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2016年11月5日土曜日

パワーストーンや宝石をどのように考えるか

「歴史観の形成」の授業でいただいた質問にお応えします。

"吉川さんは比較的大きい石の話をしていらっしゃいましたが、パワーストーンのような小さい石、宝石については、何か研究していらっしゃらないのかなと気になりました。"(3回生の方より)

大きい石の話が印象に強かったようで、反省です。
どうしても巨石は印象が残りやすいので、バランスをとるためにも、小さい石へのまなざしを持っているつもりでしたが、まだまだバランスが足りないようです。精進します。

パワーストーンや宝石についても、研究の対象としています。
ただ、今の私の興味関心が、パワーストーンや宝石ではない「ただの石」に向いていることも否定しません。

なぜかというと、パワーストーンや宝石という稀少性の高い石に惹かれる人の心は共感しやすいですが、「ただの石」に惹かれる人の心は理解しにくく、だから研究の対象としたいからです。

パワーストーンは、能書きを見て選ぶ場合と、能書きを見ずに石だけを見て選ぶパターンがあると思います。
能書きを見て選ぶ人の心理は分かりやすいですが、石だけを見てパワーを信じる人の心理にはとても興味があります。
一言で言えば、理屈で解決できない、言語化されていない人の感情に興味があり、研究したいと思っています。

宝石になると、私たちが事前に仕入れている知識が、宝石そのものを純粋に見る目を曇らせているような気がします。
能書きもしっかりあり、値段という社会的身分もあり、市民権を得ている石。それが宝石です。
あえて言うなら、宝石を覆っているそういう御託や殻のようなものを全部剥ぎ取ってしまい、石だけを見て宝石を語りたいです。
そのためには、自分自身の知識の殻もジャマなので破り去ってしまいたいものですが。

宝石やパワーストーンのような「価値」を認められていない、周縁に追いやられた「ただの石」には、そのような御託も殻もついていないので、ある意味、純粋な気持ちで観察ができます。
そういう「無価値」な石につい肩入れしたくなるのが、私の興味関心や優先順位の基準のような気がします。


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