解題
伊勢から淡路島までの北緯34度32分線上に、太陽信仰に関わる史跡・寺社が集まるという「太陽の道」説を提唱した、この世界では有名な本。著者の水谷慶一はNHKのディレクター。本項はあくまでも与喜山に関わる部分だけを取り上げるので、水谷説への是非を論じる余裕はないが、
- 成立年代が同時代のもので固められておらず、史跡によっては年代に数百年の幅があること
- すべてを太陽信仰に結びつけようという恣意性を本書を読んで感じること
- 自然の山同士が線で結ばれることに意味を求めてよいのか(逆に、それは自然成因でラインが作れる事実がままあることを示しているのではないか)
- 微妙に線からずれる場所がある理由が看過されていること
- 本測量計画の規模から考えて、継続を遂行するに当然必要であろう古記録類が一切ないこと
- 線に乗っていない太陽信仰の史跡へのフォローがないこと
本心は、誰かがぐうの音も出ない論証をして崩してもらうのを待っている。納得せざるをえないような、歴史学的に隙のない論証にまだ出会っていないのだ。
水谷説が出てもう30年がたつ。学問的に、30年もアップデートされていない学説は健全ではない。水谷説を肯定する立場から、緻密な批判的検討がされるべきではないだろうか。そうしないと、批判的立場をとる学会の大勢を納得させることはできないだろう。
与喜山・長谷寺に関わる記述は本書のp237~240と、ごく一部である。そのたった4ページの記述が濃い。重要な部分を引用しよう。
長谷寺の本堂の前には俗に「舞台」と称する露台が張り出している。毎朝の勤行がはじまると、全員の僧侶がみなこの舞台に出てきて、いわゆる「与喜山礼(よきさんらい)」というのを行なう。これは、すぐ真東に望まれる与喜山という標高四五五メートルの山を礼拝するのである。長谷寺で発行している説明書によれば、与喜山はアマテラス大神の神体山だという。僧侶がかしわ手を打って山を拝んでいる光景はぼくなどにはやはり珍しかった。
われわれは郷土史家の厳樫俊夫氏の案内で千古斧鉞を入れぬという与喜山の中にわけ入ったのだが、山頂ちかくに二ケ所の大きな磐座を見出した。ひとつは、ずんぐりと大きく、他方は、たてにそびえ立つ岩をいくつも配して、規模としてはこちらの方が大きい。樹木の太い根が岩を両脚ではさみこむようにしているさまは、どこか鬼気せまるものがあった。
前半部の「与喜山礼」については、他の文献で言及された例をまだ見ていないため貴重である。
長谷寺から見て太陽の昇る方向に与喜山があるので、まるで太陽信仰の行事のように論理づけられるが、主旨は長谷寺の今地主である与喜山の天神に対し、長谷寺の僧が礼を尽くすというものである。相手は日の出の太陽ではなく、与喜山に鎮座する地主神である。
朝の勤行を全て太陽信仰に結び付けられないのと同様に、時間が朝で向きが東なら太陽信仰という論理は強引で、他行事もそれで強弁できてしまうだろう。
与喜山はアマテラス大神の神体山というのも、それは信仰主体の長谷寺の説明書だけ見ればそう書かれているに決まっている。信仰主体なのだから、信じ続けられているものをそう記すだろう。
逵日出典「長谷寺にみる天神信仰」『古代山岳寺院の研究 一 長谷寺史の研究』(巌南堂書店、1979年)ですでに触れたように、初瀬における天照大神は、藤原氏が長谷寺を影響下に置いてから意図的に勧請された後世神であることが歴史学的に明らかとなっている。
だから、長谷寺が与喜山に鎮まった天照大神をまつり、それを本尊・十一面観音と同体としているのは自然なことである。柏手を打つのが驚きをもって書かれているが、明治維新前の日本列島ではむしろ神仏習合こそが自然であったわけだから、これも自然なことと捉えるべきだろう。
後半部では、初瀬の生き字引・厳樫俊夫の案内によって水谷らが与喜山に登山したことが書かれている。ここだけでも本来は1章を設けて記述できれば貴重な記録となっただろうに残念である。
「山頂ちかく」で「二ケ所」の磐座を「見出した」と記している。これがどこを指すのかが重要である。
p240に「与喜山頂の磐座」とキャプションの打たれた狛犬越しの磐座の写真が収められているが、 これは明らかに「北ののぞき」である。
「北ののぞき」は峰上地形であるが、決して山頂ではなく山腹である。この時点で正確な情報ではない。
「北ののぞき」の磐座は「ずんぐりと丸く」なく、「たてにそびえ立つ」タイプなので、これで後者の磐座は「北ののぞき」だと特定できるのだが、さて、前者の「ずんぐりと丸い」磐座とはどこのことなのか。
「見出した」という書き方も意味深である。「発見した」「確認した」なら、明らかにまつられているものを見つけたということを指すだろうが、「見出した」というのは、そう推測した、判断したというやや弱い意味合いにもうつる。つまり、現地でまつられていたはっきりとした痕跡があったかどうかが怪しい。
ここで気になるのは、厳樫俊夫の存在である。水谷は決して与喜山中には詳しくはないので、与喜山中に二ケ所磐座らしきものがあると言って連れていったのは厳樫のはずである。
その厳樫は、松本俊吉『桜井の古文化財 その二 磐座』(桜井市教育委員会、1976年)で触れたとおり、ほぼ同じ頃に松本俊吉を与喜山中に案内している。同書には与喜山南側中腹にあるという「夫婦石(みょうといし)」が「丸い巨石が上下に重なり合う」形状として記録されている。
「ずんぐりと丸い」 と「丸い巨石が重なり合う」という2つの表現が似ている。もしかして、水谷が記した磐座の1つは、松本が記した「夫婦石」の可能性はないか。
与喜山には、ずんぐりと丸い巨石が重なり合ったと形容できる構造物が山中各所にいくつかあり、はたしてどれのことを指すのか見当がつかないのが現状である。
松本は「南側中腹」といい、水谷は「山頂ちかく」と言っているのも、場所の特定を難しくしている。せめて、これの写真を松本・水谷が掲載してくれていればよかったのにとぼやきたくもなるが、ひとまず本書に載せられたこの情報も、与喜山旧跡を再考するためには必要な調査課題であることは間違いない。
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