2016年4月13日水曜日

ガストン・バシュラール「石化の夢想」(及川馥・訳『大地と意志の夢想』思潮社、1972年)その1

大地的な人間は大地を好まない。大地も、岩石も、金属もかれの嫌悪を表明するに役立つだけであろう。

石化する夢想については、ユイスマンスが数多くのページをさいている

小説『仮泊』(クレス版)を選ぼう。それは多くの点で反-大気的な人間、つまり大地的な人間によってものがたられた月旅行の話である。

月そのものの上でも「眼があちこちと落ちつかなく動いている間に」ユイスマンスは「乾燥した漆喰の無限の砂漠」を見てとる。漆喰という貧困で安っぽい物質のこの名詞ひとつで、大空の光はすべて石化されるのである。水の夢想家なら月の水として、あるいは大気の夢想家なら月の流れとしてすぐ感じるような月の光の運動が、停止させられてしまったのである。

「空虚。虚無。芳香の無。嗅覚と聴覚という感覚器官の廃絶。そこでジャークは、実際に足の先で石の塊を地面からひきはなして蹴ってみた。それは紙風船でも転がるようにことりとも音をたてず坂を転がっていった。」たしかにこの記述のどこをとっても、かなり空しい文学的な試みだと見ることができるほど、暴力的イマージュを盛りだくさんに積み重ねている。

截然たるイマージュ群を喚起するこの意志こそは、外科的な真のサディズムをあらわすものではないだろうか。ユイスマンスはまさに月の「白いテーブルクロス」の上に「外科の手術器具箱」をひらいて見せる。

作家は声も物音も真空のなかでは伝達されないことを学校で習った。近代の書物で、月は大気のない天体であり、空虚な空のなかに迷いこんだものであることをかれは読んでいる。かれはこの知識をすべて配列し、うまく結合するイマージュ群を作り出した。しかしこういった合理性の萌芽も、石化作用という このイマージュ群の直接的性格を、われわれの目からそらすことはできない。ユイスマンスのこのページをメデューサ・コンプレックスの挿絵とみなすことができるほど《石に変える》意志を前にしていることはうたがいないからだ。

そこに、沈黙した激怒、石化した憤怒、度をこした瞬間に突如として封じこめられた怒り、を知ることができるだろう。

この巨匠の作品には、このような怒りのスナップの写真がほかにもたくさん見られる。

経験に富んだ心理学者なら、この調子(トーン)には《メデューサ・コンプレックス》つまり一語や、一瞥をもって、他者をその人格の根源において支配したがる、催眠術師の悪い意志の存在を、みとめることができる。

自己自身を無感動な硬い物質に変えることができるならば、呼吸と、ささやきと、匂いとを同時に否定するという、ユイスマンスの欲求をよりよく理解できるようになるだろう。

人間の睡眠の感覚の多元性は大きい。われわれの身体全体が眠ってしまうことはけっしてない。そのためにいつも夢をみるのである。しかし全感覚器官や、全欲求がこぞって夢みることも絶対ない。われわれの夢は、したがって、ひとしい光でわれわれのパーソナリティ全体を照らし出したりはしないのである。

睡眠というただひとつの行為でも、夢みる人間は非常に相違なるいくつかの次元を沈下し、感覚的ないくつかの経験をする。しかもこの経験は、ただ一種だけの感覚器官の特権的な生命のおかげで、同質性を保持することがしばしばあるわけである。たとえば、ユイスマンスの月の夢は、硬さ、冷たさのまったく視覚的な感覚を残すのみである。

ユイスマンスのほかの多くの著作でも、鉱物化された風景という理論の裏打ちができるようだ。

ユイスマンスにとっては、金属のイマージュは呪詛の用具である。

詩人は《もの》を憎悪できることが理解できるだろう。


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