1.はじめに
比田井克仁氏の論文「東日本における磐座祭祀の淵源」は、早稲田大学考古学会の発行する機関誌『古代』第118号(2005年3月刊行)に所収されています。
磐座をテーマにした考古学の論文は、最近ではほとんど見なかっただけに驚きました。それだけに、この種の研究ジャンルでは極めて貴重な研究論文と言えます。私もさっそく読んでみたわけですが、読み進めていくと「初めて出会う解釈」が多く、少なからず当惑しました。
もちろん賛同した部分も多くありましたが、どうやら岩石祭祀に関わる基本的なところで考え方の相違があるようで、どうしても納得のいかない部分もありました。
そこで私なりに培ってき た岩石祭祀研究の立場から、比田井氏論文に触発されて色々と考えたことをまとまりもなく書きました。
批判にもなっていないかもしれませんが、磐座・磐境といったものに対してこういう風に考えている立場もあるんだよということを、この場を借りて少しでも表明できればと思います。
2.磐座・磐境の定義について
(1)磐座は自然石だけか
比田井氏は、最初に磐座・磐境と呼ばれるものの研究史をまとめて定義を整理されています。
磐座・磐境を研究している方の中には、この部分の整理作業をすっぽ抜かしてしまっている方が多いのです。この作業をしてくれないと、その方の言っている 磐座・磐境の範囲・境界線がはっきりせず、この人は何を言っているのだろう状態になってしまいます。読み手と書き手で、思い描いている磐座・磐境の定義が異なるからです。
その点、比田井氏の研究史整理は大場磐雄氏・椙山林継氏などの先行研究を振り返ったものであり、その姿勢は見習われるべきでしょう。
さて、比田井氏は、大場氏の「磐座・磐境等の考古学的考察」(1942年)の内容を受けて、磐座を「人間の手が加わっていない・・・(中略)・・・単独の自然石」、磐境を「人工的かつ臨時的なもの」と分けて考えています(47頁)。
ここは大元の部分なので初めに述べておきたいのですが、磐座は自然石をそのまま用いたもので、磐境は人工的に設置したものだという風に、磐座・磐境は紋切 り口調に分けられる性質のものではないと私は考えています。大場氏も前掲論文で断定はしておらず、そういう傾向が認められるといったニュアンスにとどまっています。
まず第1点目。磐境(要するに結界)の中心部に磐座(中心石となる依代)を人為的に置いているタイプの類例がありますが(それは比田井氏も論文中に挙げておられます)、この場合、磐座は人工的に置かれています。先の定義からは外れます。
次に2点目。比田井氏は、奈良県山ノ神遺跡を三輪山に対する磐座と捉えていますが、この山ノ神遺跡の磐座は主石の下に割石が敷き詰められており、磐座である主石自体が明らかに人工的に設置されている様子が窺われます。
これらのことから、磐座の中に、人工的に設置されたものがあることは疑いもないことです。
また、磐境は臨時的な祭祀施設であるとの定義ですが、例えば徳島県中庄八幡神社の列石は神域を境界付ける磐境の定義に入りますが、これは恒久的な施設とし て機能しています。愛知県大国霊神社の磐境も同様に、現在に至るまでずっと残っています。臨時的な施設=磐境という定義は、実情からかけ離れているものと 思います。そもそも磐境にしろ磐座にしろ、各々の用語の定義は「機能」で規定されているものであり「自然石や臨時的」といった意味は持たない用語です。
磐境の中に磐座が置かれることもあるのですから、磐座と磐境はそんなブツ切りで分けられるような関係ではないと思うのです。
ちなみに、私の磐座・磐境の定義は以下の通りです。
- 磐座:岩石製の依代。つまり、信仰対象が憑依する岩石。
- 磐境:岩石製の結界。つまり、神聖な空間や祭祀空間を形成するために機能している岩石。
(2)沖ノ島遺跡21号遺構の問題
比田井氏は、論文中の註1で沖ノ島遺跡21号遺構を磐座の例と把握しています。21号遺構とは、巨岩Fの上面中央に石塊が置かれ、その周囲を方形の列石が 囲むという形態を持つ遺構です。比田井氏は、この方形の列石が磐境の条件に適っているとしながらも、まず第一義に磐座となっていたのは巨岩Fであるから、 21号遺構は磐座の事例であると結論付けています。
私の立場からしたら、これはよく分からない論理です。「方形の列石を設けた当時」の人々に とって、磐座として機能していたのは間違いなく中心の石塊でしょう。沖ノ島遺跡は「岩上祭祀→岩陰祭祀」と変遷していった祭祀遺跡とのことなので、当初祭 祀の場となったのは巨岩Fの上面であり、中央の石塊が磐座とされ、方形の区画が磐境だったのです。そしてその後、祭祀の場が岩の裾部(岩陰)に移行する と、巨岩Fは磐座となったのだと思われます。
そもそも「21号遺構」と一括りの遺構として考え、1つの機能だけを無理に選んで当てはめてしまうから矛盾が生じるのだと思います(註2)。「21号遺構」という括りは、あくまでも発掘調査時の暫定的な括りなのですから。
実際には、21号には「巨岩F」「方形列石」「中央の石塊」と3つの遺構があるのだと考え、それぞれ祭祀時に担っていた機能は異なるという、ミニマムな解釈方法がとられるのが妥当だと思います。
比田井氏は巨岩Fを第一義的な存在、上面部の列石・石塊を付帯的な存在とみなしていますが、これは時系列を無視した評価の仕方だと思います。
確かに、巨岩Fを磐座としていた時期の人々にとって、上面の石塊・列石は付帯的なものだったでしょう。そもそも存在すら忘れ去られていたかもしれません。
しかし、巨岩F上面に方形列石を組んだ人々にとっては、第一義的な存在=磐座は中央に置いた石塊だったはずです。ここに神は憑依してくると信じていたから こそ周囲に祭祀場の境界を形成し、その中央に石塊を置いたのでしょうから。むしろこの当時の人々にとっては、巨岩Fこそが付随的な存在だったでしょう。
つまり、岩上祭祀の時期の人々と、岩陰祭祀の時期の人々とでは、第一義に置いていたものが異なっていたということです。どちらかの時期の方が優位に立つと いうことはありません。どちらの時期の祭祀も、同様に大切な研究価値を持っています。比田井氏はその内、岩陰祭祀の視点にだけ比重を置き、岩上祭祀の人々 の営為を下位に置いて評価しています。
そうではなくて、時期ごと時期ごとの当事者視点に立ち、各時期での「第一義的な存在」を同定していけば良いと私は思うのです。
(3)用語の問題
ここは本筋の話からは少し余談になります。
比田井氏は、こう述べています。
「無味乾燥な名称を新たに考えるよりも、文学的響きをもったこれらの名称を使っていきたいと思う」(47頁)
「これらの名称」とは、磐座・磐境のことです。比田井氏は、記紀や風土記に始めて登場する「磐座・磐境」という用語を、古墳時代をテーマにしたこの論文で 用いていいかどうかという問題提起をされています。しかし、記紀・風土記をまとめたヤマト朝廷の聖山・三輪山には数多くの磐座があること、磐座・磐境とい う用語に時間的制約はない(この時代のものに対しては使ってはいけない、という制約がない)ことから、比田井氏は新しい用語を作らず、磐座・磐境の語をこ の論文で用いていく姿勢をとっています。
比田井氏のこの論文の場合においては、全く問題ありません。私もそうするでしょう。
でも私は拙著などにおいて、独特な用語をたくさん作っています。
なぜか?これには理由があります。磐座・磐境という用語に時間的制約は確かにありませんが、「宗教的制約」とでもいうべきものはあるからです。つまり、磐座・磐境という用語は神道系の用語であり、例えば仏教系の同じような機能を持つものに対しては、これらの用語を使えないということです。例えば「信仰対象 が憑依する岩石」は仏教用語で「影向石(ようごういし)」といいます。そんな状況で、これを神道由来の「磐座」という用語だけでひっくるめて「影向石」の 語を切り捨てるのは好ましくないと思うのです。
私のサイトは、時期・宗教(信仰)の隔たりなくあらゆる「祭祀に関わった岩石」を取り扱っていま す。なので、「信仰対象が憑依する」という機能を有する岩石一般を超時代的・超宗教的見地から取り扱う時、磐座・影向石などの内、どれか1つだけを取り上 げて統一名称として用いるのは不公平となります。しかも代替となる用語が既存の語の中にないので、あえて私は「媒体型」という類型呼称を作って呼んで いるのです。
無味乾燥といわれればその通りでしょうが、既存の用語の中に代替となる言葉が見つからない場合は、こうするしかないでしょう。考古学の土器の型式名などもそういった事情から、無味乾燥な型式名が付けられている状況なのですし。
この場を借りて、私のそういったスタンスを語っておきたいと思います。
3.纏向遺跡辻土坑1遺構の問題
(1)辻土坑1の岩石群は何なのか-多様な解釈の可能性-
奈良県纏向遺跡辻地区からは、約40基の土坑が見つかっています。その内、辻土抗1と呼ばれている遺構から、祭祀遺物と思しき木製品・土器群、湧水跡、柱 穴跡、焼土痕、そして人頭大程度の岩石十数点が検出されています。土坑底面にはかつて水が湧き出していた痕跡が見出され、土坑の北側側面のみに十数個の岩 石が「整然とも雑然とも言えない状態で」(奈良県立橿原考古学研究所1976)出土しています。
地下水の湧水点までわざわざ穴を掘り、出土遺物 が祭祀用を想定させ、なおかつ土坑内で火を使った痕跡(焼土痕)が見られることなどから、この遺構は湧水を対象として火の祭りを行なった祭祀施設ではない かと報告書では考えられています。そして比田井氏は、この北側側面から見つかった岩石群を磐境とみなしています。
しかし、この辻土坑1については色んな可能性が考えられると思います。例えば集落内祭祀研究をしている鈴木敏弘氏は、この岩石群を磐境ではなく磐座(依代)と解釈しています(鈴木1998)。
私の大学時代の指導教員は、この岩石群を土坑側面の補強財とみなし、祭祀的な役割よりも実用的役割を重視して考えていました。
私は、もう1つ別の可能性があるのではないかと考えています。
まず、岩石群は土坑側面全体を巡るように配されておらず、なぜか斜面の一方にのみ見られる状態なのが気にかかります。側面全部を巡っていれば側面補強財、 あるいは祭祀場の範囲を示す磐境と見て異はないのですが、斜面の一方だけにだけ、しかも「整然とも雑然とも言えない状態で」集まっています。
も う1点気にかかる事実は、この辻地区の土坑群、岩石群の見つかっているものと見つかっていないものがあることです。鈴木氏の言うような磐座ならば、磐座は 祭祀の中枢となる施設ですから、どの土坑からも岩石群が見つかって然りと思います。比田井氏の言う磐境説に則っても、磐境祭祀形態を持つ土坑と持たない土 坑があることになり、祭祀形態が一定化していません。聖俗の境界を付けるという祭祀場形成には欠かせない施設なのに、それがあったりなかったりということ があるものでしょうか、やや疑問です。
大場氏の前掲論文「磐座・磐境等の考古学的考察」などでは、祭祀の終了後は祭祀場を撤収しその場 を清浄にしておくという観念が神道儀礼などに見出されることから、磐境などの岩石祭祀施設は祭祀後に撤去され、再び使用されないものとして廃棄された可能 性が高いと考えられています。
これを参考とすると、あくまでも1可能性ですが、私は辻土坑1の性格に関して「土坑を掘って水を湧かせることで禊 か水神・地霊に対する祭祀を行ない、また地表面には岩石を使って臨時の祭祀施設を設けた。祭祀後、その岩石祭祀施設を撤収しそのまま湧水土坑の中に入れ、 そのまま土坑を埋め立てて祭祀場を撤去した」という可能性もあったのではないかと述べておきたいと思います。
岩石群が整然とも雑前とも言えない 状態で出土したのも、土坑の片側だけから見つかったのも、土坑内で焼土痕があったのも、岩石群の見つかる土坑と見つからない土坑が混在しているのも、臨時 的に設置した岩石祭祀施設を祭祀後に撤収・埋置した廃棄跡と考えれば、意外にすんなりいきます。もちろん、他の可能性を排除できるほどの説得力は持ってい ませんので、私はこれをあくまでも1可能性と提起するにとどめ、現時点で辻土坑1の性格については保留としています。
そういう立場に立つと、比田井氏が他の可能性を想定せず磐境という可能性だけを推し進めるのには、少し気がかりなのです。
(2)なたぎり遺跡A地区4号跡は「纏向型祭祀」と呼べるか
纏向遺跡辻土坑1と同じタイプの遺構として、比田井氏が挙げている「纏向型祭祀」の唯一の事例が神奈川県なたぎり遺跡A地区4号跡です。纏向遺跡が3世紀 前半、なたぎり遺跡が4世紀前半の遺跡ということで、なたぎり遺跡A地区4号跡の存在は「4世紀前半の時点で、東日本に大和地域由来の磐境祭祀が普及して いた」という比田井氏の仮説の論拠になっています。
1例の事例のみで、そこまでのことを語れるかどうかという問題もありますが、この4号跡が纏向遺跡辻土坑1と類似しているかというと、それにも疑問符が付きます。
4号跡では、土坑の底面から19個の岩石が出土し、土坑内からは複数種の土器類と、少なくとも3度に渡る焚火跡が見つかっています。確かに辻土坑1と似ています。
しかし、岩石群が見つかったのは土坑の側面からではなく底面からです。側面で聖域表示をしているのと、底面で聖域表示をしているのとでは、祭祀形態に看過しがたい違いがあると思うのですが。纏向型祭祀のメイン施設であっただろう湧水跡もありません。
また実測図を見る限りですが、4号跡土坑底面の19個の岩石はひしめき合っているという様子はなく、かなり雑然と散在しています。聖域表示をしていたであろう同時期の石敷遺構(註3)を見ると、例外なくそれらはお互いの岩石が隙間を空けることなく、一帯が真っ白くなるようにひしめき合っています。本遺構は、そういった視覚的な聖域表示性からは程遠いものがあります。これを見ると、聖域表示のために岩石を配したという様子は受けません。
先ほど辻土坑1の項で述べたとおり、この遺構に関しても「岩石祭祀施設を祭祀終了後に撤収・埋置した廃棄跡」という可能性が、あながち否定できないと思います。廃棄であれば、土坑の側面に固められていても底面に散布されていてもおかしくはないでしょう。
(3)磐境の最古例に関する疑問
比田井氏は、纏向遺跡辻土坑1が3世紀前半に位置するということで、磐境の最古例とみなしています。
私は、それより古い事例として、岡山県楯築遺跡の列石事例があるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。楯築遺跡は弥生後期の墳丘墓であり、弥生時 代と古墳時代の狭間に立つ纏向遺跡よりも時期が先行する存在だと思われます。墳頂部の列石群が本当に墳丘墓築造と同時期に設けられた存在なのかどうか、こ れに関しては諸説あると思いますが、比田井氏にはこの列石を看過するのではなく、何らかの検討かコメントをしていただきたかったと思います。
そもそも、比田井氏は磐境の種類として、
- 第1類型:土坑内に小ぶりな岩石群を配置する「纏向型祭祀」
- 第2類型:比較的大きな岩石の周りに、小ぶりな岩石が集まるという集石形態
- 第3類型:15cm~70cm程度の岩石を置き、その周囲に土器が据え置かれる形態
という3つの類型に分けていますが、ここに「列石形態」は入っていません。おそらく、比田井氏の今回の研究テーマであった東日本の磐境事例の中に列石形態を持つものがなかったから列石の類型が設定されていないのでしょうが、現に列石タイプの磐境は存在しています。
西日本に目を転じれば、和歌山県坂田山遺跡などがその好例でしょう。山腹斜面に広がる自然露出の岩盤の下方で、大小の砂岩16個を直径約1mの環状に配し た環状列石遺構が出土しています。環状列石の内外の土砂層は異なっていたばかりか、列石内からは臼玉約2000点を始め、本遺跡で見つかった滑石製模造品 のほとんどが見つかっており、列石外からは翻って見つからないという、極めて意図的な配置状態です。列石によって区画された内外で祭祀遺物の出土状況が全 く異なるということから、この列石の内部は祭祀具配置空間であるということを視覚的に明示する、聖域表示の機能を負った磐境であるという評価が下せます。
私は、聖俗の境界を区画する岩石の祭祀形態として、以下の4タイプが見られると考えています。
- A.石を直線・曲線状に並べて、それを聖域と俗域の境とする列石タイプ。
- B.たくさんの小石を敷いて床面にし、その敷石部分を聖域とするタイプ。
- C.自然・人工の洞穴を用い、その洞穴内部を神聖な空間とするタイプ。
- D.岩石を1個置き、その岩石のある場所自体が特別な場所だと認識させるタイプ。
比田井氏の第1類型や第2類型は、私の中でのBに相当するものと思います。私の中では、土坑の中に石 敷をしようが、比較的大きな岩石の周りに石敷をしようが、「石敷をすることでそこを神聖な空間の表示とする」という岩石の配置方法自体に何の変わりもない と思うので、同じタイプに含めています。
また、比田井氏の第3類型は岩石を1~2体置いてそこを聖域と認識させる点において、私の中でのDに相 当するかと思います。ただ、岩石を1~2体置くだけでは他の用途も考えられます。それこそ磐座とか。比田井氏は小規模で臨時的な岩石遺構を全て磐境に入れ ていますが、先述したように磐境というものは規模や臨時性で定義される用語ではなく「機能」で定義付けられている用語なので、岩石遺構の機能推定方法とし ては腑に落ちない部分があります。
私は「その岩石があることでその一帯が聖域だと認識される」という機能で分類設定をしているので、Cのような 岩肌・岩塊の洞穴なども同機能の存在として入るのです。これは磐境と同機能でありながら、磐境とは従来呼んでこなかった存在です。
(4)磐境祭祀は、磐座祭祀よりも下位レベルの祭祀形態なのか
ここは比田井氏論文の根幹に関わる部分の1つです。
比田井氏によれば磐境は磐座に比べて土器以外の遺物が乏しく、小規模で臨時的な遺構形態なので、磐座は三輪山の磐座群があるように地域の首長・豪族クラス が取り行なっていた祭祀形態で、磐境はそれよりも下位の集落単位・一般庶民クラスの祭祀形態だったのではないかと論じています。
比田井氏の論理では、磐境遺構は平野部の集落で見つかり(しかも人為設置で小形の岩石が多い)、磐座遺構は山麓など奥域で見つかるから(しかも自然の巨岩が多 い)、磐境は集落内祭祀で磐座は王権祭祀や地域首長祭祀だという理解になりますが、私はこれに関しては、異なる見解を持っています。
集落がある 平野部には、山やその麓に比べてそんな自然の巨岩などはそうそうありません。だから、山麓であれば自然の巨岩をそのまま神の依代にして祭祀場とすればいい ですが、平野部では自然岩がないのでどこかから岩石を持ってきて祭祀場を人為的に設置するしかないと思うのです。しかも人為的に設置するから、自ずからそ の岩石遺構は運搬できるほどの小形なものにならざるを得ないと思うのです。だからこれは立地の違いで仕方なく起こる形態上の規模差であり、祭祀集団の規模 やランクに比例するものではないというのが私の考えです。
例えば群馬県三ッ寺1遺跡の敷石遺構は平野部(遺跡自体は微高地上に設けられ ていますが、山地帯からは遠く離れた平野部の中に位置しています)での祭祀遺構ですが、この遺跡が全国有数の規模を誇る豪族居館遺跡であることは異論を挟 まない事実です。この敷石遺構は平野部で小形の岩石を集石させて形成した遺構ですが、その祭祀主体は地域首長・豪族レベルです。
ちなみに、この 遺構は東日本の事例でありながら比田井氏の集成した磐境資料には含まれていません。おそらく集石の中心部に「比較的大きな岩石」がないので除外されている のでしょうが、中心部の比較的大きな岩石とはつまるところ磐座あるいは石神なのですから、それがなかったからといってなぜこの敷石遺構が磐境でないとなる のか、私には分かりません。機能的には一緒のはずです。
以上のことから、私は平野部における磐境祭祀を「磐座祭祀より下位集団の祭祀形 態」とは捉えず、立地環境の岩石露出状況による差(平野部と山麓部では岩石露出率に差があるということ)がただ影響しているだけと捉えます。平野部で岩石 祭祀を行なう場合、山岳周辺で行なっていた自然石祭祀を模倣し、そのミニチュア版を平野部に表出させようとした認識はあったでしょうが、それは祭祀集団の 規模に関わらず執り行われていたと思います。
4.銅鐸を埋納する岩石祭祀遺跡の性格
(1)銅鐸は依代か
比田井氏は「集落祭祀の銅鐸であろうと為政者の鏡であろうと、それが神の依り代であることについては基本的共通点である」(46頁)と述べます。
銅鐸が神の依代であると、いつから研究者間で基本的共通点になっていたのかは存じませんが、銅鐸の性格をそんなやすやすと断定してしまって良いのでしょうか。
銅鐸は本来、音を鳴らすことのできる「聞く銅鐸」から始まっていることを考えると、必ずしも「依代」として機能していなかった可能性があると思うのです が、こういった他の可能性はもう学会内で否定されているのでしょうか。また、銅鐸とともに銅剣・銅矛などの青銅製祭器が伴出するケースがしばしば見られま すが、ではこれらの祭器は何なのでしょうか。セット関係で一括出土するのを見ると、これらの祭器も依代に近い機能を持っていたのでしょうか。武器の模造品 なのに。
祭祀具であることは私も同じ考えですが、祭祀中においてどのような道具に使っていたかは、まだまだダークゾーンの部分があると感じます。
(2)比田井氏説への疑問
比田井氏は、弥生時代の銅鐸を埋納していた岩石祭祀遺跡は、全て磐座ではないと論じています。その論拠をA→B→C→Dの流れでまとめると以下の通りです。
A.銅鐸は集落遺跡からも出土しており、必ずしも巨岩を対象とした祭祀具ではない。
B.銅鐸埋納遺跡には岩石がないのが普通で、埋納坑を岩石で囲んだり蓋をしているものはないという佐原真氏の指摘を受け、山中僻地における巨岩への銅鐸埋納は「例外的」と言える。
C.銅鐸は神の依代であるので、それを巨岩下に埋納するということは、神が里へ降臨するのを封印していることに他ならない。
D.これは、岩石に神が降臨するという磐座の思想とは異なる。だから弥生時代の銅鐸埋納岩石祭祀遺跡は磐座ではない。
1つ1つの流れに検討を加えます。
まずAですが、これは従来から分かっていることです。銅鐸は巨岩専用の祭祀具ではないことは明らかですし、そうである必要もないと思います。巨岩専用の祭祀具でないと、巨岩に対する祭祀具とは言えないのでしょうか。
例えば古墳時代の石製模造品は、古墳の埋葬品としても出土しますし、磐座・磐境と目される遺跡からも出土します。必ずしも磐座・磐境専用の祭祀具ではありません。だからと言って磐座・磐境への祭祀具ではないというわけではありません。それと同じです。
Bは、岩石祭祀遺跡における銅鐸埋納行為は「例外的」であるとするものです。本当に「例外的」でしょうか。
拙稿「岩石に関わる祭祀行為-祭祀を考古学的に研究するために-」の中で私は、目立つ岩石の裾で弥生時代の青銅製祭器が出土した岩石祭祀 遺跡のリストを挙げています。銅鐸だけでなく、銅剣・銅矛・銅戈も銅鐸に伴出していたり、銅鐸と同じような埋納のされ方がなされているので、それらが埋納 されていた遺跡も含んでいます。ここに再掲すると、
遺跡名
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立地
|
|
遺跡名
|
立地
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大岩山(滋賀) | 山腹-小山頂 | 大峯山(広島) | 山腹 |
梅ヶ畑(京都) | 山頂近くの山腹 | 盾石(広島) | 山麓近くの山腹 |
保久良神社(兵庫) | 山腹(張り出し部) | 黒川(広島) | 山麓近くの山腹 |
青木(兵庫) | 山腹 | 木宗山(広島) | 山腹 |
気比(兵庫) | 山麓 ※再埋納の可能性あり | 安田極ヶ谷(香川) | 山腹 |
神倉山(和歌山) | 山麓近くの山腹 | 加茂明神原(香川) | 山腹(張り出し部) |
越路(鳥取) | 山腹 | 佐岡(香川) | 山麓に近い山腹 |
志谷奥(島根) | 山腹 | 北条(香川) | 山腹 |
加茂岩倉(島根) | 山腹 | 立石(愛媛) | 平野部 |
命主神社(島根) | 山麓 | 大野台(長崎) | 山麓近くの山腹 |
大迫(広島) | 山麓 | 天ヶ原(長崎) | 海岸部 |
計22例です。比田井氏は、広島県木宗山遺跡・滋賀県大岩山遺跡・兵庫県気比遺跡の3例しか挙げていないので、それだけを聞いたら例外的に聞こえるかもしれませんが、22例となると「例外的」と言えるでしょうか(註4)。
比田井氏はCの論理を使って、Dの「弥生時代の銅鐸埋納岩石祭祀遺跡は磐座ではない」という結論を結んでいます。
しかしこれは「銅鐸は神の依代である」という前提があって初めて成立する論理です。「銅鐸=神の依代」という説は仮定以上の根拠を持たないので、例えばこ れを「銅鐸=神への捧げ物」という仮定に替えたら、それを埋納した岩石祭祀遺構は「石神」か「磐座」とも言えてしまうでしょう。
比田井氏は、銅鐸を埋納した岩石祭祀遺構は磐座ではないと述べますが、それではこの岩石祭祀遺構は、どのような機能を担っていたのでしょうか。比田井氏はこの 疑問に明確な答えを用意していません。神を封印する場所として岩石の裾部を選んだという点を考えれば、私の岩石祭祀分類案の中での「鎮魂媒体」 (信仰対象を鎮める媒体として置かれる岩石)に対応するとは思います。
その可能性はないとは言えないのですが、なぜ信仰対象を封印する必要があるのか。その回答が用意されていません。銅鐸の使用を止めるからというのは何も回答になっていません。
ただし近年、上表で取り上げた埋納地のいくつかで後世の再埋納の痕跡が見出されることから、弥生時代磐座説についても批判的に考える必要があります。
5.葬祭未分化論・葬祭分化論
比田井氏は、葬祭未分化論・葬祭分化論に言及をしており、葬祭分化論を支持しています。
葬祭未分化論とは、古墳時代において、死者の霊と集落の信仰対象に対する神祭りに祭祀としての区別はなく、どちらも霊=信仰対象として、同じ存在として祭祀されているという論です。つきつめれば、祖霊祭祀こそが該期のあらゆる祭祀の根本だったとする考え方です。
一方で葬祭分化論は、死者の葬送儀礼はあくまでも葬式であり、それとは別に、集落では信仰対象としている「神」がいて、それはいわゆる祖先の霊とは異なる存在であるという考えです。
私はこの論に対してまだ明確な答えを用意できない状態ですが、現時点ではソフトな葬祭分化論の立場です。
祖先の霊とは別に、山の神・海の神といった自然神などが信仰されていたと思います。でも、祖先の霊とこういった自然神とは必ずしも相反するものではなく、互いに同居できる存在だったとも思います。
奈良県三輪山の場合は、寺沢薫氏が「三輪山の祭祀遺跡とそのマツリ」(1988年)で指摘しているように、磐座は狭井川と初瀬川の合流点より内部に集ま り、古墳は2つの川の外に築造されている(例外あり)ことから、三輪山祭祀と古墳首長祭祀は厳格に分けられていた節があるといわれます。
しかし 一方で他の地域に目を転じれば、京都府松尾山では磐座と同居して松尾山群集墳が築造されていますし、奈良県石光山でも古墳群の集在する中に山名の由来に なった「火が出る巨岩群」が存在します。これらの岩石群が古墳築造時から神聖視されていたかには検討の余地もあるでしょうが、山の神の懐に祖霊を同居させ るという観念も見え隠れしています。
当時は地域により、さまざまな祭祀のかたちがあったことでしょう。だから、地域によるというのが私の今のところの考えです。
いずれにしても、現在の古墳時代の祭祀研究が古墳を中心にした研究に偏りすぎており、これは祭祀研究の本質をかすめていないという比田井氏の指摘はその通りだと思います。
6.まとめに代えて
基本的に私は、比田井氏の「古墳時代になってヤマト王権が列島各地に勢力拡大をしていくに伴って、そのヤマト王権の司っていた祭祀形態も全国各地に普及 し、画一化した」という論の大枠には賛成です。全国各地の磐座・磐境祭祀も、そういう流れで定着していったものだと思います。
しかし磐座祭祀が 王権祭祀で、磐境祭祀はそれより小規模の祭祀集団による祭祀形態という区別や、磐座・磐境思想は大和三輪山で古墳時代になって初めて形成された観念で、弥 生時代にはそういったものはなかったとする個別の持論に対しては多くの疑問を持ちました。初めて聞く解釈だったと言うのもありますが、前提や仮定の多い解 釈が多く、それならもっと前提・仮定の少ない解釈を採用すれば良いのではないかというのが私の正直な感想でした。
あと事例数が少なく、類例認定にも違和感 の感じる部分が多く、やはりもっと良い資料が増えるまではこういった論文は書きにくいなという思いも持ちました。
文献史学の研究成果など他学問の研究も多く取り込まれていましたが、やはり考古学単体の研究だけでこの当時の祭祀研究というのは難しいんだな、というのを読んでいて改めて感じざるを得ません。
私自身、どうにかして考古学単体で岩石祭祀を語れないかということで数年試行錯誤していた時期がありましたが、やはり論拠に欠け、これといった考古学的研究を大成することはできませんでした。批評するのは簡単ですが、実際に自分でものを作ってみるというのは難しい。比田井氏論文はそういった中でも論文として形にした点、非常に貴重な研究と言えます。
註
1:関西学生考古学研究会発行『関西学生考古学研究会第2回大会発表資料集』所収。
2:方形の列石を磐境と認めているのに、結論としては磐座という位置付けだけが推される。これが矛盾でなくて何なのでしょうか。
3:三重県城ノ越遺跡・群馬県三ッ寺2遺跡など。実用的用途以外に、そこが墓所であるという神聖性を示す役割をしていたと考えられてきている古墳の葺石1つをとってみてもそうです。
4:もちろん平野部出土の銅鐸埋納地の方が多いので、マイノリティーの埋納形態には属すことには異を挟みません。しかし、22例と言う数は「例外」「少数」という言葉で一顧だにせず切り捨てられる事例数ではないと思います。
参考文献
大場磐雄1942「磐座・磐境等の考古学的考察」『考古学雑誌』32-8
鈴木敏弘1998「増補『集落内祭祀と古墳の出現』(1)」『-特集-磐座祭祀から前方後円墳の誕生(1)』(和考研究6)和考研究会
巽三郎1956「紀伊西牟婁郡白浜町坂田山遺跡調査概報」『古代学研究』14 古代学研究会
寺沢薫1988「三輪山の祭祀遺跡とそのマツリ」 和田萃(編)『大神と石上』筑摩書房
奈良県立橿原考古学研究所(編)1976『纒向:奈良県桜井市纒向遺跡の調査』奈良県桜井市教育委員会