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2016年4月9日土曜日

ガストン・バシュラール「岩石」(及川馥・訳『大地と意志の夢想』思潮社、1972年)その1

石には石のことばで語れ―そうすれば山はきみのことばをきいて―谷間を降りてくるだろう。(ミストラル『ミレーユ』Ⅵ)

「自然の子供たちの総領である、原始の巌」(ノヴァーリス『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン』)

雲を眺めて夢想にふけるひとは、雲の多い空に累々たる岩壁をみとめることがしばしばある。

大夢想家なら大地の上に、空、鉛いろの空、崩れた空を見る。荒れ模様の空に積み重なった岩を見る。

なぜ、それでは岩石は実際に、空を行く雲よりも鞏固にその人間的な形態、その動物的な形態をとることができるのだろうか。つまり、それは見るという意志、なにものかを見るという意志、むしろ誰かを見るという意志、においてまさしく形成された主観的な最初の形態ではないだろうか。

画家がひとつの岩石に人間のフォルムを与えたらひとは驚くことだろう。作家だけは、あっさりと書くだけで、類似を暗示することができる。

理性のくりかえしいうことは、「これはひとつの岩壁だ」ということである。しかし想像力は、絶えずほかのかずかずの名称を暗示する。想像力は風景を語るし、ひっきりなしに舞台装置の変化を命令する。

こうして岩と雲との対話みたいなものでは、大空が大地を模倣するようになるらしい。岩石と雲は相互に完成しあう。岩場の深い穴とは、動かなくなった雪崩である。あやしい雲ゆきとは、混乱状態におちいった運動なのである。

「アルプス山脈で、ぼくがなにより感激したのは、岩山と雲との交流である。山の中腹から出てくる雲が白くたなびくにを見ると、いつも畏敬と不安の念とにおそわれた。そのつど、ひとつの存在の誕生に立ちあったからではなかろうか。」(E.W.エシュマン『庭での対話』)

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