解題
作者は明記されていないが、長谷寺の関係者が書いた地主神の縁起と見て良い。内容は『長谷寺霊験記』の瀧蔵権現-与喜天神地主交替伝承の再編集で7割を占め、残り3割は長谷寺の沿革を『長谷寺縁起文』の霊木伝承などをかいつまみながらコンパクトにまとめている。
したがって、本文献のみに記されているような特有の情報というのはほぼない。あえて言うならば、『長谷寺縁起文』『長谷寺霊験記』の後に各伝承がどのように編集され、どのように細部が変容したかを追うに適した資料である。そこを焦点に置きながら重要部分を下に引用したい。
有神殿大夫武丸(中略)一時主上不豫。勅使武丸持念。則沈痾平安。上大悦而賜五位退出矣。時人稱後役行者。
而后踞石上
人坐路畔石上憩息矣。
瀧蔵遥指東山大松下曰、彼松樹所者。爲因曼荼羅峰。冝断悪修善之地也。二神乗雲。大虗絶去矣。
其像材者自近州高島郡三尾山流出霹靂木也。木之所至有疫災。漸漂流至和州葛下郡神河浦。道明欲取此木刻佛像。
『長谷寺霊験記』では神殿大夫武麿と書かれた人物が、本文献では武丸として、時の天皇の大病を治癒させたことから役行者になぞらえられている。
菅原天神が仮の姿として俗人の格好をして武丸の家の前の「石上」に座っていたことと、途中で「石上」で休んだことは『長谷寺霊験記』と同じだが、「石ノ上ニ立テ」の部分は紙幅の都合からはカットされている。しかし、石の上で菅原道真が行動する様自体は共通して描写されている。
「東山」が因曼荼羅峰の名と共に、善き地として瀧蔵権現が指し示すことで、与喜天満神社が与喜山に鎮座するようになったという流れは『長谷寺霊験記』と共通である。ただし、霊験記では菅原天神一人で東山に飛んで行ったのが、本文献では二神が雲に乗るという細部において異なっている。
後半部の『長谷寺縁起文』の抄訳部分については、霊木に対し仏像を彫りたいと願ったのが縁起文では徳道であるのに対し、本文献では道明となっている。人物を道明に替えた意図はあるのか、単なる取り違え(誤記)の類なのかを推し量ることはできない。
瀧蔵権現が善き地であると示した、東山の大松は『長谷寺縁起文』にも出てくるが、現・与喜天満神社にはそれらしき由縁を伝える松および跡は伝わっていない。
本居宣長たちが、与喜天満神社こそ本来の延喜式内長谷山口坐神社ではないかとする説を出しているが、もしそうであるとするなら『長谷寺縁起文』や本文献に、それらしき社が登場しても良いのではないか。東山の大松下と記される限り、そこには前身となる延喜式内社はなく、松という自然物の下で、新たな神の鎮座地が用意されたと見るのが素直な解釈となるだろう。
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