"日本には墓石や「石の上にも三年」ということわざがあるように、人の生活と石には、密接な関係があると思うのですが、これらはどのような岩石信仰によるものなのでしょうか?また、岩石信仰なのでしょうか?"(4回生の方より)
"日本のお墓に石が使われるのは、ただ「長持ちするから」だけではないのかなと思いました。"(1回生の方より)
石のことわざから、人と石の関係を考える
石に関わることわざは、検索すると次のようなものがあるようですね。- 雨垂れ石を穿つ(あまだれいしをうがつ)
- 石が流れて木の葉が沈む(いしがながれてこのはがしずむ)
- 石に灸(いしにきゅう)
- 石に漱ぎ流れに枕す(いしにくちすすぎながれにまくらす)
- 石に立つ矢(いしにたつや)
- 石の上にも三年(いしのうえにもさんねん)
- 石橋を叩いて渡る(いしばしをたたいてわたる)
- 一石二鳥(いっせきにちょう)
- 木仏金仏石仏(きぶつかなぶついしぼとけ)
- 玉石混淆(ぎょくせきこんこう)
- 金石の交わり(きんせきのまじわり)
- 転がる石には苔が生えぬ(ころがるいしにはこけがはえぬ)
- 他山の石(たざんのいし)
- 他山の石以て玉を攻むべし(たざんのいしもってたまをおさむべし)
- 点滴石を穿つ(てんてきいしをうがつ)
- 焼け石に水(やけいしにみず)
(「故事ことわざ辞典」2016年11月4日アクセス)
正直、知らなかったことわざもあります(苦笑)
上のことわざが、石をどのような象徴として表現しているかをまとめてみましょう。
- 石を硬いものとして表現している。
- 石を重いもの、動かないものとして表現している。
- 石を硬いもの、傷つかず変わらないものとして表現している。
- 石を硬いもの、頑固なものとして表現している。
- 石を硬いものとして表現している。
- 石を冷たいもの、温もりを持たないものとして表現している。
- 石を頑丈なものとして表現している。
- 石をお手軽な道具として表現している。
- 石仏から由来した言葉として使われる。
- 石を稀少性のないもの、ありふれた存在として表現している。
- 石を硬いもの、壊れないものとして表現している。
- 石を動かないものとはとらえず、動いて転々とする小石として表現している。
- 石を一見価値がないように見えて、考え方、使い方しだいで価値がある二面性を表現している。
- 上に同じ
- 1に同じ
- 石を一度熱するとなかなか変わらないものとして表現している。
こうして抽出してみると、石は堅固なもの、生気のないもの(動かない、冷たい)、価値のない石ころとして登場しているものが多いように見えます。これらはみなさんのイメージ通りではないでしょうか?
一方で、12のように活動的な象徴として石を使ったり、13のように見方しだいで価値のあるものとして石を語ったり、16のように「冷たい石」と逆の発想から表すものもあったりと、人間生活の中で語られる石のイメージは一枚岩ではないようです。
質問の中で「石は長持ち」というコメントもありましたが、以前このブログで紹介した會津八一の「一片の石」の中では、石は逆に「長持ちしないもの」として語られています。
石に対して人が抱く発想が多面的であることを示しています。まさに「他山の石」の世界観です。
信仰のイメージ
目に見えないものを信じる。それが信仰です。
予見できないことや、事実がはっきりしないものに対して、自分の予測、思いを信じる。これも信じることです。
「信仰」と書くから大仰に捉えがちになるだけで、信じることとは人間にとってごくありふれた、切り離せない感情ではないのかなと思います。
信じる矛先が、目に見えない出来事や結果ではなく、それを担保してくれる存在に向いた時、それを「カミ」や「ホトケ」や「霊」と名付けた人がいた。名付けていない人も、お天道様の前では悪さができないと思っているかもしれません。
人間のこういう心理は、決してハードルが高い、限られた特殊な感情ではなく、神を信じない人にも理解できないものではないと思います。
同様に、信仰対象を必要としない人は心が強いとか、迷信に興味がないといった一面的な評価をされるものでもないでしょう。
自分が見えないことを、まだ「だれか」に担保してもらう必要がないということです。
墓石の前に立って、人は一種類の行動しかしませんか?
お墓に石が使われている理由。
葬儀を祖先への祭祀・信仰と定義すれば、墓石は否応なく「信仰・祭祀に用いられた石」にはなりますが、おそらく皆さんの興味関心はその辞典的定義付けではなく、石に「信仰」の思いが込められているか、霊石としての働きがあるのかというところでしょう。
そういう論点で回答すれば、墓石は岩石信仰であり、岩石信仰でないかもしれません。
墓石の前に行けば、お墓に祖先が(あの世から)現われると思ってお墓参りする人もいるでしょう。
墓石の前に行けば、自分の思いが(あの世の)祖先に気持ちが届くと思ってお墓参りする人もいるでしょう。
石が、祖先の宿るものになったり、あの世に思いを届ける転送装置になったりしています。
それとは別に、墓石をいつまでも残る石材として見ている人も言えるでしょう。思い入れがあるのは石ではなく、祖先なのだから。
そう考えると、少なくとも、墓石は神そのものではなさそうですね。
そもそも、墓石に対してそんなこと考えもしないという人が大半ではないかと、私は思います。
考えないというのも、人が墓石に対して行った1つの選択であり、尊重されるべき思いです。無意識だった人に、研究者が無理に考えさせたり、回答を求めたら、その人の思いは捻じ曲げられたものになるでしょう。
このように、人の意識や思い、それに基づく行動や選択というのは、境界線のないグラデーションのような繊細なものです。
思いや考えというのは、本来、目に見えないものなのですから。
私の回答が1つの結論を提示しない理由は、皆さんに無理に結論を求めると、石に対して皆さんが元々持っていたピュアな感情を無理に捻じ曲げ、変節させてしまう危険性があるからです。
教祖が信者の心を一方向に導く宗教とは違い、石は人の意思をコントロールしない自然物です。
石に対して人が取る選択は無限大ですから、皆さんが自由に接してほしいです。
0 件のコメント:
コメントを投稿
記事にコメントができます。または、本サイトのお問い合わせフォームからもメッセージを送信できます。