創作であるが、豊島与志雄という紛れもなく一人の人間が石に抱いた感情の発露である。
作者の意図があっても、読み手によって受け取る反応は違うはず。私も私のアンテナに反応したところをメモしておきたい。
狸石は、戦後間もなく焼け跡の町の片隅に立つ石である。
石の格好に特に目立つ点はなく、通行人で注意を向ける人はほとんどいなかったが、見様によっては狸が空を仰いでいるような風体に見えた。
狸石の周りは丸石で囲われていた。
ある夜、青白い火が灯り、亡くなったとある男が狸石の傍に姿を現す。
男は狸石を溺愛していたようで、狸石に声をかける。
――ほんとは、お前を買ひ取つて家の庭に据ゑたかつたんだ。
――お前も、空襲に堪へて、よくここにじつとしてゐてくれたね。
――無事にここに立つてゐてくれてること、つまりお前の存在が、それだけが、僕には大切なんだ。
そこに、もう一つ青白い火が現われ、死人のような感じの女が現われた。
男と女は目を合わせなかったが、男は狸石の肩にもたれ、女は狸石の根元にしゃがみ、狸石を挟んで会話をし始めた。
――あなたはやつぱり、あたしよりこの石の方を愛していらつしやるのね。女は、最後に一、二、三・・・と十を数えはじめ、それを五周繰り返しても男が追いかけてこなかったので、あきらめて立ち去ったのだと男に恨み言を述べる。
――この狸石に聞いてごらんなさい。
――この石のところまで逃げて来て、あなたが追つかけていらつしやるのを待ちました。けれど、いくら待つても、あなたは追つていらつしやいませんでした。
男も負けじと言い訳を述べる。
――いや、僕は追つかけて来たんだ。狸石が突然口を開く。
――お前は早すぎたし、僕が遅すぎたんだ。然し、この石はいつまでも待つてゐてくれた。
――ねえ狸公、お前は待つてゐてくれるね。千回でも万回でも十を数へてくれるね。
――十を数へるなんて、そんなばかなこと、わしはしないね。
男と女は黙り、月が雲がかり、青白い火がどろどろと燃えたと思うと、二人の姿は消え失せ、狸石だけが立っていた。
その数日後、狸石はだれかにどこかへ撤去され、整地された。やがて家を建てるために。
小説の最後は次の文でしめられる。
――狸石ももう人目にふれず、忘れられてしまふことだらう。
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