解題
『長谷寺縁起文』は菅原道真が長谷寺の縁起を執筆したという体裁をとっているが、実際は平安時代末~鎌倉時代に菅原道真に仮託して書かれた文献として定説化している。筆者が偽者であるからといって資料価値がないということではなく、当時、菅原道真に仮託されて書かれた文献は本書だけではなく数多く知られ、撰者が自らの名で発表するよりも著名人に仮託して文献の様々な性質を高めようとする行為は、現代の偽書意識と違う感覚でおこなわれていたことを考慮しなければならない。
『長谷寺縁起文』の成立は12世紀説と13世紀説が対立しており、いずれにしても長谷寺創建時に編まれた同時代記録というわけではない。
しかし、それ以前の長谷寺の縁起に比して本書は最も体系的かつ具体的な内容をまとめていることから、長谷寺の由緒・由来を説明する文献の中の代表格として位置づけられている。『長谷寺密奏記』『長谷寺霊験記』よりも先行する文献としても知られるため、長谷寺の縁起伝承を知るにはまず本書から始めたい。
以下に重要箇所を意訳していこう。
■長谷寺の概要(『長谷寺縁起文』より)
長谷寺は神河浦の北にある豊山峯にある。徳道聖人が十一面観世音菩薩の道場として建立した。この豊山には二つの寺があり、一つは泊瀬寺といい、本長谷寺の別称を持つ。もう一つは長谷寺で、後長谷寺ともいう。
十一面堂の西に谷があり、その西の岡に三重塔・石室・仏像がありこれが泊瀬寺である。泊瀬川の上にあるからこの号がある。瀧蔵権現が鎮座しており、往古から諸天影向の地であった。瀧蔵社の脇には、天人が造った毘沙門天王があり、古の人は天霊神と呼んだ。
ある時、天から雷が落ち、御手宝塔が流れてきて豊山の山麓にある三神里の神河の瀬に泊まった。武内宿禰の卜占によれば、これは天徳を授け地栄を表わすということらしい。そこで北峯の西北隅にこの宝塔を埋納し、この故事に則って三神の号を改めて泊瀬豊山と呼ぶようになった。その後三百年余を経て、道明上人がこの宝塔を石室に移してからというもの当地は栄えるようになった。さらに天武天皇が勅を出し弘福寺道明聖人に精舎を建てさせた。金銅仏像の下には天皇御筆縁起文がある。
次に、谷の東には十一面堂などがあり、これが長谷寺である。谷が長いことからこの名がある。この寺は徳道聖人の願いによって、藤原北家の祖である藤原房前朝臣が元正天皇に奉り、聖武天皇の詔勅によって建立された。
■徳道聖人が長谷寺を建立した経緯(『長谷寺縁起文』より)
徳道聖人は豊山に来て、この山が古仙修行の跡で吉祥の地であると悟った。徳道聖人はここに精舎を建てたいと思い、山内を見回ったところ、北峯から金色の光が現われた。奇妙に思って勤行をしながら日々その場所に通いつめた。
このことを師である道明聖人に語り、「私はここに仏像を造りたい。そのための仏木を探し求めています」と尋ねたところ、道明聖人は「いいだろう。そう遠くない神河浦に霊木がありこれが良いだろう」と答えた。
その夜、徳道聖人は夢を見て、その霊木を三尾大明神と豊山の守護童子たちがその霊木を守っているとの宣を受け歓喜した。
文武天皇即位十年丙午年、徳道聖人は長谷郷の古老に案内され霊木に出会った。古老は次の話をしてくれた。
「霊木の由来は我々も知らないが、伝え聞いたところでは、近江国高島郡三尾前の山に深い谷があり、これを白蓮花谷という。その谷に大木が臥せり、瑞光と異香を発していた。それが継体天皇即位十一年丁酉年、雷雨洪水によりこの木が谷から流出し、志賀郡大津浦にて六十九年の間漂っていた。由来を知らない百姓たちがこの木を伐採しようとしたところ、郡内の家々は燃え疾病が蔓延した。原因を占ったところこの木によるものだったので、この話を聞いた者はこの木を伐採するのをやめた。大和国高市郡八木里の小井門子という女性が、父母並びに急死した夫のために仏像が造りたいと思い、大津里に来た。用明天皇即位元年丙午年、八木の辻まで曳いて置いたが、そこで木の祟りにより門子は死去した。その後この八木里は三十年余り、群郷家門に災難が起こり続けた。その時、葛下郡の出雲臣大水沙彌法勢という人が十一面像を造りたいと思い、推古天皇即位二十六年戊寅年、葛下郡当麻郷まで曳いてきたが、その願いはかなわなかった。この郡里では五十年余り不吉な出来事が続いた。郷民たちはみな我慢できず、天智天皇即位七年戊辰年、城上郡長谷郷北神河浦へ曳いてきて捨てた。その後この里に九年留まっているという」
徳道聖人はこの話を聞き、霊奇があるに違いないと思った。そこで里人に「私は自らの三宝徳を以て十一面自在菩薩像をこの木に顕したい」と言った。古老の許可を得て、徳道聖人は十五年間修業の期間を置いたがなかなか願いは果たされなかった。ある時徳道聖人は夢を見て、東峯に三燈がともり傍らに人がいるのを見た。その人曰く「三燈は三世利益を表わす。霊木をこの峯に引き上げて仏像を造るべし」という。そこで徳道聖人は養老四年庚申年二月に仏木を東峯に引き上げ、庵を結び、香花を備え、霊木に礼拝を重ねた。
その頃、藤原氏は法界平等利益のために十一面像を欲していた。我が願い叶えば、霊木も自ずと仏になるなどという。元正天皇即位六年壬戌年秋七月、藤原房前朝臣が大和国班田勅使となり狩りのためにこの東峯に立ち寄った。 山中で礼拝音が聞こえた。房前は庵の前に立ち、「聖人は何を祈られているのか」と問うた。
徳道聖人曰く「伝え聞くところによると、第六天魔王が我が国を犯す時、天照大神が法性宮にいてこのことを見ていると。悲しみのあまり、天照大神が春日明神に契りを交わして、『あなたと共に地上に下って、私が国主となろう。あなたは臣となり衆生を守ってほしい。』と言うので、このことから二神は交わり、二神の孫はこの国を治めるようになった。今、両家の仏法は荒廃している。再び仏法を栄えさせたい。この大願を遂げるために仏像を造りたいと思うのです」と答えた。
勅使はこれを聞き、これは慶賀事だから、助成してあげたいということで朝廷に奏上する運びとなった。元正天皇から聖武天皇に代が替わり、房前はが重ねて奏上したことから、神亀元年甲子年二月二十三日に勅が下り、神亀六年己已年四月八日辰時、吉日かつ良時を以て御衣木の加持を始める。加持役は道慈律師によって行われた。三日間かけ、十一面観自在菩薩像を造りだす。高さ二丈六尺で、その巧匠は稽文会、稽主勲が務めた。
仏像を造り始めて二日目、樵夫の吉躬津麻呂が山に入り薪を取っていたところ、仏所の方に稽文会が地蔵菩薩となって仏像を刻んでいるのを見つけた。また、稽主勲が観自在菩薩となって同じく仏像を刻んでいるのも見た。これは不思議なことだと思い吉躬津麻呂は徳道聖人にこのことを語った。さっそく徳道聖人が見に行ったところ話の通りだった。これはまさに地蔵観音の応化で、神明の尊崇の印であった。
堂舎を建てる場所は険しく難所であったため、徳道聖人は本尊に、願わくば精舎を建てさせてくださいと発願した。その夜、夢に一金神が出てきて、北峯を指さしてこう言った。「聖人よ悩むことはない。峯の険しい所の地中に金剛宝磐石がある。上面は平たく下部は狭い。その体は三枝に分かれ、石の上で大悲菩薩が坐して説法をしていた。これを金剛宝師子座とするべし。元来は地上に顕われていないが機縁があるだろう」
天平元年己已年八月十五日、夜半に天風が峯を吹き、大雨が降った。山が崩れ石が割れる音がした。心が休まらず、窓を開けてみたところ、雷が輝き、天龍八部並びに八大童子等が巖を押して地を掘っていた。夜が明け北峯へ見に行くと、掌の如く平らになっている場所があった。そこに金剛宝磐石があり、縦横正方形状でそれぞれ八尺の長さだった。その面には掌の如く綾文と菩薩行足穴があった。新像の御足が入るに相違なかった。
徳道聖人は悦び、「この山には様々な霊瑞が起こった。当山を大伽藍としたい」と考えた。朝廷、藤原氏の後押しがあり、天平五年癸酉年五月十八日、藤原房前が長谷寺に勅を奉じ、同二十日に開眼供養を奉る。導師は行基上人で、興福寺、元興寺、大安寺、法隆寺の僧が参列した。
■東山の説明(『長谷寺縁起文』より書き下しを施す)
東山腰、河を隔てて鵝形石有り。天照大神影向し彼の石の上に坐す。其の石の南に沓形石有り。春日大明神影向石なり。此等神石の北谷に又仙宮有り。凡そ不動魔を伏して瀧下に立つ。天人、佛を奉じて山上に居り。山内、聖衆修行の所地非ざる無し。此の山則ち秘密荘厳之土。群仙窟宅之地なり。
以上、長谷寺および与喜山に関わる部分を紹介した。いくつかの気づきをまとめておきたい。
- 泊瀬寺(本長谷寺)に瀧蔵権現が鎮座していたこと。
- 宝塔の泊瀬の故事がある前は、この地を三神の里、初瀬川を神河と呼んでいたこと。
- 長谷の名の起こりを、そのまま谷が長い地形に求めていること。
- 長谷寺本尊の十一面観音の御衣木となった霊木は、近江国高島郡三尾前、志賀郡大津浦、大和国高市郡八木里、葛下郡当麻郷を経て長谷郷に来たこと。各地名が登場する意味があるのだろう。
- 加えて、霊木の祟り伝承に比較的多くの紙幅を費やし、年数・人名など、枝葉末節に具体的な内容を盛り込んでいること。
- 徳道聖人は十五年の修業期間を経た後、「東峯」に霊木を引き上げなければ十一面観音像を造立できなかったという物語になっていること。
- 十一面観音および長谷寺伽藍の造立に際して、藤原北家の力を借りていること。および、藤原氏の氏神である春日大明神が登場していること。
- 地中から現れ出た金剛宝磐石の上に、長谷寺本尊の十一面観音が建つこと。これを以て北峯に長谷寺の伽藍が建てられた。北峯は小泊瀬山を指すことがわかる。
- 長谷の山々の偉大さを語る記述の中に、「東山」が登場すること。これは「東峯」と同じで、与喜山に比定される。鵝形石・沓形石の存在や、三燈峰が与喜山の別称であることなどがそれを裏付ける。
- 東山が、天照大神・春日大明神のほか、不動、天人、仙人の宿る山として語られていること。
- 成立年代が後出する『長谷寺霊験記』に記されたような与喜天神はもちろんのこと(本書の作者が菅原道真に仮託されているので当然だが)、長谷山口神、堝倉神などについては、当時存在していたことは確かなのに記述が一切ないこと。唯一、瀧蔵権現のみが看過されることなく登場している。
『長谷寺縁起文』は、当時有数無数に存在したであろう長谷寺の由来を、あくまでも氷山の一角だけ切り取り、記述した性質の文献だろう。
言い換えると、『長谷寺縁起文』がこのような記述内容になった背景には、「意図的に掲載した情報」「掲載したくない、あるいは掲載しなくても良いが、看過できず掲載せざるを得なかった情報」「意図的に掲載しなかった情報」があるだろうことに注意したい。
意図的に掲載した情報は、本文中で強調されていたり、繰り返し書かれていたり登場しているものだろう。掲載せざるを得なかった情報は、話の流れに逆らって突如挿入されるものや、物語の流れに無関係または邪魔なのに書かれているものだろう。意図的に掲載しなかった情報は、当時存在したことが確かなのに本文中で触れられていないものだろう。
今、それを厳密に見分けられているわけではない。それを選別するためには、他文献のさらなる収集調査が必要である。現時点では上記のポイントを挙げるにとどめておきたい。
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