2016年6月19日日曜日

尾崎放哉「石」 ~『日本の名随筆 石』を読む その3~

――私は、平素、路上にころがつて居る小さな、つまらない石ッころに向つて、たまらない一種のなつかし味を感じて居るのであります。

大きな巨石や、形が変わった奇岩怪石を嬉しがらないのが尾崎放哉である。
小さな石ころにこそ、可愛いという愛情を抱くらしい。
そういう意味では、すべての石に興味を持つのではなく、人工の石造物でもなく、自然の小石に愛着を持つ男の一人語りと言える。

――なんで、こんなつまらない石ッころに深い愛情を感じて居るのでせうか。つまり、考えて見ると、蹴られても、踏まれても何とされても、いつでも黙々としてだまつて居る・・・・・・其辺にありはしないでせうか。

堀口大學の「石は黙ってものを言ふ」に通ずるものがある。
堀口は、これを石の反抗心と捉え、尾崎はされるがまま黙る石を愛らしく感じた。

――物の云へない石は死んで居るのでせうか、私にはどうもさう思へない。反対に、すべての石は生きて居ると思ふのです。

――石は生きて居るが故に、その沈黙は益々意味の深いものとなつて行くのであります。

引き算的発想で、何もしない、何もない、静の世界に意味を求めるのは、人のどのような思いによるものだろうか。

――鉱物学だとか、地文学だとか云ふ見地から、総て解決し、説明し得たりと思つて居ると大変な間違ひであります。石工の人々にためしに聞いて御覧なさい。必ず異口同音に答へるでせう。石は生きて居ります・・・・・・と。 

石が石を産む話や、石が大きくなるという話を、学術的見地から説明することのナンセンスさを指摘している。
尾崎は石を加工する石工から、木でいう木目を石の場合「くろたま」と呼ぶことを聞きとっている。

――石も、山の中だとか、草ッ原で呑気に遊んで居る時はよいのですが、一度吾々の手にかかつて加工されると、それつ切りで死んでしまふのであります。

しかし、自然の石をひとたび切りとり、加工してしまうと、その石は死んでしまうのだという。
たとえば、墓石の石塔として一度切り出された石を、後で他のものに代用し直す場合、石の表面を削ると中身はボロボロになっているのだという。これをもって、尾崎は石が死んでいると悟った。
尾崎は、墓石塔が立ち並ぶ姿を、その地中に眠る死者と同様、「みんなが死んで立つて居る」ように見ている。
自然の石も黙っていて、加工された石塔も同じく黙っているが、前者は生きていて後者は死に絶えていることの表れだとみなす。

では、文字を刻まれた石は、傷ついているのだろうか。
石に何も施さないことが、石にとってもっとも「ピンピン」していると感じる価値観をここに見るのだった。

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