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2016年12月27日火曜日

立岩(三重県津市)



三重県津市美里町南長野

立岩
たていははし(立岩橋)

立岩
長野川の真ん中に、2体の巨岩がもたれ合う。
これを立岩大明神・夫婦岩と呼び、かつてはここに立岩神社があったという。
(どのように祠がまつられていたかは情報収集不足につき不詳)
現在は長野神社に合祀。

立岩
立岩の中心に梵字が刻まれているのが確認できる。

津市の民俗有形文化財に指定されているが、現在は信仰・祭祀は継続されていないらしい。

2016年12月23日金曜日

カエデの森(三重県津市)



所在地:三重県津市白山町真見59-2


Googleで「磐座 三重」と打つと、トップページが上の画像のようになります。最近になって気づきました。

「カエデの森・磐座遺跡」
なんだろうここは。
三重県在住で磐座歴15年ですが、このような場所は初めて聞きました。

おそらく、この表示はGoogleMapで地点登録されたことによるもの。

この地点登録の手続きや基準を私は知りませんが、私がどうあがいても到達できない検索1ページ目をやすやすと叶えてしまうのだから、なんとも虚無感があります。

ということで、さっそく先日現地を見に行ってきました。三重県民として。


2016年12月19日月曜日

川上山若宮八幡宮の岩石信仰(三重県津市)

三重県津市美杉町川上

境内の岩石信仰

川上山若宮八幡神社
おもかる石。拝殿向かって左脇に安置。

川上山若宮八幡神社
みそぎ滝。雲出川水源。現在でも「みそぎ修法」と呼ばれる滝行が公式に行われている。
滝に隣接して岩肌斜面上に不断社の祠がまつられており、磐座の上に建つという。

川上山若宮八幡神社
不断社から、雲出川を挟んだ向かいに見える露岩。その裾には2基の石灯籠が設けられている。詳細不明。

川上山若宮八幡神社
みそぎ滝に榊と積石が手向けられている。

川上山若宮八幡神社

川上山若宮八幡神社
このように、ケルン状の石積みをしたり、鳥居の上に石を積むという行為が境内では散見される。

川上山若宮八幡宮には、各宅の神棚にまつるために「御石」を授与し、祈願成就の暁には個数を倍にして返す「お返し石」の儀礼が執り行われており、岩石を用いた祭祀行為が極めて親しく行われていることが窺われる。

川上山若宮八幡神社
神橋から見える川中の岩塊。詳細不明。9年前(2006年1月)に参拝した時には注連縄は巻かれていなかった。


【情報募集】所在地不明の事例群

2007年時点で神社境内に存在した地図。2016年探訪時には撤去されていた。
今はなきこの地図に重要な情報が載せられている。


「雨乞社(立石さん)」「燈明石」「赤子石」の字が読める。

曖昧な地図のため、等高線地図と照らしあわせても、どこに該当するか特定することができない。
そこで、川上山若宮八幡宮の社務所で神職の方に尋ねたところ、おそらく現地を知る神職の方から次のような回答を聞き取りできた。

  • 赤子石は、逢神橋からすぐ見える、川の中にある大きな石。祭祀に関わる石とのこと。詳細は明確な回答を得られず。
  • 燈明石は、逢神橋から車道を下って1軒の家があるので、その家の後ろから山に登れる道がある。暗渠(地下に水が流れる)になっている場所という。その道を5分ほど登るとあるとのこと。たぶん案内なくても行けるとのこと。
  • 燈明石は祭祀対象としての石ではない。そこで燈明を灯したことからこの名があるという。
  • 雨乞社(立石さん)は、たまに行くとのこと。ただし、その場所を知る地元の人の道案内がなければ辿りつくことは難しいだろうという。1時間以上は登るのではないかとおっしゃる。
  • 山のどのあたりか、山頂ですか?と尋ねたところ、「磐座を勉強されている方ならわかると思うが、磐座は山頂にはない。」と強調された(磐座と決まってはいないが・・・)。中腹というか、山の凹み、鞍部のようになっているところらしい(はっきりとニュアンスが掴めず、おおむねこのような意味と受け取った)
  • 雨乞社(立石さん)を示す表示・案内は現地には一切ないとのこと。
  • これらの石に関して書いてある文献はないだろうとのこと。

文献がないのであれば、この聞き取りが唯一のヒントとなってくる。
(ただし、まだ郷土資料の調査はしていない。美杉町の図書館は17時閉館だったため見れず)

川上山若宮八幡神社
まず、これは逢神橋である。
橋の北側に、川に沿って歩ける未舗装の道があり(並行して走る林道ではなく、川に一番近い道。300mも歩かないうちに行き止まりになる)、これを進むとすぐにこのような石祠が路傍に置かれている。

川上山若宮八幡神社
石祠から下の川を見下ろすと、ちょうど直下の川の真ん中に大きな石がある。

川上山若宮八幡神社
特に表示はないが、位置的に考えてこれが赤子石だと推定したい。

次に、燈明石が到達できる可能性があるので、まず家を探す。
逢神橋からさらに車道を下ると、まず見かけるのは谷沿いに置かれたコンテナ状の施設と、その奥の谷に続く道。

川上山若宮八幡神社
木材を切り出して並べている。
写真左下に石祠がある。門扉が半開きであり中に鏡が収められているのが見えた。赤子石と同様、この石祠が燈明石の目印の可能性も?
しかし、燈明石は祭祀対象としての石ではないと言っていたことや、このコンテナは家とは呼ばないはずなので違うと判断する。さらに車道を下る。

すると、車道が大きくカーブするところで山側に登れる道があり、そこを上がると1軒の家がある。人は常駐していないようだ。その家の背後からは登れなさそうだが、家から向かって右手に山側へ向かって続いている踏み跡があり、ちょうど谷の北側を進む道となる。この谷を暗渠とみなせば、条件にかなう。

川上山若宮八幡神社
上の写真のように、この道も木材を切り出すための作業道として活用されているようだ。
5分ほど登ってみたが、特に岩石は見当たらない。
時間もすでに17時で暗くなってきたためここまで。今回は予備的調査なので、次回の機会に持ち越したい。

雨乞社(立石さん)については、現時点では自力での到達はあきらめているところ。
しかし、ここは川上山若宮八幡宮の境外社としての社格があり、その名称からもぜひ一見したいし、これほど知られていない状況であれば、知っている人が存命のうちに、後代に途絶えないように記録に残したい。

おそらく、逢神橋北から東へ伸びる林道からアクセスするのだと思うが・・・(詳細はgooglemap参照)
現地を知る地元の方にお会いでき、いつかは案内いただけるように願って。

次の段階としては、地元の図書館や資料館などで文献調査をしたいところだが、本事例に関してはこのようにまったく情報が出回っていない。
(2007年に初めて知って以来、9年間待っていましたがweb上に登場することはなかった)

情報をお持ちの方はぜひご提供ください。

2016年12月17日土曜日

渭伊神社境内遺跡と、いわゆる「天白磐座遺跡」について(静岡県浜松市)


静岡県浜松市北区引佐町井伊谷字天白 渭伊神社境内

参考文献

  • 辰巳和弘・編 『天白磐座遺跡』(引佐町の古墳文化5) 引佐町教育委員会 1992年
  • 辰巳和弘 『シリーズ「遺跡を学ぶ」033 聖なる水の祀りと古代王権・天白磐座遺跡』 新泉社 2006年
  • 藤本浩一  『磐座紀行』 向陽書房 1982年

いわゆる「天白磐座遺跡」に対しての警鐘 


渭伊神社の背後に薬師山(標高41.75m)があり、頂上に多数の岩塊が露頭している。
これが渭伊神社境内遺跡である。
頂上の巨岩群の周辺一帯から、古墳時代から鎌倉時代前期まで連続した祭祀遺物・祭祀関係遺物が出土した。

渭伊神社境内遺跡

遺跡発見者であり、発掘調査を主導した辰巳和弘氏は、この遺跡を「天白磐座遺跡」と命名した。
一般にはこの名で有名となった国内の代表的な「磐座」遺跡だが、史跡登録時の正式名称は渭伊神社境内遺跡である。

本遺跡発見より遡ること約10年前、『磐座紀行』著者の藤本浩一氏が当地を訪れ、同書にて磐座の例として紹介した。
現地には、藤本氏の同書に影響を受けたと思われる説明板も立てられている。

藤本浩一氏の記述を元にした現地看板。「天白磐座遺跡」の名はまだない。

この点を踏まえると、藤本氏の紹介以降、当地が「磐座」と呼ばれるようになったようである。
逆に言えば、それ以前、この巨岩群を「磐座」と呼んでいたわけではないことに注意したい。
実際、かつて地元ではこの地を「おがみ所」と呼んでいたという記録が残っている。それが、天白磐座遺跡の名称が広まってからは「おがみ所」の呼称は影をひそめてしまった。

私はこの点を懸念している。
なぜかというと、文字記録がない古墳時代の遺跡に対して、容易に「神が降り立った岩石」という意味合いを持つ「磐座」の用語を断定的に当てはめるのは危険だと考えるからだ。

本遺跡の古墳時代の遺物の出土状況から、特定の岩(報告書中で「岩A」と称されている)をまつった様子は推定できるが、それだけですなわち「磐座」とは即断できないのである。「石神」など、奈良時代の古典には磐座以外の岩石信仰の存在が記されている。
このように磐座以外の岩石信仰の可能性がある現状で、「磐座」という限定的な意味を持つ名称を付することには慎重でありたいし、当地は旧来から「磐座」と呼ばれていたというわけではないことも重視したい。

地元で真に伝承されてきた「磐座」であればよいが、今回のように、外部の人間が持ちこんだ外来語としての「磐座」がないまぜになって、後世に勘違いが起こることを防ぐのは私たちの役目であると思う。

たとえば、露岩群の岩の割れ目より平安~鎌倉時代の経筒外容器が出土していることから、中世に当遺跡は経塚として機能していたことが明らかになっている。
ということはすなわち、本遺跡は年代によってさまざまな性格・役割を有してきた複合遺跡であると言える。
であるならば、本遺跡の名称は古墳時代に偏重しており中世の経塚の性格を切り捨てる「天白磐座遺跡」ではなく、史跡の正式名称であり、あえて言うなら「現代」の状態を忠実に示す「渭伊神社境内遺跡」の名称を私は使用したい。

本遺跡をとおして、「磐座」の用語を濫用することで本来の歴史を改変してしまう問題が全国各地で起こっていることに、せめて読者の方は関心を持っていただければ幸いである。


遺跡の状態


以下、本遺跡の発掘調査報告書でもある辰巳和弘氏『天白磐座遺跡』(引佐町教育委員会、1992年)に基づいて遺跡の状態を紹介しておこう。

薬師山の頂上には「岩A」「岩B」「岩C」(報告書での通し番号)の3体の巨岩がトライアングル状に位置しており、その3体の周囲に大小の岩塊が集中して散布している。

特に「岩A」が遺跡の中で最も巨大な岩であり、幅は南北最大長10.3m、東西最大長6.8m、高さは7.39mを誇る。現在、「岩A」の頂部には小祠が設けられている。

岩A


発掘成果


発掘調査では、1区から5区までの5ヶ所の発掘エリアが設定された。

  • 1区…「岩A」のすぐ西側
  • 2区…1区のすぐ南。「岩A」の張り出している部分。
  • 3区…「岩A」「岩B」「岩C」が織り成すトライアングル区域内の平坦面。
  • 4区…「岩B」の南東部。
  • 5区…岩塊群からやや離れた東側。

ここから発見された遺物を調査地区ごとにまとめておこう。

遺跡調査区と出土遺物のスケッチ

まず、1区のある「岩A」西壁直下付近は、付近の地形が斜面状になっているのに、この部分だけ平坦になっているのが不自然であることから、人為的な地ならしがされている可能性があると辰巳氏は指摘している。周りの斜面と比べると壇状をなしていることから「壇状施設」とも表現されている。現地で見てみた限りではそこまで顕著でもなかったが、発掘面や等高線的には不自然なのだろう。

発掘した結果、1区の至る所から手捏土器が出土。辰巳氏の観察所見では「これらの土器群は同時代に全て作られたものとは考えられず、分布の粗密も、磐座祭祀の継続期間の長さによる所産であろう」と記している。
1区から出土した土師器は最古級のもので、古墳時代前期後葉と考えられている。勾玉は作りが粗く、古墳後期のものとされる。
他にも鉄製の武器・工具など古墳時代中心のバリエーション豊かな遺物構成だが、その後代に当たる奈良時代(8世紀頃)の土馬も出土した。

岩Aとその西側の1区

2区からも手捏土器が出土したが、1区よりは出土点数が少ない。ちなみに1区と2区を合わせて約200~250個体ほどの手捏土器が見つかったとのことである。
2区から出土した鉄矛は、まるで「岩A」に立てかけていたものがペタリと倒れたかのような出土のしかただったというのが注目点である。この解釈が妥当ならば、当時の祭祀具配置の仕方を知る1つのモデルケースとなるだろう。

3区から出土したのは、大別して縄文~弥生時代の土器片、鎌倉時代の経塚関係遺物、江戸時代の古銭類の3種となる。
縄文~弥生時代の土器片の中で、最も新しい時期のものは弥生中期頃で、古墳前期後葉から始まるとされるここの祭祀遺物とは時期がかけ離れているので、これらの土器群は祭祀に関わるものではなく、生活用具の痕跡ではないかと辰巳氏は述べている。

3区の設定目的は経塚の所在を探るところにあったが、経塚は破壊されているようで所在確認はできなかった。ただし経筒外容器の破片は区域全体から出土し、それぞれの破片から経筒外容器が6個体分はあることがわかっている。
これらは円筒形の胴部に蓋が別個付いた容器で、およそ12世紀後半~13世紀初頭に渥美窯で作られたと考えられている。この経筒外容器の破片の約3分の1は「岩A」の割れ目の間から発見されており、「岩A」が経塚そのものとして機能していたことが窺える。

また、寛永通宝・文久通宝・照寧通宝など江戸時代の古銭10枚が出土した。照寧通宝はもともと宋銭だが、これは後代に真似て造られ、江戸時代に日本へ流入したものである。文久通宝5枚は紐が通った状態で出土した。

4区は「岩B」の祭祀状況を判断するために行なわれた調査区だったが、「岩A」ほどの成果は得られず、また「岩A」の1区・2区が古墳時代の資料に満ちているのに対し、「岩B」の4区からは数点の灰柚陶器・山茶碗など、中世の資料が主体を占めた。

最後の5区からは弥生後期の小型壺と思われる底部の破片が1点出土し、同時期の石斧が2点出土した。これも壺・斧の実用的機能上、生活の痕跡と考えられ、辰巳氏は祭祀遺跡成立以前の生活痕とみなしている。したがって、5区からは祭祀に関わる痕跡は見つからなかったということになる。

発掘調査区から外れて、岩A~岩Cの辺りから約15m下った南斜面の巨石裾では、和鏡の破片が採集されている。


山頂から遺物が出土しない意味を考える


こう見ると、古墳時代の遺物が「岩A」の西側~南側だけでしか出土していないのが興味深い事実である。
最も山頂に近い「岩A」「岩B」「岩C」の織り成すトライアングル空間を避けた形で、古墳時代の祭祀遺物は配置されているかのようだ。

特定の岩石の手前「だけ」で出土遺物が偏在し、なおかつ壇上施設という付随設備まで見受けられる以上、古墳時代、「岩A」が祭祀の対象として存在していたことはさすがに疑いない。「岩A」が遺跡中最も巨大な岩だとは言え、ここまではっきり祭祀の対象物が分かる事例も珍しい。

しかし先述したように、「岩A」が当時、石神(神そのもの)として祭祀されていたか、磐座(神が憑依する施設)として祭祀されていたかには検討の余地がある。

個人的には、本遺跡の祭祀構造と類似した事例として福岡県日峰山遺跡を思い出す(梅崎恵司 編『日峰山遺跡-北九州市八幡西区浅川所在の古代祭祀遺跡-』1982年)。
日峰山遺跡では山の頂上からは遺物が見つからず、その山頂直下にある女郎岩と呼ばれる岩の手前から古墳時代後期の土師器群が出土した。山の最高点空間を避け、その手前にある岩の前で祭祀具配置を行なっていることになる。
この祭祀構造と同種のものとして、渭伊神社境内遺跡も最高点やトライアングル空間を避けた上で、その手前にある「岩A」で祭祀具配置をおこなったのかもしれない。

最高地点を不可侵状態にしているということは、そこが信仰対象のテリトリーであると考えれば自然である。ならば、信仰対象のテリトリーの手前にある「岩A」は信仰対象そのものである石神というよりは、磐座の可能性のほうが高いという仮説は成り立つが、これは石神か磐座かの択一に絞った場合の思考実験であり、それら以外の岩石祭祀の可能性も考えられる。
同様に「岩B」や「岩C」は、「岩A」と共に神のテリトリーであるトライアングル空間を形成する結界石として機能していた側面が指摘できるかもしれない。

また、上記の仮説を覆す別の可能性として、古墳時代の祭祀遺物群は、奈良時代以降の祭祀集団によってトライアングル空間の外へ片づけられたという可能性もありうるが、これはある意味「ないことの証明」であり、消極的解釈とも言える。

祭祀場所の移り変わり


古墳時代以降も、本遺跡で考古遺物の出土が続く。
奈良時代の出土遺物は土馬・須恵器となる。土馬は「荒ぶる神を鎮めるために奉献する形代」と考えられており、祭祀の場としての性格が引き継がれたと推測される。
土馬は1区からの出土だったが、須恵器は3区のトライアングル空間内から出土した。この点からは、奈良時代当時ですでに「岩A」限定の祭祀からは離れてきている感が窺える。

中世の経塚祭祀形態になると、祭祀のメイン場所が3区のトライアングル空間に本格的にシフトする。
古墳時代、神のテリトリーであった場所に経塚を築き、埋経したとしたら自然な流れでもあるのかもしれない。仏教の影響により山は不可侵ではなく登りきるものになる流れからも肯けるが、事実はわからない。
「岩A」自身に経筒外容器が差し込まれていた痕跡が見られることから、この当時の「岩A」が経塚施設として機能していたことは確かである。

鎌倉時代以降は目を見張る遺物の出土が途絶えるが、江戸時代に銭貨の投入があったことが今回の出土成果からもわかっているので、岩塊群に対する信仰心は連綿と続いていたことが読み取れる。
生活場所ではない山頂で、しかも渭伊神社の裏山としてすでに神聖視されている場所の中で金銭を落とす理由を考えると、賽銭祈願の痕跡と考えるのが妥当か。

以上の流れから、本遺跡に対する祭祀は、古墳時代の頃から祭祀場所を変え、その性格を変えながらも連綿と続けられてきたと結論づけられる。

付近の岩石祭祀事例


なお、この露岩群から西斜面に下ると、神宮寺川の崖沿いに「鳴岩」と呼ばれる巨岩が存在する。
これは川に面する崖状地形の岩盤の隆起であり、鳴岩付近からも須恵器や灰柚陶器の破片が出土している。

鳴岩

ほかにも旧・引佐町一帯には、本遺跡以外にも岩石祭祀事例がいくつか存在している。そのほとんどを私は未確認だが、わかっている範囲で簡単に紹介しておく。

■幡教寺の巨石
富幕山という引佐町の奥方の山にあるのが幡教寺。詳細不明(竜ヶ石山麓「夢現の岩穴」説明板より)

■浄居院の巨岩群
背山という山にあるのが浄居院。詳細不明(竜ヶ石山麓「夢現の岩穴」説明板より)

■竜ヶ岩
日本有数の総距離を誇る竜ヶ岩鍾乳洞が見つかったのが竜ヶ岩山(標高359m)。その山頂付近に「竜の爪跡が残る」といわれる大岩「竜ヶ岩」があるという(竜ヶ石鍾乳洞出口の説明板より)

■光岩山長楽寺北側の「行者岩」
細江町気賀。岩の頂きから、渥美窯製の経筒外容器の破片が発見されている。経筒奉献が巨岩の上に設けられた岩石祭祀事例(報告書より)

■「夢現の岩穴」
竜ヶ岩山の鍾乳洞観光整備の合間に、新たに発見され神聖視されるようになった岩穴。
現地看板によると、整備の一環で鍾乳洞一帯の清掃をしていた作業員が、たまたまこの岩穴の中に無数の丸石があったのを発見し、これは縁起が良いということで、娘の受験合格をついでに祈っておいたところ、数日後に娘が見事合格したという。そしてそれをきっかけに、この岩穴は「家内安全・合格祈願」の霊験がある場所として整備された。
「縁起がよさげだからついでに祈っておいた」という逸話には、畏れの感情というより「棚からぼたもち」「困った時の神頼み」の感情に近い。畏れを伴わない信仰も成立する。

「夢現の岩穴」現地解説板

夢現の岩穴

竜ヶ岩洞の看板より

光岩山長楽寺の現地看板


2016年12月13日火曜日

高座山(愛知県春日井市)

所在地




愛知県春日井市高座町

出典

高蔵寺町 『高蔵寺町誌』 東春日井郡高蔵寺町役場 1932年(ブックショップ「マイタウン」 1988年復刻版)

高蔵神社合成

高座山

情報

・標高194m。山頂付近に高蔵神社が鎮座し、社祠の背後に岩盤の露頭が認められる。

・高蔵神社は熱田神宮の奥ノ院と伝承され、熱田神宮付近と同じあるいは似通った地名が高座山周辺に残るという。

・高座結御子神社(名古屋市熱田区高蔵町)は、元来高座山に鎮座していたのが『延喜式神名帳』編纂以前に熱田に遷座したという話もあるが実際は不明である。

・本事例に関して、次の興味深い情報がある。
「名古屋権現坊古文書に曰く、昔シ熱田ノ蓬ゲ原即チ島山ノ時海シヨウノ上ル時ハ熱田神宮御神体ヲ高蔵神社(○この高蔵神社は熱田の高蔵神社ならん。)ノ裏ニアル大磐石ニ御移シ給ヒシト之レヲ高御座ト称セリ。 註 本村高蔵社の裏亦大磐石存せり。」
(高蔵寺町『高蔵寺町誌』1932年。旧字体は新字体に直した)

2016年12月9日金曜日

新溝神社(愛知県岩倉市)


愛知県岩倉市本町宮西

概要

新溝古墳という円墳の上に建てられている神社。

円墳上には古くから岩石群があったといい、大正初年に社殿を改築した際に岩石群を動かし、一部を拝石としてまつり、一部を石段の台石などに利用したという。

岩倉市の地名の由来になった「いわくら」とされている。

新溝神社「いわくら」を巡る記録


『岩倉町史』(1955年)には、堀場義馨『愛知県岩倉町巨石文化遺跡の研究』(1934年)という文献が紹介されており、そこに新溝神社改築時の巨石の状態が詳述されている。

  • 改築時に6個の巨石が出土した。
  • 巨石はそれぞれ1m~1m50cmほどの将棋の駒のような形状をしていた。
  • 6個の巨石は境内の庭石や台石になったり、末社牛頭天王社の拝石になった。
  • 氏子総代や古老の話では、地表下には巨石が集積しており、その周囲を取り囲むように駒形の巨石が配置されていて、6個の巨石はその一部だという。

また、岩倉市の文化財保護委員だった浅野平雄氏が著した『磐座』(1978年)によると、新溝神社の磐座について下記の事実も記されている。

  • 改築の時、巨石群の中心と思われる岩石を本殿の東に立てて拝み石とした。
  • 本殿の西にももう1つ岩石を立てた。
  • 他の岩石は全て古墳下の境内に移した。
  •  古墳の地中を1mほど掘ったところ2mほどの平たい岩石が見えたため、これは墓の蓋石であり恐れ多いということで触らず埋め戻した。

以上の情報を総合すると、古墳の埋葬主体には手を付けず、その上にあった駒形の岩石群のうち3つを拝石(本殿東・本殿西・牛頭天王社)とし、他を古墳下の境内に移して庭石や台石に使ったということがわかる。
興味深いのは、これらの岩石群は古墳の石室石材というより、その上部~墳頂に設けられた別の石材だったと可能性があること。
埋葬主体を埋める時に用いられた角礫であったのか、はたまた、墳頂に石材を持って別の施設が構築されたいたのか、他の可能性もあるだろう。
古墳については須恵器杯が1点出土したといわれており、その型式から6世紀の製作ではないかと考えられている。これが本当であれば、新溝古墳は古墳時代後期の築造と推測される。

現況


本殿の周囲は玉垣(塀)で囲われているため、玉垣内にまつられているという岩石群は、玉垣の合間から目を凝らして見ることしかできない。
柵の合間からは、確かに駒の形をした岩石が、本殿の西と東に立てられている様子が見える。これが現在も認定されている拝石である。
垣内の本殿南東にはもう1つ棒状の立石が立っているが、これまでの文献記述などを読む限り、これは拝石にはなっていないようだ。


2015年11月24日、この新溝神社磐座の特別公開が催され、垣内に入り拝観することができた。
その折、氏子総代の方から下記のお話を伺うことができた。

  • 2014年の天王祭で磐座を初公開していた。これは2度目の公開。
  • 氏子総代の方が中心となり、地元でも知らない人がいるのでPRしようと昨年あたりから公開準備を進めてきた。
  • 伊勢神宮に行かれたとき、神宮の方から「磐座の石に触れることは神様の頭に直接触れるようなものだから恐れ多い」という話を聞いたので、磐座の手前にある立石を「願い石」と名付け、これに触れて磐座にお願いごとをするという作法を考案した。
  • 墳丘上の木々は伊勢湾台風によって枯れてしまった。
  • 前回の公開時に、新溝神社の御朱印はないのかと要望を受けたので、今回から新たに新溝神社の御朱印をつくった。
2016年の正月3が日にも公開されたらしい。
今後も祭礼日や正月などに公開される可能性がある。ぜひ同好の方はこういった機会に拝観されたい。

DSC00029
2015.11.24 垣内拝観。右奥が拝石で、左手前が願石と名付けられた立石。





DSC00043
本殿西側の岩石群。これらも拝み石の一部を構成していたと思われる。

また、末社の牛頭天王社(墳丘上の拝殿東にある祠)にも拝石があるとのことだったが、目立つ岩石は見当たらなかった。もしかしたら祠の中に収められているのかもしれない。
古墳下の境内にも人頭大の岩石などが散在しており、移設された岩石群の残骸の可能性もある。

岩倉の地名考


愛知県岩倉市の「岩倉」の地名は、この新溝神社の「磐座(いわくら)」から由来するのではないかといわれてきた。『岩倉町史』に収められた「岩倉と磐座」の一節でその説が述べられている。

しかし、いざ読んでみると根拠がいささか頼りない。論旨は、「いわくら」は「磐座」という深い意味を持つ言葉だから、たぶん「岩倉」も磐座信仰に基づくものだっただろうというもの。文章の最後の方になると「しなければならない」「信じたい」と信念的な主張が強い。

そもそも「岩倉」という地名は、織田伊勢守が応永年間(1394~1427年)の頃にそれまで新溝と読んでいた地名を岩倉と改称した(あるいは岩倉城の築城時に改称した)という記録が『尾張志』『地理資料(日本地理志料?)』に記されているのが初出だ。
「岩倉」地名が文献記録上中世を遡らないものであるのに対し、「新溝」の地名初出は『延喜式』(927年)諸国駅伝馬条に尾張国の駅(宿場)の1つとして「新溝駅」があり、諸説ありながらもこれが岩倉市新溝地域のことを指すともいわれている。
また、建久3年(1192年)の伊勢神宮の御厨(神領)一覧の中に「新溝御厨」の名があり、現に岩倉市新溝地域は鳥羽天皇が奉献した神領の名残として神明大一社の存在が伝えられている。
新溝神社は江戸時代まで今宮天王社と呼ばれており牛頭天王をまつってきたが、『尾張国神名帳集説』(1707年)には「従三位新溝天神」の名で記されており、神社が鎮座する地名の小字も新溝廻間と呼ぶ。

このように、「岩倉」地名が僅少なのに比べて、「新溝」地名は平安・鎌倉時代の頃から少なくとも文献で確認できる。
江戸~明治時代の地名考証で「新溝→岩倉」とみなしていた過去の蓄積に対して、『岩倉町史』は、磐座は古い言葉なんだから「岩倉→新溝」でなければならない、そう信じるという強引な論理で押し通している。
歴史学的なアプローチに立つ限り、岩倉よりも新溝の方が由来は古いのであり、思っていたよりも「岩倉=磐座」とする根拠は弱いという思いに至らざるを得ない。

確かに、「岩倉」という地名は岩倉城築城の頃から突如出現し、その理由は明らかにされていない。その語源を「磐座」に持っていきたくなる気持ちも分からなくない。
しかし、新溝神社の岩石群を「磐座」と呼んでまつったのは、大正初年の改築以後の話だということに注意しなければいけない。それ以前に、これらの岩石群をまつっていたという確たる記録・伝承はない。
しかも、これらの新しくまつられた岩石でさえ、呼び方は「拝み石」「拝石」だった様子が端々からうかがえる。「磐座」という表記では記録されていないのである。これらを「磐座」という言葉で表現するようになったのは、大正~昭和戦前期に熱を帯び始めた巨石文化研究者たちによるものではなかったか。そのような論点も提起しておきたい。

「岩倉」地名が仮に磐座祭祀に基づくものであったとしても、それは必ずしも新溝神社の岩石群を指していたとは言い切れない。ただ、岩倉市は沖積平野であまり露岩の目立たない地形のため、他に「磐座」候補を探すのも難しいかも。
1つ言えるのは、新溝神社は古墳の上に建つ神社である以上、磐座祭祀があったとしても、それは古墳祭祀より後であったということ。古墳築造後、後世に磐座祭祀に再利用された可能性は今後の研究しだいで見出せるだろう。

出典


  • 岩倉町史編纂委員会 「新溝古墳」「岩倉と磐座」「新溝神社」 『岩倉町史』 岩倉町 1955年
  • 浅野平雄 『磐座』 岩倉史談会 1978年
  • 中根洋治 「岩倉市」 『愛知発巨石信仰』 愛知磐座研究会 2002年


2016年12月5日月曜日

真清田神社の神体石と覚王山日泰寺の真清田弘法

所在地


真清田神社・・・愛知県一宮市真清田1丁目2-1
真清田弘法・・・愛知県名古屋市千種区法王町1丁目1 覚王山日泰寺境内

出典

遠山正雄 「尾張地方のイハクラに就いて」 『愛知教育』第551号 1933年
遠山正雄 「愛知県一ノ宮国幣中社真清田神社本殿の後方にありしもの」 『皇学』第3巻第3号 1935年
森徳一郎「郷土史談(三二) 真清田神宝流出記(5) 十六 龍神石」『一宮市公報』No.180~No.181 1935年
森徳一郎  『真清田神社江戸時代の神宝と流出』 (一宮史談会叢書8) 一宮史談会 1964年
真清田神社史編纂委員会編  『真清田神社史』 『同資料編』 1995年
真清田神社造営奉賛会編・発行 『真清田神社復興造営誌』 1969年
小池昭 『民俗・習俗を科学する―カミ・神・神社とその周辺―』(小池昭著作集 一) 2000年
山口恵三 『尾張一の宮私考―真清田神社七不思議―』(一宮史談会叢書21) 一宮史談会 1995年
チェリーさん・酔石亭主さん・管理人MURYによる当サイト掲示板への投稿 (2013年9月12日~2014年5月8日)
現地看板

すべての出処


尾張国一宮・真清田神社では、神体石をかつて本殿後方の土壇上にまつっていたという話がある。
奈良県桜井市の大神神社神官である遠山正雄が、「尾張地方のイハクラに就いて」(1932年)および「愛知県一ノ宮国幣中社真清田神社本殿の後方にありしもの」(1935年)のなかで、下記の内容を記している。

愛知県一ノ宮国幣中社真清田神社本殿の後方にありしもの

一昨昭和八年秋の頃聞いた処によれば、古来御本殿の後ろの森の中の土壇上に、厳重にお祀りしてあった処の御神体石を、神主家の者が持出して我が家に祀った処、やがて段々と不運不幸が打ち続いて仕方がないものだから、ツイ他人に譲ることとなった。
(中略)
終には常に信頼する寺院に持込み、鎮安・奉斎して貰ふことになった、之が名古屋で有名な大寺院覚王山に秘蔵する処の有り難い「真清田弘法」(マスミタコウバウ)と申すもので、一年に一度の虫干の折丈けに開帳するのである云々と聞かされました。
(中略)
私は昭和の七年六月九日、真清田神社に参詣いたしましたが、本殿の後方に確に土壇といふものの跡があります。只祠はありません。併しその神社々務所に伝はる古図に、祠も鳥居も具備した形容があらはされてあります。そこで此の御神体石の出所が確と伺はれました。その古図をよく見れば、壇の上のホコラの前の鳥居が三基並立して居ます。中央の分が高く大きく、左右の二基は少々低くして恰も中央の分の両袖の形であります。此の形式は大和の三輪山鎮座大物主神の大神神社特有の所謂三輪鳥居の形式であります。
(中略)
今、真清田神社の明細帳によれば、御祭神は天火明命(アメノホアカリノミコト)とあります。大神神社の分身類社鈔の尾張国の郡を見れば真清田神社 大己貴命とあります。即ち大神神社の此の旧記に言はしむれば、尾張の国に分身の類社といふものが六社ある。その中の一つが真清田の神で、この大和国三輪明神が本体の神だと主張する訳なのであります。
(中略)
神武天皇御東征記によりましても、已にこの命(管理人注:天火明命)が大和の北部を中心として治められて居たかが分かりますが、大国主神が、その昔天孫に国譲りをして先づ大和に落付かれましたが、やがて子々孫々は盛に又東方の美地を求めて繁殖膨張移動をする勢となりましたが為、まづ伊勢尾張方面へと進出された事は至極自然であり、之に代って大和に入ったのは饒速日命即ち天火明命の一族と見ねばなりませぬ。恰も出雲の神族が、東へ東へと進み行くその跡へ跡へと火明命の一族が進んで、一段の開拓を重ねて行った順序と云へませう。
(中略)
然る処前述の通り、この本殿の真後ろに当って土壇があるのであります。高さ五六尺、正に中高で、径五間余と思はるる円形で、その南半分は破壊し尽くされ、中心より北方半分が残ったもののやうであります。周囲の風致模様等より見て如何にも祭壇の跡方かといふ感興の尽きないものがありますのが、古図を見て初めて明瞭になり篤と首肯かれました於是現在の本殿工法の土壇用の場所は、古代に於ける最初の草創的祭場であって、其の設備は岩クラ式のものであったらうし、尚ほ出雲神族の式でもあったらうと思ひます。それは近く大国霊神社の例もあることだから。而して今の本殿建築設備は、後世に至って之を前面に建て広げた処のものだといふ自信を得ました。右の古図にある処の三箇の鳥居が、大和三輪なる大神神の三輪鳥居と因縁あるものとせば、之によって大神分身類社鈔の所伝通り、御祭神は御同神なりと推断するに難くなく、又最初この処に大物主神を御鎮祭申上げて中心と仰ぎ、大に子孫一族が発展したところの出雲神族が、その内に何かの事情の為に大部分この地方を後にして一段と東遷した時、そのあとに大和方面から天火明命の神裔一群が推かけ入込んだため、その時我が租神火明命をその前面に祭ったものと判ずるには難くなさそうに思はれます。
(後略)

以上、「愛知県一ノ宮国幣中社真清田神社本殿の後方にありしもの」(1935年)より引用(原文ママ)

昭和8年(1933年)聞いた話として、真清田神社の本殿裏にかつて「土壇」があり、そこに石がまつられていたという噂を記している。
神主家のある者がこの石を持ち出して自分の家でまつりだしたところ、家で不幸が続出。たまらず他の人に譲ったところ、そこでも災いが起こる。
このように数多の人の間を転々とし、最後には千種区の覚王山日泰寺に持ち込まれ、「真清田弘法」という名で秘蔵されているという顛末だそうである。
年に一度、虫干しの時に開帳されるといい、遠山正雄自身見たことはないが、確かにあると明言している。

遠山の推測では、大神神社の『分身類社鈔』の記述から、真清田神社が元来大己貴命をまつり、それが本殿後方の土壇上にまつられていた神体石であり、社殿祭祀以前の磐座事例と考えている。後代、天火明命をまつる集団が当地に移ってきた時、神体石の土壇前に社殿を設け、祭神の変化が起こったという流れも遠山は描いている。

日泰寺の真清田弘法


真清田神社の神体石が持ちこまれたとされる真清田弘法は、今も覚王山日泰寺の境内に存在する。
日泰寺は明治37年(1904年)、タイから寄贈された仏舎利をまつる超宗派寺院として建立された。境内南東端にある現地には2基の祠がまつられており、傍らに掲示された看板には下記のように記されている。

masumida5
覚王山日泰寺

masumida1
真清田弘法

masumida2
真清田弘法の説明文(現地看板)

真清田弘法大師縁記
御神殿に奉安せるは昔弘法大師巡錫の砌り尾張一の宮真清田神社に崇納し奉る念持石にして真清田神社の御神体なり
明治維新廃仏毀釈の際神社より分離し爾来竊に護持し其の縁由により真清田弘法と称すれども本地には難陀跋難陀の二大竜王也経に曰く此の二大竜王は首上に七頭竜あり通力自在にして我を念ずる者は願いに応じて衆生を利益し給う
其の誓願に曰く
一には命欲を離れて我を祈念する者は福を受くること佛に等し
二には瞋恚を離れて我を念ずる者は寿を迎えて保つこと佛の如く成らむ
三には愚癡を離れて我を祈念する者は楽を受くること佛の願に等し

この2基の内のいずれかの祠内に、弘法大師が真清田神社に奉納した念持石がまつられ、真清田神社の御神体だったことが記されている。
また、廃仏毀釈の時に神社から当地に移され、真清田弘法と称してひそかに護持してきたが、その本来の姿は二大竜王であることも併記されている。

遠山が語った神体石の話と比べて仏教色が色濃くなっている。
弘法大師が元々奉納した石であることや、二大竜王の神体石であること、そして、真清田神社から持ち出された理由は祟りを恐れて転々としたのではなく、廃仏毀釈のため仏教色の強い本石が日泰寺に匿われたというのが大きな違いだろうか。

実際に、江戸時代まで真清田神社の社僧が奉仕していた西神宮寺・菩提院・光徳寺の三寺は明治時代の神仏分離で廃寺となり、その時に本尊の仏像や堂宇・仏具などがすべて売却されたほか、真清田神社が保管していた神宝類のうち、仏教色がある経文・掛軸・仏舎利なども流出したことがわかっている。

いずれにしても言えるのは、この真清田弘法の現地看板においても、真清田弘法が真清田神社の神体石だったという点が遠山の話と共通していることである。

日泰寺には、他にも真清田神社から持ち込まれた「水精石」があった


これだけなら話は単純だったのだが、ここから話は複雑になる。
真清田神社に、八龍神社という境内社がある。真清田神社の公式ホームページには、由来が以下の通り説明されている。

「もと厳島社内に奉祀されていたが、明治初年神仏分離の際御神体の龍神石が名古屋の日泰寺に流出、近年当社に還り改めて奉祀した。」
http://www.masumida.or.jp/precinct/popup/16.html

龍神石という初めて目にするワードであるが、真清田弘法の流出経緯と極めて酷似する記述と言わざるを得ない。
もう1つ、関連の記事を引用する。

「江戸時代、第三代神主・佐分清円氏が享保18年(1733)に編術した『真清探桃集』に「水精石」(長さ一尺余り、黒白相雑)と記されるものがあり、これが龍神石を指すと思われます。」
「神社から出て民間を転々としたのち、名古屋市の覚王山日泰寺に安置されることに。ときを経て、日泰寺を訪れた三人の女性が、龍神石のいわれを知り、御神殿の造営に東奔西走。日泰寺境内の池に浮かぶ小島に完成後、手厚く祀られてきたといいます。」

http://machicon.or.jp/test/wp-content/uploads/2013/02/201110-03hono1.pdf(一般社団法人まちこん一宮発行『ほのぼの』内の記事「真清田神社と龍神信仰」より。現在リンク切れ)

龍神石が、江戸時代には「水精石」という名前だったこと、信仰心篤い女性たちによって龍神石をまつる神殿を日泰寺の池中の小島に造営したという出来事があったことがわかる。
その後、昭和61年に日泰寺から真清田神社に龍神石は返還され、平成元年、八龍神社が建立されそこの神体石としてまつられるようになったという。

また、森徳一郎 『真清田神社江戸時代の神宝と流出』 (1964年)によれば、宝暦年間に記されたと推測される『宝暦版神宝略目録』には「水晶石」の記述があり、これは水精石と同一物ではないかと考えられている。つまりこの霊石は水晶なのである。
また、江戸時代に水精石・水晶石と呼ばれていたこの石が、龍神石と名を変えたのは明治維新流出の際ではないかと推測している。

さらに、龍神石の流出経緯について最も詳しく、かつ正確に記述しているのが、同じく森徳一郎による『郷土史談(三二) 真清田神宝流出記(5) 十六 龍神石』(1935年)である。
以下に、同記事の記述から分かった龍神石の流出ルートを簡潔にまとめておこう。

明治2年(1869年)4月、真清田神社の佐分一ノ権が、神仏分離のため「不要之神宝」となったため、水精石を眞野伝に譲渡。この時の石の名は「奇石」とだけ添状に書かれる。
明治24年(1891年)1月、眞野伝が眞野眞四郎に水精石を譲渡。
大正4年(1915年)1月、眞野眞四郎が長谷川鍬次郎に水精石を譲渡。
その後、年月不詳ながら、長谷川鍬次郎が覚王山日泰寺東北にあった八十八ヶ所開山記念堂に水精石を奉祀。長谷川の手に渡る頃には龍神石の名になっていたと思われる。
昭和4年(1929年)8月初旬、森徳一郎が、覚王山日泰寺に龍神石がまつられているという情報を知人から教えられる。
昭和5年(1930年)1月、長谷川鍬次郎が龍神石を八十八ヶ所開山記念堂から覚王山日泰寺本坊位牌堂に移す。
昭和5年2月、森徳一郎が長谷川鍬次郎に願い出て、位牌堂の厨子の中に納められた龍神石を拝観。その異形ぶりに「思はず眉を伏せ、且つ身慄くを覚えた」と記す 。

龍神石の添状には、「弘仁年間弘法大師之寄附」と記され、この石が弘法大師の奉納によるものだという由緒を伝えている。
長谷川鍬次郎が大峯詣の折に一宮三光組の先達へ龍神石の話をしたところ、「あれ程有名な一宮の雨請が維新以後霊験が無くなつたのは、其の霊石が移出でられた所以であらう」と返されたという。
数々の所有者を流浪した理由は、いずれもこの石をまつると家庭に不幸が起こったためという。長谷川鍬次郎によると、開山記念堂にまつっていた時、厨子から石を取り出して外で観察しようとしたら。大音が鳴って建物が振動したというので、今後そのようなことは慎むようにしているという。

森徳一郎は、この水精石の寸法およびスケッチを記録している。
それによると「頭部と覚しきが高凡五寸五分、歯部一寸乃至二寸、腭三寸五分、下唇長く突出して総高凡そ一尺、奥行略々一尺三寸余りと窺はれた」という。下図にスケッチの通りであるなら、龍の水晶髑髏とも言うべき形容である。

龍神石
龍神石のスケッチ
(森徳一郎『郷土史談(三二) 真清田神宝流出記(5) 十六 龍神石』1935年

さて、これら水精石にまつわる記録から、いくつも疑問点が浮かぶ。

あまりにも、真清田弘法と水精石の事の顛末が、酷似しすぎてはいないか。弘法大師由縁の霊石で、神仏分離で真清田神社の手を離れてのち、祟りを恐れ数々の人物の手を経て、覚王山日泰寺に安置されたという両者の流れ。
ふつうに考えれば、この両者は同一物なのではないかと思ってしまう。

しかし、仔細をよく見ると、微妙に両者には記述の隔たりが見られる。

まず、真清田弘法が元来まつられていたとされるのは、真清田神社本殿後方の土壇上である。
それに対して、水精石は神庫内の所蔵である。だから江戸時代の目録に神宝の1つとして記されているのである。
流出前の安置場所が異なっているというのは、看過できない違いである。

2つ目の違いは、日泰寺における安置場所の違いである。
真清田弘法は、日泰寺の本堂から離れた境内端の一画に、独立して祠内へ安置されている。
水精石は、龍神石と名前を変えて、はじめ日泰寺の八十八ヶ所開山記念堂、のちに同寺本坊位牌堂へ安置されたことが明記されている。
つまりこのことから、流出前と流出後、いずれの安置場所も一致していないということになる。

日泰寺および真清田神社の聞き取り情報


では、真清田弘法と水精石は、真清田神社から日泰寺に流出したという経緯がたまたま一緒なだけの、それぞれ別々の存在なのだろうか。
チェリーさんと酔石亭主さんが、この点をはっきりさせるために、日泰寺の職員と別々に聞き取りをおこなっている。掲示板投稿の都合上、時期が前後するが、以下にそのやりとりを紹介したい。

チェリーさんの日泰寺への聞き取り(1回目)

日泰寺さんに電話をして「真清田弘法」について伺ってみました。とてもていねいに応対していただいて感謝しています。
御開帳の日程は決まっている訳ではないそうです。「御開帳かなぁ?」と言ってみえました。開いて中のお姿を拝見することができるのかどうかわからないようです。世話人の方がみえて、その方の連絡によって、お経をあげに行かれるのだそうです。いつも世話人の方からの連絡によるそうですので、連絡先はすぐにはわからないようです。年に1回というわけでもなく、もう少し多かったと記憶しているとのこと。
場所としては、真清田弘法は、ぎりぎり境内に入るとのことです。

チェリーさんの日泰寺への聞き取り(2回目)

日泰寺の社務所で、お話を伺いました。
女性の事務員の方と、僧侶の方がみえました。
やはり、分厚い資料がありまして、その中の1ページを見ながら、僧侶の方が説明してくださいました。そのページの半分が真清田弘法の記事で、半分が龍神石の記事のようでした。

年に一回、お経をあげるのだそうですが、世話人の方の依頼によるもので、お社の中は、見ていないそうです。詳しくはわからないとの御様子でしたが、真清田弘法は龍神石を祀って、それは真清田神社に戻ったのだから、ここにはないという認識のようでした。

日泰寺としては、よくわからないということになるようです。
ページの欄外に書き込みがあって、どなたかのお話で「…龍神石・念持石…」という記述が見えました。
もうひとつ「愛知県伝説集 福田祥男」という書き込みがありましたので、後日その本を見ました。「真清田の龍神」というところに、弘法大師の伝説と竜神石のお話が載っていました。新しい発見はなかったのですが、龍神石がここの位牌堂に祀られたのが、昭和5年1月であることがわかりました。

酔石亭主さんの日泰寺への聞き取り

真清田弘法は何だろうとなりますが、日泰寺に電話で聞いてみました。
女性が電話に出られて、資料によれば真清田弘法で祀られているのが龍神石だったとのことです。
その通りなら真清田弘法=龍神石となるので、既に真清田神社側に返還されていることになります。
ただ、チェリーさんのチェック結果ではまだ真清田弘法の御開帳があるようにも感じられるので、日泰寺側の話が100%確実か何とも言えず、再確認は必要かもしれません。

日泰寺に電話したら女性が出られたので、真清田弘法について知りたいのでわかる方をお願いしますと言ったところ、しばし待たされ結局その女性から話があったものです。
女性からは龍神石があって昭和5年に寺に来たが後に返還されたと説明があり、ではその龍神石が真清田弘法なんですねと質問したところ、そうですとの答えでした。
多分女性は単なる寺の事務員に過ぎず、何も知らない中資料を元に答えたのでしょうが、龍神石が真清田弘法なんですね、との私の質問は答えを誘導している懸念があったので確信が持てなかった訳です。
もう少し聞きたいと思いましたが事務員ではどうにもならないので、これ以上突っ込まず終わりにしました。

日泰寺の回答は極めて興味深い。
日泰寺は、真清田弘法=龍神石(水精石)と認識していることがわかる。

仮にその通りだとすると、真清田弘法の祠の中に現在、まつられるべき石はないということになる。まさかもぬけの殻なのか、それとも代用物をまつっているのかということになる。

チェリーさんは、真清田神社の神職の方にも聞き取りをおこなっている。以下、引用する。

神主さんに「八龍神社のお社の中に龍神石があるのでしょうか?」と問いかけたのですが、よくわからないようでした。「詳しい者が宝物館におりますので、そちらで聞いてみてください」とのこと。そのときはまだ閉館していたようでしたが、巫女さんが連絡を取ってくださって、中に入ることができました。

お話をしてくださったのは、権禰宜の方でした。とても親切にお話していただきました。
同じ問いから入りました。八龍神社のお社の中に龍神石はあるのでしょうか?
御神体を見ることはできないのだそうです。でも、流出した龍神石が日泰寺から真清田神社に返還されたという話は肯定されました。それがどういった経緯だったのかということは、今となってはわからないそうです。権禰宜の方は御自分で集めた資料の分厚いファイルを2冊持ってみえまして、それを見ながらお話してくださいました。(それは私には、とんでもない宝物に思えました!)

「日泰寺境内の「真清田弘法」にも、同じようにここから流出した御神体の石が祀られているとされていますが?」との問いには、流出したり、元に戻されたりしたという話は、多くあるので、そのひとつではないかな?とのことでした。現に宝物館を入った正面にある龍の像を指して、これは尾張徳川家初代義直公が奉納された龍ですが、これも流出して戻されたと伝えられるのですが、今となっては、はっきりしたことはわからないのだそうです。

本殿の後にある「土壇」についても伺いました。防空壕の跡との見解でした。第二次大戦時に、万一の事態に備えて、御神体を守るべく、そこに防空壕が作られたのだそうです。(改めて見てみると、私が以前報告したような直径10m程度の円形ではなく、もっと左右に広がっていました!ごめんなさい)

真清田神社の聞き取り結果では、龍神石(水精石)と真清田弘法を同一視しているわけではない。正確に表現するなら、よくわからない(問題意識を持ったことがない)という返答になるのだろう。

しかし、文献記録上では、真清田弘法と水精石の流出元と流出後の安置場所の両方に隔たりがあることは先述したとおりだ。日泰寺がいくら同一物と答えても、あまりにもぬぐえ切れない矛盾が出てしまうことになる。
やや乱暴な推測であるが、日泰寺では類似した2つの別々の石を、ある時期から混同して記録管理してしまっているのではないか。一度混同されて管理された資料から、後代の職員が語っていると仮定したら誰もその混同に気づけないだろう。
たとえば、日泰寺の職員が説明に使った資料では、龍神石は昭和5年(1930年)に日泰寺へ来たという話があるが、昭和10年(1935年)に森徳一郎が書いた『郷土史談(三二) 真清田神宝流出記(5) 十六 龍神石 』によると、日泰寺の八十八ヶ所開山記念堂に龍神石がまつられていると聞きつけたのは昭和4年(1929年)8月初旬である。日泰寺職員が現在使用している資料が表面的な情報である可能性は高い。

もう1つ重要なのは、日泰寺職員は真清田弘法の中を見ていないということである。
聞き取りによれば、真清田弘法には外部の世話人がおり、その方が年に一度あるいは数度お経を上げにくるという。そして、日泰寺はその詳細を把握していない。日泰寺の発言が事実を反映していると納得するには、いまひとつ伝聞と間接的な情報が多い。

質問のしかたによって話者の返答が揺らぐことは、民俗学でのルールを持ち出すまでもなく起こりうることであり、あくまでもこの話者の一意見としておくことが適切なのかもしれない。土壇と防空壕の話も、どこまで事実に基づいた話なのかという点や、防空壕以前の土壇の役割の回答にはなっていないことなども含め。
流出当時の事を知る人はほぼ存命していないと思われるので、今後聞き取りを行なうとしたら、最も適切なのは真清田神社および日泰寺の一職員ではなく、キーパーソンとなる話者の方に出会えるかどうかにかかっている。

弘法大師が水精石を奉納した経緯


真清田神社史編纂委員会編『真清田神社史』(1995年)に、真清田の龍神伝説が記されている。弘法大師が水精石を奉納した理由にもなっている。おおむね次のような内容である。

当地でかつて干ばつが起こり、困窮した人々を救うため、弘法大師が雨乞をしたが効果がなかった。
そこに一頭の龍が現れた。龍は、雨を降らせようとしたら、自分あるいは他の龍の命が必要になると弘法大師に伝えた。
そこで弘法大師は、その龍へ人民のために命を差し出してほしいと懇願した。その引き換えに、あなたを真清田神社にまつるということを約束したところ、龍は承諾した。
やがて激しい大雨が降りだし、黒雲の中から、龍の体が切れ切れになって落ちてきた。弘法大師は約束通り、その龍を神として真清田神社にまつった。

はっきりとは述べられていないが、この時、真清田神社にまつるにあたって、龍を宿らせる神体石として用意されたのが、水晶である水精石だったのだろう。
ちなみに、実際には弘法大師は真清田神社には来ていないと考えられている。あくまでも弘法大師信仰に基づいた伝承である。

後日、真清田神社が龍神石を手放したところ雨乞いの御利益はなくなり、龍神石を手に入れた家では不幸が相次いだので、昭和5年(1930年)に日泰寺の位牌堂にまつったという記述が書かれている。これは、これまで触れてきた事実と符合している。

真清田神社にまつった龍の神体石という意味では、広い意味では真清田神社の神体石と言って差し支えないだろう。問題は、土壇にまつられていた神体石とは祭祀場所が違うという点である。


三明神社の「三種の明玉」


真清田神社の本殿背後に、本当に土壇と呼ばれる場所は現存しているのか。

現地へ行くと、土壇は神社社殿の背後の森の中にあるため肉眼で目視することはできない。しかし、社叢のさらに後ろは大宮公園という自由に立ち入れる憩いの場となっており、公園から玉垣越しに、微高地状の土の盛り上がりを確認することができる。これが土壇なのだろうか。

小池昭 『民俗・習俗を科学する―カミ・神・神社とその周辺―』(2000年)によると、本殿裏の小高い丘は、戦後、神社裏手の大宮公園を造成する時に、すきとった土砂を寄せてできあがった土の高まりだと説明している。

しかし、真清田神社造営奉賛会編・発行『真清田神社復興造営誌』(1969年)を見ると、大宮公園造成前に真清田神社が実測した境内図があるが、本殿の裏にはちゃんと舌状に東西に延びる丘状の高まりが表現されている。小池説と矛盾している。
さらに真清田神社の神職が、戦前に防空壕をここに造ったという証言とも矛盾するし、そもそも、遠山正雄が昭和7年(1932年)に真清田神社へ参拝して、そのとき土壇状の土の高まりがあったと報告していることとも矛盾している。小池説に誤りがあり、土壇状の高まりは戦前からあったとみるのが適切だろう。

土壇と思しき微高地上に、現在、三明神社という境内摂社が建てられている。
三明神社は、真清田神社祭神の荒魂をまつるとされ、真清田神社に4つある別宮のうち、第一の別宮として尊崇された重要な神社である。

三明神社は「如意の珠」「護国の珠」「辟鬼の珠」の「三種の明玉」をまつり、宝珠の存在を秘するために三明珠の宮とは言わず三明神宮と称したと『真清田宮御縁起』巻上(室町時代製作と推定)に記されている。
三明神社も、明玉――つまり、玉石を神体としてまつる岩石信仰の社だったことがわかる。

そのような三明神社が、なぜ、神体石があったと遠山正雄が言う土壇の上にまつられているのか。
三明神社が、土壇の上にあったという神体石を覆い祀る祠だったのだろうか。ならば、神体石とは「三種の明玉」のことなのだろうか。

masumida6
真清田神社社殿。奥の社叢の様子を目視することはできない。

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大宮公園から玉垣越しに望む微高地と三明神社

『真清田神社古絵図』に描かれた土壇上の祠の正体とは


ここで、『真清田神社古絵図』という、室町時代製作と推定される絵図が真清田神社に残っていることに言及したい。江戸時代より前の真清田神社の境内の様子が分かる貴重な史料である。

遠山正雄も論文の中で、「古図をよく見れば、壇の上のホコラの前の鳥居が三基並立して居ます。中央の分が高く大きく、左右の二基は少々低くして恰も中央の分の両袖の形であります。此の形式は大和の三輪山鎮座大物主神の大神神社特有の所謂三輪鳥居の形式であります。」と述べており、この絵図の存在に触れている。

実際に絵図を見てみると、土壇のような土の高まりは絵図に表現されてはいないが、確かに本殿裏に小祠が1基描かれ、その周りを3基の鳥居が取り囲んでいる。また、裏門とも言うべき北門がすぐ隣接していることにも着目しておきたい。

masumida3
『真清田神社古絵図』の一部(真清田神社史編纂委員会編 『真清田神社史』1995年)

3基の鳥居を遠山は三輪鳥居とみなし、真清田神社が元来大神神社の神をまつっていたという論拠にしているが、これには批判の余地もある。
『真清探桃集』巻之第一によれば、真清田神社の社殿を建てた時、鳥居形の雲が出現して社殿の後ろに降り、3基の鳥居になったという。
著者の佐分清円いわく、昔は社の後ろに三の鳥居があり、後世悉く亡びて今は僅かにその遺跡が残るといい、諸社が社の前に祠を持つのに対し、真清田神社が社の後ろに鳥居を持つのはこの由縁によるものと述べている。

そのような3つ鳥居に囲まれるように、1基の祠が描かれている。この土壇上の小祠こそが、現在も土壇上に建つ三明神社なのか。

これについては、真清田神社史編纂委員会編『真清田神社史』(1995年)において、三明神社の歴史がある程度研究されている。
それによると、『真清田神社古絵図』に、本宮の西側、西神宮寺の北に宝形造の寺院風の建物が描かれており、これが三明神社であることがわかっている。
この建物は享徳4年(1455年)に火災で焼失し、佐分清円『真清探桃集』によると、この時点で三明神社の社殿は廃絶したという。
そして、社殿焼失後は本宮の内陣に遷御したことが、江戸時代における本宮正遷座の行列の記述からつきとめられている。

つまり、もともと三明神社は土壇の上にはなかったのである。

三明神社の社殿は復興されることのないまま戦後を迎えたが、平成に入り、「古くからの由緒に因んで、平成五年三月に本殿の真後に再建された」(687頁)という。

この「古くからの由緒」というのは何か、思わず深読みしてしまう。まるで土壇上に三明神社がまつられていたかのような記録があるのか。
しかし実際はそうではなかった。別の頁を読むと、「古来単独の摂社として祭られてゐた」(853頁)という意味で独立の社殿を設けなければならないという趣旨であり、土壇上が元来の鎮座地であったという意味ではなかった。

では、結局、土壇の位置に描かれた祠の正体とは何なのか。
『真清田神社史』には僅かに言及があり、これが「摂社」の1つであり、かつて四別宮八十八末社あったといわれる多くの摂末社が衰微した一例だという。しかし何の摂社までかは触れられておらず、濁されている。

山口恵三『尾張一の宮私考―真清田神社七不思議―』(1995年)においても、この本殿裏の摂社について言及しているが、「長円形のやや高い土地の上に建てられており、真清田神社にとって重要な神であったに違いない」が、どの古文書にもこの摂社についての説明がないことからお手上げ宣言をしている。

三明神社は先述の通り西神宮寺の北に描かれているので三明神社でもない社であり、八十八末社の鎮まる場所からも外れているので、名が伝わっていない祠となってくる。
土壇の位置に描かれた、この祠の正体は不明なのである。
ここにおいて、土壇の上にまつられていたという神体石をまつる覆い屋としての可能性も捨てきれなくなる。


遠山の話に資料性はあるか


そもそも、真清田神社がまとめる『真清田神社史』には、土壇のことは触れられているのか。
全文を読んでみたが、三明神社が「本殿背後北門脇の浄地に着工された」(854頁)と一言触れられているだけで、土壇が浄地であることはわかったが、土壇そのものの存在や、三明神社をあえてそこに設置した理由は触れられていない。

そして、この『真清田神社史』の本文編と資料編で一番注意して追っていた字は「真清田弘法」の5字だったが、これもついぞ1つも見つけることはできなかった。
真清田神社の記録の中からは、土壇と真清田弘法の話は完全に除外されていると言って良い。まるでキワモノの話か、遠山の聞いた話が創作話であったかのようである。

遠山の話も、誰かから又聞きしたあやふやな記録であり、この証言がどれほど正確を期しているかは批判的にみないといけない。

土壇の話は遠山正雄の話からしか今のところ出てこず、『真清田神社史』『真清田宮御縁起』『真清探桃集』にも登場しない。ただし、それと同時に、真清田神社本宮の神体が何にあるかについても読んだ限りでは記述を見つけられなかった。

では日泰寺からの当時の(混同される前の)詳細な記録は残っていないのか。さらに望むなら、遠山以前に真清田弘法の話について触れた文献はないのか。もはや、 それを探さないとこの先の結論が出てこない現状となっている。

まとめ


本石は、様々な文脈が絡み合って複雑化しているので、下記の簡単にこれまでの検討の結果を整理したい。

・水精石・・・『真清探桃集』に記された神宝の1つで、宝暦年間の神宝目録には水晶石の名前で記録されている。弘法大師の雨乞いで落命した龍の神体石で、弘法大師が奉納したと伝わる。真清田神社の神庫に収蔵されていたが、明治時代の神仏分離のため明治2年(1869年)に流出する。龍神石と名を変えて覚王山日泰寺の八十八ヶ所開山記念堂にはじめ(少なくとも昭和4年8月よりも以前の話)安置され、その後昭和5年(1930年)1月に本坊位牌堂に移された。その後、熱心な信者の働きかけで日泰寺境内の池に浮かぶ小島に神殿が造営され、今度はそこにまつられた。そして平成元年、日泰寺から真清田神社へ返還された。現在は真清田神社境内社の八龍神社に安置されている。

・三種の名玉・・・三明神社の神体。室町時代に社殿焼失後は本宮内陣中壇に移された。明治時代の神仏分離で流出したかどうかは不明で、今も真清田神社の本宮内にあるのか、再建された三明神社の中にあるのか、流出し所在不明なのかはわからない。

・真清田弘法・・・遠山正雄が聞いた話では、本宮背後の土壇にまつられていたという真清田神社の神体石。日泰寺の看板では弘法大師の念持石であり、二大竜王の神体石という。廃仏毀釈のため真清田神社の手を離れ、日泰寺境内にて真清田弘法としてまつられる。昭和8年(1933年)の時点では、年に一度虫干しの時だけに開帳される存在として真清田弘法がまつられていたことが遠山正雄の記録にある。


(1)「水精石と真清田弘法は別個の存在である」説

「弘法大師が奉納した龍の神体石」で「真清田神社から日泰寺へ流出した」という意味で、水精石と真清田弘法は酷似していることは繰り返し述べてきたとおりである。

この両者を同一物と即断できない1つ目のポイントは、龍神石は神庫所蔵で、真清田弘法は土壇にあったという点である。ただし真清田弘法が土壇上にあったと述べるのは遠山の話だけであり、日泰寺看板には流出前の場所は特に書かれていない。遠山の話に誤りがあり正しくは神庫にあったと仮定すれば、こちらの差異は解消できる。
しかしそれ以上に同一物を疑わざるをえない第2ポイントは、水精石は日泰寺の八十八ヶ所開山記念堂→位牌堂→池内の小島へ安置されたのに対し、真清田弘法は位牌堂ではない、境内の一画に独立して祠内安置されている点。

同一物でないとしたら、水精石は真清田神社に戻ったのに対して、真清田弘法は今も日泰寺境内の祠の中に安置されていることになる。
今も真清田弘法が現地に祠として存在し、世話人が時折お経をあげている現状の様子とも矛盾しない。日泰寺職員も真清田弘法の祠の中身は見ていない。真清田弘法の現地看板に、真清田弘法が龍神石であると一切書いていないことにも合致する。
つまり、水精石と真清田弘法という、類似した伝承を持つ、2つの別個の石があったということになる。


(2)「水精石と真清田弘法は同一物である」説

逆に、水精石と真清田弘法と同一物とみなすもう1つの可能性も提示してみよう。

遠山の話を是とするならば、 昭和8年秋の時点で、真清田弘法が石であるという話が伝わっている。
水精石が日泰寺に移されたのは、少なくとも昭和4年8月以前である。

水精石が最初は日泰寺の八十八ヶ所開山記念堂、そして位牌堂に安置され、その後、すぐに真清田弘法として外に移されて独立してまつられるようになったという可能性だ。
想像を豊かにして、このような流れを描き出してみよう。

昭和4年8月以前に、長谷川鍬次郎が日泰寺の八十八ヶ所開山記念堂に水精石を納める。この時までに、龍神石に名前を改められている。

昭和4年8月初旬、森徳一郎が龍神石の存在を聞きつけ、一度日泰寺に足を運ぶが、長谷川が鍵を持っていて長谷川の許可がないと拝観できないことを知り、一旦あきらめて帰る。

昭和5年1月、長谷川が龍神石を八十八ヶ所開山記念堂から本坊位牌堂内に移設する。

昭和5年2月、森徳一郎が長谷川に願い出て、位牌堂の厨子内に安置された龍神石を拝観する。

その後、昭和5年~昭和7年の間に龍神石は位牌堂から移され、日泰寺境内端の祠へ真清田弘法としてまつられる。

昭和8年秋、遠山正雄が真清田弘法の話を聞く。なぜかその時点で、土壇から流出した神体石という話に盛られる。

昭和58年、3名の女性たちの活動によって日泰寺境内の池内の小島に神殿が造営され、真清田弘法の中に置かれていた龍神石を、そこに移設する。

昭和61年、龍神石は真清田神社に返還され、平成元年、八龍神社の神体石としてまつられる。

以上の流れはすべて、すべての石が同一物であると仮定した場合の推測である。
昭和5年から8年の3年間という短い期間で、位牌堂にあった龍神石が真清田弘法へ移るということがあるのか。
また、その間に遠山へ伝わる話が、そこまで元の事実から変化してしまうものなのか。
さらに、真清田弘法の現地看板には水精石・龍神石の記述が一切ないこと。位牌堂から移された旨も書いていないこと。二大竜王(真清田弘法)と八大竜王(八龍神社)の違いは許されるのかなどの疑問が残る。

さらに気にかかるのは、森徳一郎が昭和10年に書いた「郷土史談(三二) 真清田神宝流出記(5) 十六 龍神石」の記事の中でさえも、「真清田弘法」の五文字が一度も出てきていないということ。
昭和5年~昭和8年の間に龍神石をまつる場所として真清田弘法ができたのなら、昭和10年に記事を書いた森から、真清田弘法の名称ぐらい出るものではないのか。

しかも森はこの記事で、龍神石が「将来鎮守として、改めて境内適当の場所に社殿を築いて奉祀する方針である」と書いている。ということは、昭和10年時点では龍神石はまだ位牌堂の厨子の中と考えるのが妥当ではないか。
さらに言うなら、昭和39年の『真清田神社江戸時代の神宝と流出』でも、森は龍神石が位牌堂の中にあるという記述のまま抄録しているのだから、昭和39年時点でも龍神石は本坊位牌堂内にあったという可能性が高い。
本坊奥深くにあるからこそ、後年、3名の女性(この方々の詳細情報もよくわからない)が、日泰寺境内の池に浮かぶ小島に神殿を設ける運動を起こしたのだという流れも自然に肯ける。

昭和10年の森の記事と同時期資料である、昭和8年に遠山正雄が記した「尾張地方のイハクラに就いて」の中には、真清田弘法の名称がすでに登場しており、年に一度、虫干しの折だけ開帳されるとの話を載せている。それより後の、森の記事に真清田弘法の名が出ないのはなぜなのか。
一方、遠山論文の方では、龍神石・水精石などの名前が一度も出てこないのも疑問である。ただ、遠山は奈良県大神神社神官であり、自らのイワクラ調査の一環で真清田神社の歴史を表面的にかじったにすぎず、真清田神社の神宝目録まで詳しくは知らなかった可能性が高い。
だから遠山サイドから龍神石・水精石の名前が出ないのはまだ理解できる。しかし、真清田神社および一宮市郷土研究の碩学である森徳一郎サイドから、真清田弘法の名が上がらないのは異常である(森は愛知県史・一宮市史の編纂委員でもある)。

繰り返しになるが、龍神石が現在、真清田神社境内の八龍神社に返還されたというのに、日泰寺境内に現在も真清田弘法の祠がまつられているという事実は、何を意味するのか。

いずれにせよ、現状では性急な結論を出すことはできないので、両説を提示しておき、今後の調査課題としたい。新情報があれば本項を改訂したいと考えている。
その場合には、根拠のない主観や固定観念を当てはめず、あくまでも文献史学的検討、民俗学的聞き取りに基づいて判断することが重要だ。

遠山の聞き取った話が創作話と確定できない限り、本殿裏の土壇に神体石がまつられ、それは真清田弘法に名前を変えたという流れを無視することなく、検討し続けていかなければならない。


神水舎の御神體について


真清田神社境内に神水舎があり、その中に「おもかる石」と石棒状の金精が安置されている。金精の安置台には「御神體 鑿井の折聖地より発掘された」との由来が彫られている。

井戸を掘りだした時に見つかったということなので、掘り出した場所は井戸を湧き出させた現在地あるいは境内の湧水地であり、土壇の神体石とは別の存在である。真清田神社の地中に埋もれていたのであれば、これまで触れた真清田弘法のストーリーとも交わらないだろう。
自然石を金精に見立て、石に神性を見たという意味で普通名詞としての御神體の名を冠したものだと思われる。


2016年12月1日木曜日

平津豊『イワクラ学初級編』(2016年)書評

イワクラ(磐座)についての最新書となるので即購入しました。


著者の平津豊氏は、イワクラ(磐座)学会理事です。

正式な書籍タイトルは『ギザの大ピラミッド、ナスカの地上絵より精緻!地球最古の先駆け文明【イワクラ学初級編】縄文の壮大なる巨石モニュメント』(ともはつよし社、2016年11月刊)

長い(笑)
平津氏のブログ(10/30記事)を見ると、キャッチコピーは出版社がつけたそうですが、書誌情報泣かせですね。

ブログに先行公開されていた下の目次に惹かれました。
  • 「磐座」という言葉
  • 「磐境」・「神籬」という言葉
  • 「神奈備」という言葉
  • 「石神」という言葉
  • 「磐座」の分類
  • イワクラ(磐座)学会の定義
イワクラ(磐座)学会の最新定義も気になっていたので、この本で私自身のイワクラに対する考えもアップデートしておきたいと思いました。

用語解説テキストとして


まず、磐座・磐境・石神などの各用語については、先行研究を含め、詳しく調べられています。私も取り上げられていました。

表紙デザインとタイトルは、一歩引いてしまうぐらいのインパクトがありますが(私は損だと思っていますが)、用語解説は独自解説ではなく先達の積み重ねをなぞったもので、初級編に相応しい内容です。
イワクラ学会が2011年に刊行した、渡辺豊和編著『イワクラハンドブック』(イワクラ学会)にも同種の用語解説がありましたが、本書の方がより学史に沿った内容だと思います。

磐座・磐境・石神の用語の成り立ちと意味の違いを掴むために、イワクラ学会の教本テキストとして活用されていいのではないでしょうか。

イワクラの定義について


さて、本書が提示するイワクラの定義について、注目したいのは以下の記述です。

「エジプト、イギリス、南米などに存在した巨石文明が古代の日本にも存在したのではないか、という考えがイワクラ学会の根底にあります。 」(同書より引用)

学会の中でこういう共通認識があるのですね。
その根底があると、予め期待している結論のために、目の前の事象がすべてその方向へ積極的に評価されていってしまうのではないか、という危険性を感じてしまいました。

「この壮大な考えに対して『磐座』という言葉では、あまりにも窮屈なので、神の依り代としての岩石や信仰対象としての岩石を『狭義のいわくら』として、漢字で『磐座』と表現し、人工的に組み上げたり配置されたりした岩石を『広義のいわくら』として、カタカナで『イワクラ』と表現することにしました。」(同書より引用)

それまで石神・磐座を並列的に紹介しながら、なぜその2つを「狭義の磐座」と「磐座」でまとめてしまい、かつ、それ以外の岩石も含めた全体をまたもや「イワクラ」でくるむのか、先行研究を踏まえて導かれる論理としてはやっぱり厳しいと思ってしまいます。

たぶん、一度「イワクラ」を使ってしまった手前、後戻りできないのだろうとは思いますが・・・

理論や枠組みのクラッシュアンドビルトは、学問の常でもあるので、私なら英断します。
(私はかつでの枠組みである岩石祭祀学も聖石概念もつぶしました。分類も何回もぶっ壊して、再構築する作業に嫌になりながらも、今の考えに至っています)

イワクラの分類方法について


平津氏が提示する「イワクラ」の分類は次のとおりです。

A 神の依り代
 1 山上磐座の前で祭祀を行なう時代
 2 山上の磐座より離れ麓に社を建てる時代
 3 人が多く住む場所に神社を建てる時代
 4 山の中の磐座が忘れ去られる時代
B 古代の天文観測装置
C 古代の道標(ランドマーク・シーマーク)
D 古代の通信装置
E 古代の測量基点
F 結界石
G モニュメント

イワクラ学会会長の渡辺豊和氏が前掲書『イワクラハンドブック』で示した分類を元にしたものだと思います。
基本は、機能の違いで分けた分類となっています。

Aの「神の依り代」に、狭義の磐座と石神が収納されています。なぜ石神も「依り代」扱いとして一括されてしまうのか、私には分かりません。
先行研究を振り返った意味が、生かされていないのではと思います。

また、Dの通信装置やEの測量起点、GのモニュメントはCのランドマークとも言えるのではないかと思いますが、おおむねB~Gが狭義の磐座ではない「広義のイワクラ」と呼びたいグループになるのだと思います。
祭政一致の古代において、天文・通信・測量が自ずから祭祀要素を含んでいると仮定したら、祭祀の中で実用的な機能を担った岩石という点で、私の機能分類ではBE類型(祭祀遂行上必要な利器)に一括されます。

機能分類に見える中で、Aの「神の依り代」だけは、時代による分類基準も差し込まれています。
1つの分類に、2つ以上の物差しを入れると、重複や矛盾が生まれる危険性がありますが・・

時代区分については、すべてがこの A-1 → A-4 の順番と言い切れるのか、研究され尽くしておらず、批判の余地があると思います。

この分類に当たり、図版では山宮-里宮-田宮の構図が引用されています。この理論は柳田國男以来、古代祭祀を説明する仮説として流布されてきましたが、これは農耕民の山の神信仰であり、狩猟民・焼畑民など山の民が信仰する山の観念とは異なるとの指摘もあり、一面的な分類となってしまいます。
また、山宮-里宮理論では、時代的には里宮での祭祀が古く、山宮での祭祀が新しいという論理になりますが、この分類だと逆の使い方です。理論背景とかみ合わなくなるので、そこの説明が欲しいところです。

同じく、同分類の構築に当たっては奥津磐座・中津磐座・辺津磐座の考え方も取り入れられていることが図版から分かります。
この奥津・中津・辺津という概念にも批判点があります。神体山の研究では山麓祭祀が時代的に先で、これを「拝む山」と定義しています。一方、山中祭祀は後の時代になってからで、これを「参る山(登る山)」と定義づけています(池上広正「山岳信仰の諸形態」 九学会連合編『人類科学』ⅩⅡ、新生社、1960年 ほか)。
特に、本書で例に挙がっている三輪山については、奥津磐座・中津磐座・辺津磐座は鎌倉時代以降の後出概念という文献上の指摘もあります。

以上のように、「山上磐座の前で祭祀を行なう」ことと、「禁足地概念」「拝む山・参る山」概念の間には矛盾が横たわっています。この課題を解決してからでないと、分類としてはっきり線引きしてしまうのは私は恐いです。

ただ私も、「禁足地概念」「拝む山・参る山」概念は絶対的な価値観ではなかったと思っていますが・・・
(山に立ち入ってその山の恩恵や聖性を感じることから出発する信仰例もあったと思う立場です)

「偶然では片づけられない」から「人の手で構築された」という論理について


平津氏は、イワクラが自然形成か人工造形かの基準について、次のとおり述べています。

「自然に形成される可能性があるからといって、人工的に造られた可能性が否定されるものではありません。自然に形成するには多くの偶然が重ならないといけないのです。むしろ、人が意図を持って造ったと考える方が自然ではないでしょうか。」(同書より引用)

うーん・・・。
人によって「私には自然には思えません」と答えたら終わりの理屈です。
でも、主観の言い合いになってはだめなので、共にこう考えていきたいです。

・技術の証明。水平移動と垂直移動の方法。工具の説明。
・同時期の遺物・遺構との比較。
・母集団と生活遺跡(集落)の特定。
・集団規模から考えて、その事業が可能な集団なのか。
・その事業を行った目的。


基本的に、人の手が「ある」か「ない」かという証明になるのですから、人工的であるかどうかは人工造形説を唱える人が証明しないといけないと思います。
私に限って言えば、私は人工説を否定する立場ではなく、人工説に説得させられるのを待っているというのが正確なところです。怪しい点をなくしてほしいです。

現在と古代の天文環境をシミュレーション・比較して、イワクラの建設年代を導き出す手法が盛んですが、もはやそのような段階ではないと思います。
「それは自然だよね」と言っている人たちを納得させるぐらいの、明らかな物証が求められています。

平津氏は「古代にそんな大きな岩を動かすことができる技術はなかったということで思考停止しているのです」「古代人は現在人よりも劣っているという間違った常識に捉われてしまっているのです」と述べますが、逆に私は自然の力を軽視しすぎではないか?と思います。
自然にはこの光景は作れない、人間だから作れる…。これは、自然の営為が人間の業より劣っているという発想で、これもその人が囚われている常識と言えそうです。

個人的には、世界中の奇岩・巨石を知れば知るほど、地球には自分の常識を軽々と飛び越える自然が存在するなあと思うものです。

エジプトのピラミッドやナスカの地上絵は、その規格的な造形から人為性が明瞭です。均等な寸法の石材を四角錐に積んだ石造物に、明らかに生物を模した絵に曲線と直線の使い方も規格的だからです。
日本でも大湯環状列石などは規格性があります。中心に石を立て、その周囲を同じ長さの石で同心円状に横に並べ、更にその周囲を丸石で囲うわけです。

それを踏まえて、金山巨石群や唐人駄馬巨石群、鍋倉渓や葦嶽山の巨石群を比較してほしいです。
これらの巨石群に、カルナック列石群、チチェン・イッツァのピラミッド、サクサイワマンの石組み、モアイ像と比肩しうるような「規格性」が本当に見て取れるでしょうか。

人為とは無縁なランダムさがあることを、日本のそれらの事例からはぬぐえません。

金山巨石群は、巨石の集まりを駆使して様々な方向に人間が行けば、色んな天文現象の観測ができるということは分かりましたが、観測方法にまとまりのない感があるのは、これが自然の産物だからかと思ってしまいます。
夏至や春分を観測するのが1ヶ所ではなく複数のポイントに分散し、そのつど人間の立つ位置や姿勢も変わり、その観測の仕方も日光の差込だったり岩石のどの位置に太陽が来ているかだったり、巨石の積み重ねを装置にしたと思えば巨石に線刻を穿つ方法になったりと、統一感のある設計規格はなく雑然としています。
人間の意味付けのしかたは無限大ですから、規格性がなければどんな力技でも意味付けができます。

金山巨石群だけではなく、海上に浮かぶ伊勢の夫婦岩や愛媛県の白石の鼻でも、二至二分に関する現象が観測できるという話があります。
あそことあそこがつながる、図形ができるというレイ・ラインの報告も続々入ります。この数年でどれだけのレイラインが見つかったことでしょう。
逆にそれは、偶然ではできないと人間が考えている常識の枠の外を、自然の営為が軽々と越えているだけなのではないかと、事例が増えるほどに思ってしまうのです。

こう思ってしまう人を、ぶっとばしてくれるような研究を待ち望んでいます。
私自身、中1でチャーチワードの『失われたムー大陸』を読んでハマって、高3まで『ムー』を愛読し、オーパーツと日本ピラミッドと神代文字と古史古伝の関連本収集に勤しみ、その追求の結果、肯定したくても客観性の乏しさに失望した過去を持つ人間なので、否定したくてしているんじゃないんです。
ロマンとか、こうだったらいいなというものとは切り離して、真剣に、歴史を考えたいだけなのです。

アカデミズムをそんな敵視しなくても・・・

「日本の考古学者をはじめとするアカデミズムは、これを認めていない。縄文時代に高度な文明があっては都合が悪いらしい。」(p77-78)

「考古学界等のアカデミズムからは攻撃されたようである。」(p102)

ところどころ、考古学界が悪者として登場します。
「アカデミズム」と呼ばれて批判の的にされることが多いのですが、同じく歴史を研究する同志なのですから、お互い協調できると良いですね。
陰謀論のように敵役を作るのは簡単ですが、実際のところ、考古学界はアカデミズムという一枚岩の秘密結社ではないですし。

むしろイワクラ学会も、会長を頂点として成り立つ組織であるかぎり、権威とは無縁の存在ではいられない。集団であるかぎり、そういうものだと思います。

考古学、意外と悪くないですよ。
特に考え方や方法論は、歴史学研究の中では最も石橋を叩いて歩く感じで、その慎重さが歴史に対して失礼ではないので、私は好きです。
毎日のように遺跡と遺物を目にして、地味な発掘も測量も実測も数十年行っている職人に、門外漢がイメージ先行でバッサリ切るというのも失礼な話です。

誰しも自分の専門を、専門外の人からイメージ先行で否定されたら、たまらないと思います。

縄文時代の生活の実情を知るために、センセーショナルな見出しが書いてある一般書ではなく、縄文時代の集落遺跡と遺物に関する論文集や報告書を読まれることをお薦めします。
今なら、リポジトリも各機関が豊富に公開しており、閲覧は楽です。何も隠されてはいないのです。
高度な文明があると都合が悪いといった議論ではないことを、知ることができると思います。