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2016年7月19日火曜日

唐木順三「石」~『日本の名随筆 石』を読む その6~

――彼は石について語らなかった。語りたがらなかった。語らなかったからこそ、石が彼に語ってくれたのかもしれない。

「彼」とは、筆者の唐木順三が知る一人の教師である。
学校では子供たちに慕われていて、快活な性格の教師だったが、酒を飲むと、彼は石に会いたくなるのだという。
天竜川の川原をさまよい、石を見つめるだけではたりず、頬にこすりつけたり、持って帰って部屋に並べたりするのだそうである。

彼の部屋に並べられた石には手脂がしみていた。並々ならぬ思いがそこからも感じられるが、彼は石に対する思いを決して人には語らなかったという。

モダン・アートの画家である沢野井信夫が『石にたずねる』(創元社、1958年)という本を出した。
これを唐木は「内容はつまらない」と断じた。
その理由は「石庭の石であったり、城壁の石、石段の石、道路標の石」で「みな人間の手の加はつた石」だったからだという。

この時、唐木はふと、冒頭で紹介した教師に「同じ題名で書かせたい」と思った。
「彼が石を書いたら、どういふものになつたらう。」
彼が石に多弁であることはなかったが、もし石の本を書いたら、石を書くとともに己れを書いたのではないか?唐木はそう妄想する。


ここからは私(吉川)の個人的な実感を話すが、世に発行されている石の本はそう数が多いものではないが、そんな狭い石の世界の中でも、人の興味関心は千差万別であると感じることが多々ある。
作者によって、石を取り上げる角度のふり幅は広い。
私が本を書いた動機も、私と同じ視点で石を見ている本を見つけられなかったから、である。

私は考古学畑で石に接することが多かったが、考古学における石の取り上げられ方も、極めて一面的である。歴史学全体に目を広げても、一緒かもしれない。
特定の本を例に出すと棘があるので自粛するが、唐木と同じく「人間の手の加わった石」だけに目を向けているケースが多い。
「石の~」と題しているのに、その実は勾玉だけだったり、石棺だけだったり、石はそっちのけで仏像の話に終始していたりする。何かが違う気がする。

 一方、宝石や特別な種類の石にばかり執着するのも、また一面的である。

かつて、宝石や珍しい石を集める人に出会ったことがある。
この人の中に、路傍の石はどう映っているのか、恐くて聞けなかった。

男根や陰石など、性神の類する石を追いかける人もいる。それは石そのものというより、他のものを追い求めているようだ。
巨石を好む人にも、私は路傍の小石をどう思っているのか、恐くて聞けない。

人の興味関心は細分化されすぎていて、あれもこれも、抜け落ちるものなのだ。
私だって、石と天文の関係については興味が薄いため、あまり首を突っ込まない。自分の身の程を察しての防衛本能だが。
しかし、岩石信仰に触れるなら、決してそんなことはしてはいけないはず。
なぜなら、岩石信仰という言葉は、細分化されすぎた人の興味関心を集約化した上に成り立つ世界だからだ。

この矛盾をどう解決したら良いのか?
各個人が好き勝手言っている時代は終わり、学際という言葉が生まれているように、各分野の専門家が1つのテーマをすり合わせる段階なのかもしれない。

その時代についていくためにも、私はいましばらく、歴史と文学と哲学の狭間を磨き上げていくことにしたい。

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