ダンテが「凡庸な登山家であることが明らかになる」とラスキンは結論した。「すべてこういう個所ではダンテの注意は、登頂できるか、あるいは登頂できないか、という特徴に完全に集中している・・・・・・かれは、切りたった、怪物のような、切りとった、有害な、けわしい、以外の形容詞は使用しない。」
ダンテ的という形容詞がだれか作家のペンの先にあらわれるときは、それは大半が岩の世界、石の世界を表すのだということである。ダンテの岩石は原初的イマージュである。
恐怖をあらわすすべての比喩と同じように、並はずれて大きい岩石も笑いの対象となることから免れることはできない。
岩石はまた非常に偉大なモラリストである。たとえば、岩壁は勇気をもつ師の一人である。
ヴィクトル・ユーゴーは「奇怪なかたちの岩礁に対する波の戦闘をすべて知覚できる」とベレはいう。
「二つの岩礁は昨日からの嵐になおも見舞われていて、汗びっしょりの闘士のように見えた。・・・・・・」(V.ユーゴー『海の労働者』ネルソン版、第二巻)
アンドレ・スピールの一行も同じ力学を追求している。
岩礁は笑いながら、泡をきみに吐きかける。(A・スピール『嵐。不条理の道の方へ』)
力動的想像力と力動化する想像力の法則である力の本質的変換をこれ以上によく表わすことができようか。無限の海を前にした岩礁は男性的存在である。
おそろしい岩壁のなかを吹く風は、どうしてつんざくような声を出さずにいられよう。岩の喉は狭い通路だけではなく、大地のすすり泣きにも震えだす喉だ。
日々の労働生活を勇気をもって推進するためには、人間は真の宇宙的モラル、自然の雄大な光景のなかで表現されたモラルを必要とするのだ
現代の読者は、こういうイマージュにほとんど重要性をみとめない。しかしこの不信が不誠実な文学批評、ひとつの時代の想像力を発掘できない批評に、読者をおもむかせているのだ。こうして読者は文学のよろこびを喪失する。合理化するだけの読書、イマージュを感じない読書は、文学的想像力を当然軽視するにいたることは驚くにあたるまい。
ゲーテなどが岩を眺めて見出した、安定性の教訓をすべて跡づけるには、多くの紙幅が必要だろう。
ゲーテは、花崗岩、この原岩石に情熱的な愛着を感じていた。花崗岩は「もっとも深く、もっとも高い」ものを示している。
木の生えていない高い頂きにすわって、ゲーテは自分に向ってつぎのようにいうのが好きだった。「ここでお前は大地のもっとも深部まで達している基盤に直接休息しているのだ。・・・・・この瞬間に・・・・・・大空の作用と同時に、大地からの内密な力がわたしの上に働きかけているのだ。」
別のところでゲーテは書いている。「岩山、その力がわたしのたましいを高揚させ、そしてゆるぎないものにする。」花崗岩の岩壁は賛美されたかれの存在の土台石になるばかりか、内面を鞏固にしてくれるわけである。
大地ではなく、岩石に所属することは、大きな夢であり、文学のなかにも無数の痕跡をのこしているのが見られる。岩壁に築かれた城の栄光をうたい、岩石の間で生きる人々の勇気をたたえる作品のいかに多いことか。
クレメンス・ブレンターノ(デュルラー『ゲーテとドイツ・ロマン主義における鉱山の意義』二〇三ページの引用)もまた花崗岩の誇りを分有した。
この永遠の法則、 社会の根底となる原花崗岩をお前が罵るなら 山脈のなかで光にせまる 地球の核心を侮辱することになろう
ヘーゲルにとって花崗岩は《山々の中核》である(『自然哲学』仏訳Ⅱ巻三七九ページ)これはすぐれて具象的な原理なのである。金属は「花崗岩より具象的でない。」「花崗岩はもっとも本質的、基本的な実体であり、それになにか形成物が付着するのだ。」ひとつの物質にたいするこの偏愛、予期しないこの断定は、人間がイマージュに服従するものであることを十分に証明している。
花崗岩がその存在の恒久性を主張するのは、その小さな粒子そのものにおいてである。それは浸透も、傷も、磨滅も、一切受けつけない。そのとき、一群の夢想が発生し、それが意志の教育に大きく役割を果す。ゲーテの様に花崗岩を夢みることは、動かしがたい存在として自己を示すだけでなく、あらゆる打撃や、あらゆる侮辱にも内面的には自分が無感覚でいるようにするためなのだ。軟弱なたましいは硬い性質をほとんど想像することはできない。
たった一行で、詩人は硬い物質の高貴さを感じとらせることができる。
手にかくもなつかしきある言葉、花崗岩。
と『手帳』に書いたのはヤネット・ドレタン=タルディフである(『生きる試み』七三ページ)。岩石の実体をあらわす語そのものが、固い単語であることは注目すべきではないだろうか。
口で話す場合にも、人間はその手の経験を保存しようとするのである。こういう単語を口を動かして発音してみれば、優れた地理学者、ウェルナーが鉱物の名称は原始的語根であると躊躇なく断言したことを、だれしも大目に見るはずだ。岩石は硬質な言語というものをわれわれに教えるのである。
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2016年4月12日火曜日
ガストン・バシュラール「岩石」(及川馥・訳『大地と意志の夢想』思潮社、1972年)その4
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