解題
『長谷寺霊験記』あるいは『長谷寺験記』の名で知られる。作者・成立年代ともにはっきりしていないが、長谷寺の勧進聖により鎌倉時代に編纂された説話集というのが大方の見解である。近年の研究では13世紀後半説が有力である。
また、『長谷寺霊験記』の中で『長谷寺縁起文』『長谷寺密奏記』 の編纂について触れられた内容があることから、少なくとも『長谷寺縁起文』『長谷寺密奏記』の2冊よりは後出して完成された文献ということは間違いない。
上下巻に分かれ、上巻の第十一話が、与喜天満神社祭神の菅原天神(菅原道真)がどのようにして長谷寺の地主神となったかを説明する物語となっている。簡易な意訳を下記に載せよう。
神殿ノ大夫武麿という人物がいた。出家はしていなかったが長谷寺に長年住み、神仏に仕える身だったという。
天慶9年(946年)、武麿の家の前に狩装束姿の60歳ばかりの客俗(人物)が「石ノ上ニ尻打チカケテ」いた。客俗は気高い雰囲気で凡人とは思えなかった。
すると客俗は「石ノ上ニ立テ」、長谷寺観音堂に向かって登りだした。四辻のあるところで川に下りて水浴びをし、「路ノ端ニ石有ケルニ」、くたびれた様子で腰かけて休んだ。
武麿は食事を客俗に供しながら、彼が進む方向についていった。客俗は観音堂で念誦した後、鎮守の瀧蔵ノ社に参った。その夜半、天から黒雲が下りてきて客俗を覆いだした。瀧蔵ノ社内に黒雲が充満し、その雲が晴れてきたと思ったら、客俗は狩装束から束帯装束に変わっていて、数多くの眷属(従者)を連れていた。
すると瀧蔵ノ御宝殿の扉がひとりでに開き、中からもう一人束帯をした俗(人物)が眷属を率いて、客俗と対面した。二人はともに拝殿に登り、会話をし出した。
客俗が「私は右大臣正二位天満天神菅原某である。無実の罪で鎮西に左遷させられたのを恨み、人々に祟りをしてきた。私の罪業は深く心苦しんでいる。この山に住んで大聖にお会いし、自らの苦しみを免れたいと思う。できることならこの山に一社殿を造ることを許していただけないか」と申した。
俗の姿をした瀧蔵権現は「私は昔からこの山の地主として、この河の河上に住んでいた。この場所は仏法相応の地で鎮護国家の砌としてさまざまな不思議がある。その中にある長谷寺の宝座は金剛不動の宝石である。この宝石は衆生の福が大きい時は姿を現し、衆生の福が少ない時には隠れて冥界に僅かな福をもたらしている。今は釈迦の末世にあたり、少々の宿縁があってこの宝石が現われている。これを護り大聖を助けるため、私は元々いた山から出て世間に交じってきたのだ。そんな私もこれからは元々いた山に隠遁し、そこから伽藍を護り、時々はこの地に来て大聖に会いに来るようにしようと思う。この山を君に譲ろう。今より後は永くこの山の地主として伽藍を守られよ」とおっしゃった。
客俗の姿をした天神は「私がこの山に住むとしたら、山のどの場所に住むべきでしょうか」と尋ねた。
瀧蔵権現は「東ノ山」に大きな松がある所を指さし、「あの松の生えている所は因曼荼羅ノ峰といい断感修善によき地である。あそこに住むべきだ」と答えられた。
そこで天神は雲に乗り、すぐに雷神となって虚空に鳴り登ってその松のある場所へ到着した。瀧蔵権現が「よき地」と言ったので、この社を與喜(ヨキ)ノ大明神と名付けた。周囲一帯も與喜ノ村と呼び、北野天神が坐す場所となった。
最初の3年は社がなくただ松の木をもってご神体としていたが、再び神託があり天暦2年(948年)7月に武麿が松の木の下に宝殿を造り、社殿の中にまつるようになった。その年の9月には郷内の民が我らの氏神であると号した。
ということで、本物語は瀧蔵権現が菅原天神に初瀬鎮守の地主神という位置を請われて譲り、瀧蔵権現が仏法守護の地として「よき」地と言ったから与喜の神名と地名が起こったという由来を伝える重要古文献となっている。この物語をもって、瀧蔵権現を本地主と呼び、菅原天神すなわち与喜天神を今地主と呼ぶようになる。
この物語を研究する切り口は幾通りもあるだろうが、私が着目したいのは次の点である。
■石の上を好む菅原天神
武麿の家の前の「石ノ上ニ尻打チカケテ」、また、「石ノ上ニ立テ」いるだけなく、長谷寺に向かう途中の「路ノ端ニ石」で休むなど、石を使った行動が3ヶ所も語られている。読む人が読めば、単なる素材としての石を利用しただけと読むことももちろんできるが、この三連続の記述に執拗さを認めるのであれば、石に座り、石の上に建ち、石で休むという行為が、そのまま神の降臨や信仰になぞらえることができるのは、岩石信仰の各事例や各文献の記述を持ち出すまでもないだろう。
■瀧蔵権現が住む場所とは
一般的に、この物語は瀧蔵権現が長谷寺の山を菅原天神に譲り、自らは初瀬川上流の現・瀧蔵神社の地に遷ったと理解されている。 しかし、もう少しこの部分を正確に読み解きたい。瀧蔵権現は「我レ昔ヨリ此ノ山ノ地主トシテ此ノ河上ニ住キ」と述べている。また「本居ノ山ヲ出テカカル憤閙ノ塵ニ交ル」とも述べている。
この二文からは、瀧蔵権現は元来、初瀬川上流に住みながら初瀬の地主神として君臨していたことと、その初瀬川上流の地から長谷寺の地まで出張して、衆生に仏法強化の助けをしてきたことが読み取れるのではないか。
ということは、瀧蔵権現が長谷寺の地から初瀬川上流に退いたという流れは伝承上正確ではなく、菅原天神に長谷寺の地を任せるから、瀧蔵権現は川下への出張を止めて(ただし、時々来るとも言っている)元いた場所に戻ったというのが正しい表現だ。
瀧蔵権現が知らない土地に追いやられたというイメージではなく、川下に出張っていたのが菅原天神の要請により元の鞘に納まったというのが、伝承の語るイメージである。物語の上では、菅原天神は「申す」立場で、瀧蔵権現は「仰る」立場で一貫して描かれている。
もちろん、伝承上の話をなぞったまでということは重々承知した上である。ただし、この伝承を安易に国譲り神話のごとく解釈することで、正確な物語の移り変わりが看過されるのは避けなければならないだろう。
■「東ノ山」の役割
物語の中で、瀧蔵権現と菅原天神は共に長谷寺境内の瀧蔵社で会話している。瀧蔵権現が長谷寺に出張していた時の居所がここだったのだろう。その瀧蔵権現が菅原天神に地主神の座を譲る時に、どこに菅原天神が鎮まるべきかという問いに対し、瀧蔵権現は自らの居所である長谷寺境内(=小泊瀬山)ではなく、「東ノ山」の大なる松を指さしている。
長谷寺から見て東の山に当たり、現在、与喜天満神社が鎮まるのは与喜山の麓であることから、「東ノ山」が与喜山のことを指すのは一目瞭然である。因曼荼羅ノ峰は与喜山の別称としても知られている。
なぜ、瀧蔵権現は長谷寺が建つ小泊瀬山ではなく、東の与喜山を薦めたのか。これはもっと注目してよい問題である。
1つの回答としては、瀧蔵権現は先述のとおり、川上に退いた後も時々長谷寺に来て大聖に会いに来ると言っていることと、現在に至るまで長谷寺境内に滝蔵権現の社は残されたままであることから、小泊瀬山は瀧蔵権現の出張所としての役割は完全に消えてはいなかったと言える。だから菅原天神を初瀬の山々の中で隣の与喜山が適切だと、神のいる地を住み分けたのかもしれない。
もう1つの回答としては、本地主神である瀧蔵権現が本拠地を長谷寺そのものとせず初瀬川上流の滝倉地区としていたように、 今地主神である菅原天神も長谷寺そのものを神の住む地とせず、長谷寺から離れた与喜山を神の住む地としてふさわしいと考えたのかもしれない。つまり、仏の住む山と神の住む山を住み分けたという考えを見ることもできる。
与喜山自身がなぜ神の住む山として選ばれたのか。それは、与喜山自体が持つ神山としての歴史があったからではないか。与喜山の持つ力とは何かという論点については、『長谷寺霊験記』にはこれ以上語られていないが、別の古文献に見つけることができる。それはまた別項にて触れることとしたい。
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