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2016年10月1日土曜日

「依代」と「御形」と「磐座」について―祭祀考古学の最新研究から―(後編)


前編からの続きとなります。 

「依代」と「御形」と「磐座」について―祭祀考古学の最新研究から―(前編)



笹生衛氏が切り開いた祭祀研究の新地平

笹生衛氏は、考古学が旨とする資料第一主義を徹底され、長年停滞していた祭祀考古学の諸研究の中で、資料性・説得性の高い新研究を打ち立てられています。
古墳時代の祭祀研究をテーマにする人たちにとっては、今もっとも耳を傾け、議論にすべき研究が詰まっていると私は思います。

笹生氏の独創性を示す部分を、下記論文から紹介したいと思います。
※以下、括弧内は笹生論文から引用

笹生衛「日本における古代祭祀研究と沖ノ島祭祀. ―主に祭祀遺跡研究の流れと沖ノ島祭祀遺跡の関係から―」(『「宗像・沖ノ島と関連遺産群」研究報告II‐1』2012年)
http://www.okinoshima-heritage.jp/reports/index/18

まず、笹生氏は「神道考古学を提唱した大場磐雄氏は、古墳時代の祭具の中心に石製・土製模造品や手捏土器を位置づけた」が、「昭和50年代以降、祭祀遺跡・遺物の資料が増加した結果、再検討が必要となってきた」と、従来の学説からの批判的発展を提起しています。

笹生氏が注目するのは、「5世紀前半から中頃、初期の祭祀遺跡の中で保存状態の良好な事例では、石製模造品以外に一定量の鉄製品が使用されていたこと」と、「さらに、紡錘車と初期須恵器が伴うこと」です。
これらは「中国大陸・朝鮮半島からもたらされた当時としては最新の技術と素材で作られた最上の品々だった」と評価しました。なぜ、これらの遺物が祭祀用とされたのだろうかという従来の疑問に対して、単に実用/非実用といった使い古された議論から脱却し、歴史的位置づけを鮮明にしたのが笹生氏です。

もう1つ、氏によって新地平が開かれた古墳時代祭祀の議論は、葬と祭の分化・未分化の問題です。
笹生氏は「埼玉県行田市埼玉古墳群の稲荷山古墳第1主体部から出土した辛亥年銘金象嵌鉄剣に刻まれた『上祖』の文字」に着目し、「『上祖(とおつおや)』『祖(おや)』の文字は、記紀・『風土記』では古代氏族の系譜で起点となる人物を指す」と指摘します。
ここから、古墳時代における古墳葬送儀礼には、祖霊信仰の観念があったことが認められます。確かに、金石文という古墳時代当時の文字資料が「祖」を使ったことには、有無を言わせない説得力があります。

笹生氏によれば「古墳に副葬された鉄製武器・武具、農・工具、鉄素材の鉄鋌は、5世紀中頃までに成立した祭祀遺跡の鉄製品と基本的に共通」することから、「『上祖』『祖』への祭祀と、自然環境に由来する『神』への祭祀は、別系統で存在しながらも、ともに貴重な品と飲食を捧げる共通した形で行われたと考えてよいだろう」と論じました。


律令期の文献記録から、古墳時代祭祀を復元しようという挑戦



そして、これらの祭祀遺物組成は「『延喜式』四時祭々料で、特に重要な令制祭祀の祭料と共通する部分が多い」「『延喜式』祭料だけでなく、延暦23年(804)に成立した『皇太神宮儀式帳』(以下、『儀式帳』)とも整合する部分が多い」と笹生氏は指摘します。

これはすなわち、「『儀式帳』の祭式も5世紀代まで遡る要素を含む」という仮説です。
この仮説に基づき、笹生氏は前掲論文で福岡県沖ノ島遺跡の出土状況と、律令期における三重県伊勢神宮の祭祀状況とを比較検討していきます。

まず注目すべきポイントは、伊勢神宮の正殿の祭祀的な位置付けです。
笹生氏によれば、伊勢神宮における祭祀の場は「第三重で、屋外の庭上が主な祭場となっている」ことを指摘。
一方、「正殿の主な機能は、御形の御鏡の奉安、神宝・幣帛の収納保管にあり、高床倉構造となっている」と考え、祭祀の場における祭祀具・神宝の保管場所が高床倉などの形態で、古墳時代の祭祀遺跡にも存在していた可能性を提示しました。

また、「祭祀の執行に当たっては収納機能だけでなく、供献品の製作・準備、神饌の調理といった作業が必要であったことが『儀式帳』祭式からは読み取れる」ことと、5世紀代の祭祀遺跡において「鍛冶作業の痕跡が確認でき、さらに滑石製模造品の製作痕跡」も認められました。
そこから、5世紀以降の祭祀遺跡はただ祭祀をする場ではなく、「幣帛を製作・準備し、神饌を調理する施設、そして貴重な幣帛などを収納する高床倉などの集合体」と考えることを主張しました。これも、従来の祭祀遺跡研究からは一歩進んだものとして評価されるべきでしょう。

そのような視点から沖ノ島遺跡を分析すると、巨岩の岩陰に広がる22号遺跡において「鉄製雛形刀・矛、金銅製雛形紡織具・容器類、貝製品などは、岩陰の奥、巨岩に接する部分に約50㎝四方の石囲いをつくり、そこに収納された形で出土した」事実に注目。
この出土状況を保管・収納の場と解釈して、「岩陰の奥の部分は神宝・幣帛を収納した正殿・寶殿の機能を果たしていたことになる」 と、ここで伊勢神宮における祭祀と照らしあわせるのです。

これについては、議論の余地がある気がします。
祭祀具の保管場所が高床倉ではなく、岩陰の石囲い収納であったのが沖ノ島ですが、これを同質のものとどこまで見て良いか、です。
そもそも、伊勢神宮における祭祀の場が庭上で、その祭祀の対象として、沖ノ島にあるような巨岩はありませんでした。
多分に地理的環境の違いがこうさせると理解することもできますが、伊勢神宮は正殿が祭祀対象(御形である神宝が奉安されている以上、その機能を持つことも認めなければならないでしょう)で、沖ノ島は巨岩が祭祀対象というそもそもの差異を、自然環境の違いだけで説明してよいのでしょうか。伊勢神宮は祭祀対象と保管場所が正殿という同じところで担うのに対して、沖ノ島は祭祀対象と保管場所が違うことの差異とも言えます。

沖ノ島と伊勢神宮であれば、いかに比較する時代と場所が離れていても、ヤマト王権という同質の担い手による、共に国家的祭祀の場という点で、まだ比較検討ができると私も思いますが、ではこの検討方法を古墳時代のあらゆる祭祀遺跡に援用して良いかというと、またそれは慎重に考える必要があると思いました。


垂直降臨型思考への批判と他界観の問題

前編でも触れましたが、笹生氏もここで、折口信夫の「依代」問題に言及します。
依代というものは、去来する神の目印であり、それは大前提として、神はその場におらず、どこかから降臨してくるというイメージになります。
折口信夫は太陽神を前提とする去来信仰を語ることが多かったことから、自ずとそれは天上から地上界へという垂直型の降臨イメージとなります。これを垂直降臨型の思考と表しています。

たとえば神道考古学の大場磐雄氏は、沖ノ島遺跡の巨岩を磐座と捉え、それを「『「宇宙に遍満する」神霊を招き祭るための神の座と認識しており、21号遺跡で想定された神が垂直降臨する形は、まさにこの考え方を下敷きにしていると言ってよい」と笹生氏は指摘しました。

この"神はどこかから来る"という思考は、そもそも正しいのかという問題について検討が加えられます。

笹生氏は、沖ノ島にまつられている宗像三女神に関する文献記録に当たっていきます。
その結果、「神々の存在を示す言葉は『坐』『居』『在』の文字を使っており、これは、記紀編纂段階、三女神の神霊は祭祀の度に天上から降るのではなく、祭祀を行う島や海浜に常在すると認識されていたことを示すように思われる」と述べます。

また、他の事例でもたとえば『日本書紀』景行天皇条の記述から、「景行天皇は、山容の美しさから、そこには神が居るのではないかと質問し、水沼縣主は八女津媛という神が山の中に常に居ると答えている」という当時の心性を浮き彫りにしました。

これらの点から、笹生氏は沖ノ島祭祀が始まった古墳時代当時においても、「神霊は祭祀の度に巨岩の磐座に天下るのではなく、島を神として認識し、神は島に常に居しますという信仰を推定できる」と結論付けました。
つまりこれは、神は天上から垂直降臨するような発想ではなく、神はすでに沖ノ島にいるということです。

笹生氏は、沖ノ島の巨岩に対しては、これを「御形」と解釈しています。
氏の言葉を借りるなら、「人々は沖ノ島そのものに神を感じ、島の南側中腹にある巨岩群を、その神霊を象徴するものとして祭祀を行ってきた」といい、「これは『儀式帳』の表現を借りるならば、『形(みかた)、石に坐します』ということになるだろう」とその意味を説明しています。

「磐座」は「依代」ではなく「御形」?

「石に坐します」という先の表現は、「石坐」そのまま「磐座」と通じるものがあります。

前編で触れたとおり、磐座は憑依の目的物で、依代はその目印となります。
ならば、磐座に対し依代という言葉を使うのは避けるべきというのは、折口の本来の定義に戻る限り首肯できます。

一方、「御形」は、「神霊を象徴するもの」という説明ですが、読み手によって受け取り方に幅が出る、曖昧さを残した定義だと私は思います。
これの補足説明をするのなら、沖ノ島において神は天上から憑依するものではないのだから、御形は神が憑依するものではなく、神がずっと坐している(と信じられている)もの、それを象徴と表現したのだと思います。

つまり、磐座・石坐の「座」「坐」は、"どこかから来た神が座りに来る"ではなく、"ずっとそこにいる"と解釈するのが笹生氏です。

これが信仰の当事者の実際に即した考えかどうかを、検討する必要があります。


ところで、私はどうかというと、私には以前よりこのような疑問がありました。

"山頂に磐座があり、それは神が降り立つ磐座といわれているが、山の神が、天上から降臨するというのは変な構図だ"

山の神は、山の霊異から端を発するものなのに、山の領域から神格が切り離され、それがまるで高尚な抽象概念のごとく、天上世界から降り立つという人格神話的な発想で語られるのは違和感をもっていました。しかし、それを批判的に説明する術をもっていませんでした。
その点において、 笹生氏が論じた垂直降臨型思考への批判は、私の長年の疑問と響き合うものが多く、この通りだと感じています。
沖ノ島祭祀においても、信仰の当事者は島自体が神域であり、神が常住するテリトリーだったのだと私も賛同します。

私は、大場磐雄氏も無意識的にそう感じていたのではないか・・・と氏のさまざまな著作を読んできて感じます。
折口信夫以来の論理に無意識のうちに沿ったため、文章の上においては時枝氏・笹生氏の批判にあったような記述をしたのだと思います。
大場氏ほどさまざまな自然信仰の現場に足を運び、そこに多分に文学的なニュアンスを入れている記述に触れるかぎり、大場氏の肌感覚は、神が自然環境の場から切り離された所から垂直降臨するという発想にとらわれていたとは感じにくい。ただ、それをはっきり明文化しなかった。


ここからは私の所感ですが、山の神は山全体の領域が神域・聖域であり、山のどこにいても、山の神に出会う可能性があったと思います。島の神も、島のどこにいても、そこは神のテリトリーであり、どこで出会ってもおかしくないと。

あえて言うなら、それでは困るから、特定の場所で神と出会えるように設けたのが、祭祀の場なのだと思います。
私は、神というものは、神域というテリトリーの中に偏在していた可能性があり、その内、神と出会える、あるいはここで出会わせてほしい(用意できていないところで会うと困るから)という考えのもとで、祭祀の場が形成されたのではないかと想像しています。
だから、しばしば1つの山や1つの島で、複数の祭祀の場が形成された。同時代にせよ、時期の先後関係があったにせよ、共通するのは、人によって神と出会える、出会いたいと思った場所はテリトリーの中で動く性質だということ。

そして、磐座と呼ばれる岩石は、そういう祭祀の場として設定されたものだということ。
山中のどこにいるかわからない、あるいは、島の中のどこにいるかわからない、そんな存在を、磐座の前で祭祀することにより、磐座に"座りに来てもらった"というのが私感です。

したがって、私は笹生氏の"ずっとそこにいる"というニュアンスとは違う考えです。
ずっとそこに宿るのは、石神という概念に近いです。
ならば、御形は石神か?
違うと思います。私は、宗像三女神は島の神、海を司る神であり、石の神ではないと思っています。
石は、あくまでも神が座る素材です。石が本来持つ聖性とは、別のところから"やって来た"神格のはずです。
そうであれば、沖ノ島の巨石群は"ずっとそこに坐す"神ではなく、島のどこかにいて、海の徳を有する神が、島の中で会えると信じられた場所に、祭祀の時に石に座りに来てくれるのではないでしょうか。

私は、自然信仰において、自然が織りなす聖域を離れたところに神を設定するのは、本来的ではなく後付的な発想と見る立場ですが、自然の聖域というものは広がりを持つもの。聖域の中に神が遍在しているから、聖域はすべて神聖となるのだと思います。
そして、神は目に見えないものであることが自明であるなら、神の基本的構造は目に見えない、人間とは異なる位相にいるものです。
異なる位相の神を、人間の目の前に可視化するために、ある1ヶ所に集約した岩石が磐座と私は捉えています。このような視点に基づき、私は磐座を、聖域に偏在する神に"来てもらう"場所と考えます。


磐座以外の可能性も検討する時期に来ている


そもそも、「石に坐す」しかないのでしょうか?
私はかつて自著で、石の宿り方にも複数のパターンがあることを述べました。

たとえば、磐座と磐蔵、石座と石倉では、ニュアンスが違います。
漢字は当て字と言われればそれまでですが、当て字を付けた人の心性まで否定されるものではないでしょう。「いわくら」に対して、蔵・倉という宿り方を想定した人もいたということになるわけですから。

御神体、御形といった言葉と、磐座という言葉の間にも、神の現れ方の差があると感じます。
御神体、御形には肉体・象徴・代用物といった表現ができるかもしれません。
それに対して、磐座は座る施設という表現がふさわしいでしょう。
蔵・倉なら、神が中に入る、宿る施設という表現がふさわしいでしょう。

時枝氏・笹生氏の研究においても、岩石に対する祭祀解釈は磐「座」に固定化されすぎているきらいがあります。あるいは、同時代において石神か磐座かの二者択一の考え方を感じます。

まず、磐座以外の祭祀の用いられ方が岩石にはあります。神が常住するとか、神が憑依するとか、神宿り施設以外の解釈可能性があります。それは分類で示したことがあります。極めて多種の解釈の幅がそこには認められます。

このように、文献登場以前の日本列島の神観の言説世界はもっと多種多様で、非統一的であった可能性があります。文字テキストは、その氷山の一角を照らしたものです。

"今後、考古学において祭祀遺跡が見つかった場合や、過去に神聖視の対象だったと推測されるものの、すでに記録が途絶えている岩石に出会った場合、この分類を活用することで少しでも現実性のある歴史の復元に寄与できればと願っている。"

自著のあとがきに書いたこの言葉をむすびの言葉に代えて、この長い感想を終えたいと思います。


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