岩壁の機能は、風景に一点の恐怖をそえることにある。
「英国人なら岩壁に対し、ただ危険な印象を与えるほど大きくあれとしか願うまい。もし岩壁が崩れ落ちてきたら、わたしは確実におしつぶされるだろう、といえることが必要なのだ。」(ラスキン『思いの出の記』)
実際数多くの夢想家にとって重厚な岩壁は、自然の墓石である。
さて、ある種の伝説の人間的象徴体系は、きわめて明快なときもあるので、その伝説が利用しているイマージュの素材から、いともやすやすと関心をそらすことがある。知的文学はイマージュの文学に被害を与えるわけだ。知的文学は人間の性格を説明する。そしてイマージュの生命に能動的に参加することをやめる。
なぜ象徴体系のフォルムしかとらえず、その力動性を生きようと試みないのだろう。ここでの関心はきわめて貧困である。われわれはこの石をいま生きない、石をもはや生きないのである。石切場に足をふみいれることなく、前を通りすぎるだけの散歩者がいかに多いことだろう。それでは石の脅威や支柱の勇気をひとは理解できないのではないだろうか。
努力の瞬間についてカミュは謎めいた表現をとっている。「石にぴったりくっついて労々辛苦するひとの顔は、すでに石そのものである。」わたしなら逆に、人間の努力をこれほどふんだんに受けとる岩はすでに人間そのものであるといいたい。
厄介なことは、岩の無表情はどれだけでも脅威だということである。
ひとつの石がお前にほほえむのを もしいつかお前がみたら お前はそれを話してくれるだろうか。(ギルヴィク『水と陸よりなるもの』)
ソーローは沼の《深さ》のしばしば伝説化される意味について模索している。水の深いことはかならずしも必要ではない。もし岸が山のようにそそり立ち、岩壁の頂が水に影を落しているとするなら、ひとは深さを十分夢想できるからである。夢想する人は《深く》ない鏡の前では夢みることができない。そこでソーローはつけ加える。「われわれの身体でも、ぴんとはり出した眉毛は眼に影をおとし、それに応じて思索の深さも示している。」
こうしてあらゆる繊細微妙な心理さえも無感覚な岩のなかに最終的には表明されるのである。人間の伝説は生命のない自然にその挿絵を見出だす。あたかも岩石に自然の碑文が刻まれるいるかのようだ。詩人はそうすると、もっとも古い古文書学者となるだろう。物質はこのように深く伝説的なのである。
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2016年4月10日日曜日
ガストン・バシュラール「岩石」(及川馥・訳『大地と意志の夢想』思潮社、1972年)その3
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