小夫天神社
春日大社の赤童子石と似ている。
巨石という括りでは、こういった岩石は扱えない。

小夫天神社
斎宮山の裾に鎮座する。正式名称は「天神社」

小夫天神社
社殿左脇 柵内に岩石が見えた。詳細不明。

小夫天神社
社殿右脇にも同様に柵内に岩石が見えた。こちらも詳細不明。

小夫天神社
祓戸社の横に、岩石を直接まつっている。

2016年3月26日土曜日

与喜山第10次調査(2016.3.22-23)―踏査編―

目的

  • 「仙宮のたき」の特定
  • 下写真の場所(以後「三の磐座」と呼ぶ)の特定


2016年3月25日金曜日

与喜山第10次調査(2016.3.22-23)―民俗聞き取り編―

聞き取りの記録


■福持さん(80歳代の奥さん)のお話
  • 与喜山中にある杉髙講の石碑をお見せしたところ、山本コノヱ氏のことをご存知。山本さん、神さん、拝み屋さんと呼んでいた。
  • 門前町の郵便局よりさらに下った辺りに、山本コノヱ氏の家があった(今はない)。郵便局の下に右折する道があり、それを山側に進むと集会所がある。その周辺には年配の方が多く、山本コノヱ氏のことを知っている人も多いのではないか(近所だから)
  • 山本コノヱ氏の墓は六地蔵と呼ばれる所にあったが、いつの時代かにどこかに遷されて今はない。
  • 福持さんが子供のころ、体調が悪い人がいたら山本氏の家に行くことが多かったという。体調が悪い時、山本氏はいつでもヨモギを潰してこれを飲めと言ったらしい。倉持さんも母に言われて山本氏の家へ行き、ヨモギの粉末をもらったことがあった。苦かった。直接山本氏の顔を見るまでの関係でもなかったから、顔やどんな方だったかまでは覚えていない。
  • 杉髙講の石碑に刻まれた人名のほとんどは初瀬の人。1人1人どこの誰と言ってくれて、名前を知っていた。いずれも存命ではないとのこと。福持さんから見てさらに1つ上の世代に属する方々という。
  • 石碑に刻まれている土井育次郎氏の息子さんは神職さんで、数年前に亡くなった。奥さまは存命されている。
  • 講元の重走由太郎氏の息子さんは現在行方を知らない。どこかに行った。
  • 与喜山中のノゾキを知っている。子供のころ、友達と一緒に与喜山の「チビンチビン谷」という場所へ行った。崖になっているような場所で、友達が落ちかけたことを覚えている。ノゾキと同じ場所か違う場所かは記憶が定かではない。
  • 初瀬の街は昔(戦後)に比べて寂れてきてしまっているから、何とかして復興してほしいと思っている。
  • 与喜天満神社は宮司さんが新しく来てから境内が綺麗になったので感謝している。

2016年3月21日月曜日

源為憲「長谷の菩薩戒」(『三宝絵』984年)

源為憲著・出雲路修校注『東洋文庫513 三宝絵 平安時代仏教説話集』(平凡社、1990年)を参照した。

解題

永観2年(984年)、文士として名高かった源為憲が冷泉天皇皇女の尊子内親王の仏教教育のために著したのが『三宝絵』(三宝絵詞とも。全三巻)である。その題名が表すように、親王のために絵を添えて解説されたテキストだったが、今は絵が散逸し文章のみが伝わる。
 源為憲の創作内容というより、それ以前から存在していた古今東西の仏教に関わる説話・伝承・物語のうち、子女教育にふさわしいものを精選した書と言って良い。

 下巻の五月 僧宝の二〇に「長谷の菩薩戒」と題された物語が載せられている。
 ここに『長谷寺縁起文』に書かれた十一面観音霊木伝承が収められている。
 『長谷寺縁起文』は鎌倉時代初期(13世紀)制作と推測されるのに対し、『三宝絵』は永観2年(984年)と、200年以上も『三宝絵』が先行する。すなわち、十一面観音霊木伝承のより原型と言える内容は『三宝絵』にあるのだ。
 『長谷寺縁起文』との差異に注目しながら、次に重要箇所を引用したい。

2016年3月20日日曜日

「元伊勢完成由来」ほか、杉髙講が残した文字記録(1962年頃)

 与喜山の北の谷にある「北ののぞき」。
 ここは少なくとも江戸時代には名所として知られていた場所だったことが『長谷寺境内図』の描写からわかるが、現地にはさらに特筆すべき文字情報が残されている。
 下写真の石碑である。

2016年3月19日土曜日

藤本浩一「長谷寺と天神山」(『磐座紀行』向陽書房、1982年)

解題

全国の磐座愛好者のバイブルと言って良いだろう。『磐座紀行』ほど、日本国内各地の磐座を収録した事例集はかつて存在しなかった。
 藤本浩一は詩人であったが、表舞台から外れた周縁の民俗に目を向け、実地を訪ね歩く研究者でもあった。『磐座紀行』刊行の年に藤本は逝去しているが、この本の刊行にこぎつけるには彼の弟子の尽力があったと聞く。藤本が残した膨大な資料と考察が活字化され、後世にしっかりと伝わったのはまさに幸運だった。

 単に事例数の多さに目を見張るだけではなく、今では所在不明になったり、今の様子とは変わってしまったりするような、当時の姿を収めた貴重な記録集としても読むことができる。
 皮肉なことに、与喜山の磐座がこのパターンに属する。

 「長谷寺と天神山」と題された一項(55-57頁)がある(念のため、天神山は与喜山の別称である)。
 藤本は、初瀬の郷土史家である厳樫俊夫の道案内により与喜山中に足を踏み入れ、4か所の磐座を紹介している。同書の巻末に収められた「全国磐座一覧表」によると下記の通りである。

2016年3月17日木曜日

『菅神初瀬山影向記』(室町時代)

塙保己一編著、太田藤四郎編補『続 群書類従 第三輯上 神祇部』(続群書類従完成会、1959年訂正三版)を参考とした。

解題

作者は明記されていないが、長谷寺の関係者が書いた地主神の縁起と見て良い。
 内容は『長谷寺霊験記』の瀧蔵権現-与喜天神地主交替伝承の再編集で7割を占め、残り3割は長谷寺の沿革を『長谷寺縁起文』の霊木伝承などをかいつまみながらコンパクトにまとめている。
 したがって、本文献のみに記されているような特有の情報というのはほぼない。あえて言うならば、『長谷寺縁起文』『長谷寺霊験記』の後に各伝承がどのように編集され、どのように細部が変容したかを追うに適した資料である。そこを焦点に置きながら重要部分を下に引用したい。

奈良県磯城郡編『奈良県磯城郡誌』(奈良県磯城郡役所、1915年)

解題

大正時代時点での磯城郡の地誌。
 当時の磯城郡とは、桜井市・天理市・橿原市・宇陀市の範囲まで広がり、古代においてヤマト政権が本拠とした一帯と重なるため、本地誌に載せられた各種旧跡の資料価値は高い(一般に、戦後の自治体史に比べ戦前の地誌は民俗情報の仔細に富んでいる)
 与喜山関連の情報で特筆すべきものを下に引用しておく。

2016年3月16日水曜日

松本俊吉「長谷山口神社」「堝倉神社」(式内社研究会編『式内社調査報告 第三巻 京畿内3』皇學館大學出版部、1982年)

解題

『桜井の古文化財 その二 磐座』(桜井市教育委員会、1976年) の著者で知られる桜井史談会の松本俊吉による長谷山口神社・堝倉神社の調査報告である。
 微に入り細を穿つ情報収集がなされている。両社の概要は本書に当たれば概ね問題ないだろう。重要と思われる部分を以下に引用する。

2016年3月15日火曜日

志賀剛「大和国城上郡二三 鍋倉神社」(『式内社の研究 第2巻 宮中・京中・大和編』雄山閣、1977年)

解題

延喜式内社の研究書として有名なシリーズである。
 本書の鍋倉神社の記述から重要と思われる部分を抽出しておきたい。

■現・鍋倉神社が素戔雄神社の境内にある理由

境内の北にあって南面している新しい社はかつてこの式社の摂社であった素戔雄命の社である。しかし今は(中略)主客顛倒して式社の方が摂社となっている。その理由は明でないが、ナベクラサンという原始的祭神よりもスサノヲノ命の神格が高く、一般に知られていたからであろうか。或は経済上の理由からであろうか。

2016年3月14日月曜日

菅原道真仮託『長谷寺縁起文』(12~13世紀)

塙保己一編著、太田藤四郎編補『続 群書類従 第二十四輯 釈家部』(続群書類従完成会、1960年訂正三版)を参考とした。

解題

『長谷寺縁起文』は菅原道真が長谷寺の縁起を執筆したという体裁をとっているが、実際は平安時代末~鎌倉時代に菅原道真に仮託して書かれた文献として定説化している。
 筆者が偽者であるからといって資料価値がないということではなく、当時、菅原道真に仮託されて書かれた文献は本書だけではなく数多く知られ、撰者が自らの名で発表するよりも著名人に仮託して文献の様々な性質を高めようとする行為は、現代の偽書意識と違う感覚でおこなわれていたことを考慮しなければならない。
 『長谷寺縁起文』の成立は12世紀説と13世紀説が対立しており、いずれにしても長谷寺創建時に編まれた同時代記録というわけではない。
 しかし、それ以前の長谷寺の縁起に比して本書は最も体系的かつ具体的な内容をまとめていることから、長谷寺の由緒・由来を説明する文献の中の代表格として位置づけられている。『長谷寺密奏記』『長谷寺霊験記』よりも先行する文献としても知られるため、長谷寺の縁起伝承を知るにはまず本書から始めたい。
 以下に重要箇所を意訳していこう。


2016年3月13日日曜日

『長谷寺霊験記』上 第十一 天神成神後居住當寺被抜悪心業事付白山権現御影向事(鎌倉時代)

塙保己一編著、太田藤四郎編補『続 群書類従 第二十七輯 下 釈家部』(続群書類従完成会、1957年訂正三版)を参考とした。

解題

『長谷寺霊験記』あるいは『長谷寺験記』の名で知られる。
 作者・成立年代ともにはっきりしていないが、長谷寺の勧進聖により鎌倉時代に編纂された説話集というのが大方の見解である。近年の研究では13世紀後半説が有力である。

 また、『長谷寺霊験記』の中で『長谷寺縁起文』『長谷寺密奏記』 の編纂について触れられた内容があることから、少なくとも『長谷寺縁起文』『長谷寺密奏記』の2冊よりは後出して完成された文献ということは間違いない。

 上下巻に分かれ、上巻の第十一話が、与喜天満神社祭神の菅原天神(菅原道真)がどのようにして長谷寺の地主神となったかを説明する物語となっている。簡易な意訳を下記に載せよう。

2016年3月12日土曜日

松本俊吉『桜井の古文化財 その二 磐座』(桜井市教育委員会、1976年)

解題

松本俊吉は奈良県桜井市生まれで、大和タイムス(現・奈良新聞)の記者・支局長として主に文化・学芸欄を長年担当した。その実績から自治体史の執筆や地元の研究団体・桜井史談会の運営など、民俗学・文献史学の領域で活躍した。
 本著は題名の通り、桜井市教育委員会が発行していた『桜井の古文化財』シリーズの2巻目で、地方自治体が主導して、文化財としての磐座を取り上げるのは異色と言える。教委の助力を得ながら、松本が編著責任者として文章を担当したようである。


2016年3月9日水曜日

厳樫俊夫「初瀬」(乾健治ほか『桜井市文化叢書12 郷土 上之郷・初瀬・吉隠・大福・吉備』桜井市役所、1961年)

解題

厳樫俊夫(いつかしとしお)は初瀬小学校教頭の職につきながら、初瀬の郷土史家として有名な人物だった。
とりわけ初瀬地域の民俗・伝承・習俗については造詣が深かったことが、この「初瀬」を始め、彼の残した文章から窺われる。 決して著作の数は多作ではないが、1つ1つの記述の濃さから、おそらく活字化されていない無数の資料が彼の手元にあったものと思われる。

たとえば与喜山1つ取ってみても、複数の人物が初瀬の生き字引だった厳樫俊夫の導きで与喜山中を案内されたことに触れている。

「この日は幸いにして、初瀬の旧家に生まれ育った郷土史家厳樫俊夫氏の先導を得たので達することができた」(藤本浩一「長谷寺と天神山」『磐座紀行』向陽書房、1982年)

「われわれは郷土史家の厳樫俊夫氏の案内で千古斧鉞を入れぬという与喜山の山の中にわけ入った」(水谷慶一『知られざる古代』日本放送出版協会、1980年)

「第一回、第二回調査に初瀬の厳樫俊夫氏が案内役に当られ」(松本俊吉『桜井の古文化財その二 磐座』桜井市教育委員会、1976年)

2016年3月8日火曜日

逵日出典「長谷寺にみる天神信仰」『古代山岳寺院の研究 一 長谷寺史の研究』(巌南堂書店、1979年)

解題

  神仏習合、神々と仏の宗教史を専門とする逵日出典(つじ ひでのり)の著作。
本書を読めば、長谷寺の歴史、特に事実面において漏らさず知識を深めることができる基礎テキストと言ってさしつかえないだろう。
本書の第八章が「長谷寺にみる天神信仰」と題され、長谷寺が尊崇してきた神々について考察されている。1979年時点までの研究史も踏まえた上で著述されている。

初瀬でかつてから信仰されてきた地域神を、長谷寺も地主神として大切に敬ってきたが、長谷寺が東大寺を離れ興福寺の影響下に入り支配論理が変わることで、平安時代末期から初瀬の神々の入れ替えがなされ、天照大神・菅原天神という新たな天神が初瀬を代表する神となっていく変遷が、極めてわかりやすく説明されている。
初瀬という地域が、いかに多くの神々のるつぼとして機能してきたかを実感することができるだろう。

2016年3月7日月曜日

岡田杲師「豊山長谷寺の地主神(鎮守)に就て(其一・其二・其三)」(『豊山学報』第四号・第五号・第六号、1958年・1959年・1960年)

解題

  長谷寺普門院に勤める岡田杲師が、其一・其二・其三と三回に分けて著した、長谷寺の地主神に関する論考。長谷寺の地主神ということで、つまり与喜山の神に関する考察となる。
とりわけ岡田杲師の本研究の優れた点は、以下の通りである。

・秘蔵されている滝蔵神社の神像を拝観して、それを記録に残した。
・與喜天満神社の神像も拝観して、記録した。
・鍋倉神社の旧社地に「鶯墳(うぐゐす墳)」と呼ばれる、祭神・大倉姫命の墓とされる墳墓がかつて存在したことを記した(墳墓自体は破壊され現在正確な跡地も不明となっている)。
・北朝光明天皇の陵が與喜天満神社境内の「風吹き」と呼ばれる場所にあったと記す絵図(現在は行方不明)の存在に言及した。
・初瀬の旧家・厳樫家に「磯城の厳樫之本の旧跡を確認した」を記す著者・製作年不明の古文書があったこととその全文を紹介(古文書自体はその後紛失され所在不明)。ちなみに岡田氏はこの古文書の著者を本居宣長と推測している。

2016年3月6日日曜日

与喜山聞き取り調査(2013.10.31および2014.1.3)

聞き取り調査の目的

私が現地の方からお話を伺いたいのは次の3つである。

  1. 杉髙講に関すること。どのようなきっかけで、何のために、どうやって、与喜山の「北ののぞき」に祭祀設備を整備したのか。地元の方の協力度・定着度はいかほどだったのか。なぜ今は途絶えているのか。
  2. 故・厳樫俊夫氏の足跡。できることなら、氏が遺したであろう多数の与喜山資料にお目にかかりたい。処分されていなければ、きっとそこには与喜山の旧跡に関わる膨大な情報が眠っているものと思われる。未確認の磐座の位置も特定できるはずである。
  3. 与喜山の山中の旧跡や地名に関して、文献記録に残っていない情報の収集。

これらはいずれも、このまま放置していると人々の記憶の中から忘却され、二度と復元できない歴史となりうる。
特に杉髙講は、正史の中では決して取り上げられないであろう、地方の一宗教団体の歴史である。これも立派な歴史であることに変わりはない。当時を知る話者に話を聞かなければ、永久にこの講の歴史は消失してしまうことが予想される。
だから、当時を知る話者が生きている間に、一つでも多くの情報を聞き取り、記録し、後世に保存する民俗学的方法が求められるのである。

2016年3月5日土曜日

与喜山第1次~第9次踏査の概要

第1次踏査(2002.3.30)


南尾根~登頂~北林道経由の踏査。長谷山口坐神社・豊秋津姫命社・與喜天満神社・御旅所・白鬚神社・素戔嗚神社・見廻不動尊の確認。『磐座紀行』収集。

与喜山頂上付近

2016年3月4日金曜日

真木山神社(三重県伊賀市)


三重県伊賀市槙山3237

本殿裏に「神石」と推測される岩石がある。

今は土草に半ば埋もれているが、本殿裏には確かに岩盤が隆起している。

真木山神社

「神石」と記した出典ははっきりしていない。

また、真木山神社はかつて別の場所にあって、それが現社地へ遷座したという。

白石明神の名前も持つという。

京都市松尾大社で近年発見された本殿裏の岩盤と似ている。

ただし、本殿裏の岩石=神石・磐座という機械的思考は避けたい。

社殿地を決める目印は、他にでもいくらでもありそうなものだからである。

2016年3月3日木曜日

日本の岩石信仰は、いつどのように始まったのか?

岩石信仰の始まりはいつか?
これは大きなテーマです。

しばしば、縄文時代から巨石信仰があったという前提で話をされている方や、超古代文明・古史古伝・神代文字・ペトログリフ・ペトログラフ・日本ピラミッドと絡めて磐座を取り上げられる方がいます。
このあたりについての調査は、かつて数年自分なりに納得するまで追究したことがありますが、結局確たる根拠を掴むことはできなかった思い出があります。
確たる根拠がないのに、それを前提として語ることは、歴史への捏造にもつながるわけですから、歴史を語る者は自制するべきでしょう。

今回は、あくまでも考古学的根拠からこのテーマについて回答します。
回答内容は地味に見えるかもしれません。でも、おおむね歴史というのはそういう性質のものだと思います。地味と片付けられがちな人々の足跡に、どう目線を向けるかです。

文字が登場する前の時代から岩石信仰があったとして、土の中から出てきた石の遺物や遺構を、考古学的にどのように判断するかにかかっているでしょう。

私は、岩石信仰の始まりに次の3つのパターンが想定されると考えています。

(1)自然石を信仰したパターン
(2)人工的に整えた岩石を信仰したパターン
(3)岩石を使って、別のものを信仰したパターン

考古学的に、日本最古と言えるのは(2)か(3)のパターンでしょうか。


旧石器時代の岩石信仰の有無


最古級の考古学的発見としては、後期旧石器時代(約20000~15000年前)に岩偶が出土した事例があります(大分県岩戸遺跡出土例)。

岩戸遺跡 文化遺産オンライン

岩偶は、自然石の表面に刻み線を入れて人間などの生物の姿を表現した遺物とされています。
岩戸遺跡の出土例も「こけし形」と形容される頭部と胴部からなり、目の窪みなどの整形が施されています。
これが人を模したものであるなら、当時、石を加工しようとここまで手間をかけて作ったものが単なる人形であるとは言い切れず、信仰に関わるものだったのではないかと推測されるわけです。

当時は打製石器の時代でしたから、石器は「割る・欠く」だけでした。
その時代に「人の形に整える」「線を彫る」までしたことで、単なる石器を超えた手の掛けよう、力の入れようが見られます。

これは私の考えですが、当時で言う「最先端技術」を込めた石に、信仰の意味を持たせたというのはあながちおかしい論理ではないと思います。
(時代は下りますが、弥生時代の銅鐸や、古墳時代の須恵器がそれぞれの時代で祭りの道具として神聖視された理由も、それらが当時最高の技術を持って作られた最先端の品だったからとする考えが考古学の研究であります)

つまり、最古級の岩石信仰が自然石ではなく人工の岩石(岩偶)だったとするならば、その理由はここにあったかもしれないということです。

ただし、この岩偶が本当に人間を模したものかは、線刻がまだ曖昧な部分もあるので分かりません。

石の人形は「(2)人工的に整えた岩石を信仰したパターン」に属すかもしれませんが、人形イコール信仰の対象だったかと言うと、そうとも言い切れません。
別の何かを信仰するために、祭りに使う道具として人形を作ったという「(3)岩石を使って、別のものを信仰したパターン」かもしれませんよね。この人形を祭りに使ったどうかもわかりませんが。

別の何かを信仰していたのなら、岩石は信仰の対象ではなく、信仰・祭祀をするための素材として利用されたという視点の切り分けが必要でしょう。
そして、岩石がそのままでは存在できなかったという点で、自然石への信仰というよりは自然石を一種のキャンパスにして、製作者が岩石に表現をしたかったという痕跡がこれらの石器となります。

まだまだ旧石器時代の信仰については不明点が多いのです。だから、岩石信仰の始まりというテーマは語りにくいのですね。


縄文時代の岩石信仰について


そこで縄文時代になるとどうかという話ですが、岩偶のほかに岩版、石棒、石冠、御物石器など、精神的道具といわれる石器の出土が増加します。
石棒や石冠はそれぞれ男女の生殖器を象り、遺物の検出状況から石棒に火をかけたり摩耗痕があったり使用後に打ち欠いたりと、考古学的にも性信仰にかかわる祭祀行為が推測されている状況です。
この場合、信仰の中心は生殖器・性信仰にあり、岩石はその信仰を体現するため人為的に手を入れられた素材・キャンパスであるということに、基本的に旧石器時代と岩石の置かれた状況は変わりません。

さて、縄文時代早期になると、集石土壙墓を嚆矢とした配石遺構も登場します。
これは、地面に穴を掘ってその下に死者を葬るというお墓の一種で、その墓穴を覆った土の上に小石が集められています。

行司免遺跡の土坑墓(配置墓)

お墓というものは、亡くなった人を葬ってその心を鎮め、死者の心を祖先の霊に転化させ、自分たち子孫をいろいろな面で守護する存在に導く施設と考えられます。
お墓は葬儀の場所ということで、祭祀行為とは別物に思われがちなのですが、祖霊を対象にまつるという点で、お墓も立派な祭祀施設です。

そんなお墓に、小石を集めて地表に露出させることで、ここが祖先の眠る場だとわかるようにしたのでしょう。
土を埋めるだけでいいはずなのに、あえて地表面にだけ岩石を集めた。この心の動きを墓標という概念で表せるのかもしれません。

岩石を墓標としたことで、岩石はおのずと、祖先の霊と交流できる場所の意味を持ち、信仰の要素を帯びます。

墓標は明らかに「(3)岩石を使って、別のものを信仰したパターン」と言えるでしょう。
集石を通して、そこにはもういない形而上的存在である祖先をまつったのです。

すべての配石遺構が地下に埋葬施設をもっているわけではないのですが、お墓として用いた配石遺構が存在するという事実をもって、岩石を使って祖霊信仰をしていたことを縄文時代早期以降は認めて良いと思います。


自然石信仰が始まった時期


ところで、おそらく岩石信仰という言葉でイメージされやすいのは、「(1)自然石を信仰したパターン」なのではないかと思います。
これの最古級はどこまで遡れるかという話ですが、考古学者によって見解が分かれていて、縄文時代という人と、弥生時代という人と、古墳時代からだという人がいます。

・縄文時代派
縄文時代の遺物が見つかる遺跡から、自然石・自然岩がみつかる例も複数報告されている。船引・堂平遺跡(福島県田村市)、皆野岩鼻遺跡(埼玉県秩父郡皆野町)、合角中組遺跡(埼玉県秩父郡小鹿野町)、女夫石遺跡(山梨県韮崎市)が代表的な例で、それぞれ高さは人の身長をやや越えるかくらいの岩塊ながら、その傍らから石棒(時には土偶も)が検出されるという傾向がある。
ほかに、縄文時代の集落遺跡から丸い石(おそらく川の浸食作用で磨かれた自然石)が固まって出土する例が複数見られる。この丸石を信仰の石とみなす説がある(ただしそれ以上の論が発展しない)



当ブログ記事より
女夫石遺跡(山梨県韮崎市)


・弥生時代派
自然石や岩肌の近くから青銅器(銅鐸など)が発見される場合があり、青銅器を埋納祭祀した信仰だったとする説がある。しかし、これらの青銅祭器は中世の再埋納の痕跡が見つかっている例もあることから、弥生時代の配置のままではないとする反論も根強く有力。

肯定的な事例
梅ヶ畑遺跡~自然石傍の銅鐸出土地と古代祭祀遺跡~(京都府京都市)

否定的な事例
気比遺跡/気比銅鐸出土地(兵庫県豊岡市)


・古墳時代派
奈良県三輪山の磐座、福岡県沖ノ島の磐座、島根県大船山の石神など、自然石を神の座る場所や神そのものとしてまつる遺跡が各地で確認されている。これに反対する研究者はほぼおらず、定説化している。

奈良県三輪山の山ノ神遺跡。古墳時代の磐座遺跡として有名。


よって、自然石への信仰時期について全員が文句なく従うのは古墳時代前期です。
古事記に「磐座」という岩石信仰の記述が登場する300年前ということで、学術的にはそんなに古くは遡れていないのが現状です。

でも、自然の岩石というのは、言葉の通り「自然のまま」のため、自然に対する人の信仰というのは最も科学的に証明しにくい領域の一つだと思います。
考古学は岩石に限らず何でもそうですが、土の中から見つからない物はまだ「ない」ものとして判断するしかないので、これは逆に言えば「まだわからないロマンの部分」で後世の研究の楽しみに任せられて、それはそれでいいのではないでしょうかと思います。

このように、岩石信仰の始まりというテーマだけでも、将来的な研究の余地は大きく残されています。

関連記事


岩石信仰の種類と見分けかた~石神・磐座・磐境・奇岩・巨石の世界~

磐座(いわくら)とはどういう意味ですか?

古代人は巨石をどのように運んだのですか?



2016年3月2日水曜日

YouTubeで磐座などをテーマにしている動画は少ない

今日の更新事項

1、岩石祭祀事例集成表のexcelをダウンロードできるようにしました。

拙著の巻末に載せている集成表の元データです。
これを公開しておかないと、研究の根拠を隠しているようなものなので、私がし続けないといけない責務でしょう。

2、岩石祭祀事例分布図(googleマップ)は、リンクを少しずつ貼っていきます。

flickrの画像とうまく連動できればいいのですが・・・
場所のドット落としをどう「楽に」続けていくかは、今後の課題です。

3、動画を公開しました。

写真よりも立体感・スケール感がつかみやすく、良いですね。
今後の探訪で記録する機会が増えそうです。

 
山神遺跡(三重県伊賀市)

2016年3月1日火曜日

お知らせ

昨年、職場に岩石信仰関係の電話をいただくことがありました。

私をわざわざ調べて来てくれたのだろうと思います。すみません。

web上のポータルがいるだろうと思い、このブログをスタートします。

bloggerはgoogleが提供しているサービスですから、今度は長く続くと良いですね。

*しばらく休んでみて分かったのですが、こういう発信をしないと研究が出不精になり頭と体も錆びつく一方で良くないと感じたので、リハビリも兼ねています。

*今まで私が蓄積してきたバラバラの情報をここに統合する気です。

*ただしマイペースです。

*与喜山の調査は続行中です。いつか専用ページを作りたいものです。