――日本の庭園美を理解するためには、ぜひとも、石の美しさを理解すること。
まるで『作庭記』のようなことを言う小泉八雲は、事前のイメージ通り、日本人の精神性を事細かくついてくる。石一つとっても、その記述に手は抜かれていない。彼をそこまで突き立てた衝動は何だったのだろうか。
――人間の手が細工を施した石の美しさではない。天然自然によって形のそなわった石の美しさである。
日本人は生まれながらにして、自然のあるがままの美しさを身につけているから、欧米人は日本で暮らして感得してみるべしと薦める。
いや、今の日本人もどうかな・・・自分含めて自信はない。
――ちょっとそこらの町を歩けば、諸君の修むべき石の美学の問題集は、見まいとしても目にはいってくる。寺院の入口、道のはた、鎮守の森の前、さては到るところの公園・遊園地。あるいは墓地
四角四面に切った石柱や、神仏を彫りこんだ石碑よりも、自然石を用いた墓石のほうが値段は高いという。
自然石に数多く触れることで、自然石それぞれの性格、そして、自然石の色調や明暗を知ること ができるという。
――かりに諸君が、多少でも生得の美的感覚をもちあわしているとすると、これらの自然石が、石工の手に切り刻まれたどんな加工石よりも、それほど美しいかということを、遅かれ早かれ、かならず発見されるにちがいない。
若干の上から目線は置いておき(笑)、ありふれている光景こそが、美しいという価値を持つことを八雲は論じていると言える。ありふれているのに、美しいと認めることは相反する現象にはなりはしないか。
異形な石、巨大な石こそが、価値を持つのではないか。そう後世の学者は説明してきた。
――石の形によって、文字のあるなしがきまっているかのごとく、この石なら文字がない、この石なら文字がないはずだと、文字のない石、ないはずの石に、べつの彫刻、あるいは碑銘のようなものを、しぜんと捜すようなことになってくるだろう。
墓碑や石碑、石塔、石仏に、精緻に掘りこまれたものと、なぜか自然のままのものがある。
そこに法則性や一体感は一見認められない。
しかし、石の形によって文字のあるなしが決まっていたとするなら、私はその次元に達していない。
――とくに日本の国は、石の形に暗示的なものが多い国だ。(略)天然物の形からくる暗示が、こんなふうに認識されている国では、おそらくそういうこともあろうと想像されるとおり、日本の国には、石に関する奇妙な信仰や迷信がじつにたくさんある。
八雲はその例の1つとして、釈迦のことばを説いた相手が、大燈大師にお辞儀をした石だったという話を取り上げているが、このチョイスがすでにマニアック。
どこにある何という石なのか思い当たらない。ご存知の方はお教えください。