概要
大分県豊後高田市(旧真玉町)にそびえる標高458mの山。
山頂は北峰と南峰に分かれ、北峰頂上に「ストーンサークル(環状列石)」があることで知られています。地元でも名所の1つとしてけっこう有名なはず?
面白いネタとしては、作家の松本清張氏と考古学者の斎藤忠氏(静岡県埋蔵文化財調査研究所所長。考古学史の整理作業などで有名)が現地調査をしたという話があります。
その調査報告書『猪群山-山頂巨石群の研究-』(1983年、以下調査報告書と略)まで出ているところが凄い。
猪群山探訪報告
山頂に登るには、山の南側から登るルートと東側から登るルートがあるようです。今回はアクセスの容易な南側ルートからの登山を開始しました。
地元の方々の手入れがとても整っており、登りは急で狭道ですが迷うことなく快適です。山中各所に大小の岩石が散在しており、元々こういう岩が出やすい地質の山であることが分かります。
登り始めて約30分ほどで、中腹にある「常盤の巨石群」と名付けられた場所に到着します。
比較的大きめの岩石が群がっているエリアです。
登山開始から約1時間で南峰の山頂に到達。
「ストーンサークル」のある北峰よりも約10mほど標高が高く、ここが真の山頂な訳ですが、視界は森林に遮られ良好とは言えません。
この南峰を通過点として、さらに5分ほど歩くと北峰に到着します。
北峰頂上は樹木が刈り取られており、そのおかげもあり麓の眺めは南の山々から北の海岸線まで完璧です。
名前の付いている岩石は3体あります。
まず「ストーンサークル」のまるで入口門のように存在している「陰陽石」の2体。
写真の右側が陰石、左側が陽石になります。
これ自体は見た目から起因する呼称と思われ、特に陰陽石にちなむ伝説やいわれなどはない様子です。
残る1体は「ストーンサークル」の中心となると思われる「神体石」。
斜め上方に向かってそびえ立つ特異な立石形で、地表からの垂直高4.4mを計ります。
神体石の名の通り、いつからの呼称かは分かりませんが岩石には注連縄と紙四手が巡らされ、現状で信仰の中心にある岩石であることに疑いはありません。
神体石に伴う伝承には以下のようなものがあります。
- 山幸彦(ヒコホホデミ命)が竜宮から持ってきた「潮満つ玉」「潮干る玉」を神体石の上に置いたという。
- そのため、満潮時には神体石上部の窪みに水が溜まり、干潮時には窪みの水がなくなるという。
- 第25代仁賢天皇の治世、竜宮からやってきた童女が武内宿禰の9代目の子孫となる翁に連れられて猪群山に登り、神体石上部に溜まる水を飲んだところ産気づいた。生まれた子はヒコホホデミ命の再来であり、これを受けて山の中腹に神社が建てられたという(現・飯牟礼神社)。
- 雨乞いをする時は、佐伯市日向泊浦から汲んできた海水を神体石上部の窪みに入れる。と同時に南峰において、各家から持ってきた割れ木を集積させ、その中心に3本の竹(その内の1本は特に長くする)を立て、火焚きを行なう。最後の儀礼は昭和33年8月18日という。
- 窪みの水の中には金魚がいて、この金魚を見ると失明するという。
潮の干満、降雨儀礼、子宝安産を帯びる神格をここから見出すことができます。
神体石上部の窪みに関しては、調査報告書によれば実見したところそこまで明瞭な窪みではないと言います。
調査報告書によれば、神体石の根元にある板状の岩石の周りを清掃した際、土師器片2、大観通宝1(鎌倉)、仙臺通宝1(江戸)、寛永通宝3(江戸)、1銭銅貨2(大正)、5円銅貨1(昭和)を表採したとのことです。
土師器片2は接合可能で同一個体。底部径9cmの小形の盤形の土器と推測されています。
報告者の入江英親氏(当時 大分県文化財審議会委員)によれば、平安時代の頃に作られたものではないかとしています。
さて、肝心の「ストーンサークル」の構造ですが、本当に環状配置をしているのでしょうか。
調査では測量図までちゃんと作ってくれているので、まずはその図を見てもらいましょう。
現地看板より
実際の様子
こう見ると、全体として環状に見えないこともないが、整然とした配置になっている訳でもないという、何とも微妙なところ。
図面で見るとまだましですが、特に現地に立つと「環状」風な印象はあまりなく、岩石群が集中して群がっているというのみの印象の方が強いです。神体石の位置も岩石群の完全ど真ん中にはありません。
斎藤忠氏及び松本清張氏も、両人揃って大略「ストーンサークル・環状列石と呼ぶのは誤解を招く恐れがあり、適切ではない」と警鐘を鳴らしています。
斎藤氏の見解では「サークルという見方は、これらの点在するもののいくつかが、楕円形の整った区画内にある関係で、一種の錯覚にみちびかれているためとも考えられる」(調査報告書)と指摘を入れています。
図面を見ていただければ分かりますが、岩石群の周りを一周するように土塁と溝が走っています。
土塁は高さ約1.7m、その内側は溝状地形、その外側は犬走り状の平坦地形となっており、現在でもその状態は比較的明瞭です。
これは明らかに人為的な遺構であり、頂上の岩石群とそれ以外の空間を区画するものであることは確実です。
しかしこれの築造目的については明白な理由が分かっており、明治39年、この場所を山火事から守るため防火壁としてこれを作ったのだといいます。
ただ斎藤氏によれば、土塁には長さ80cmほどの岩石を積み重ねて築いている場所も見受けられ、もしかしたら明治の防火壁工事以前から「区画施設」が存在していたかもしれないという可能性を残しています。
ちなみにこの岩石群がある一帯は「オミセン」と呼ばれ、女人禁制の地だったと伝えられています。現在は自由です。
所見
猪群山の研究には、冒頭で挙げた調査報告書『猪群山-山頂巨石群の研究-』が欠かせません。
斎藤氏はこの中で、山頂巨石群に対して大きく7つの仮説を立てています。
いわゆる「無理やり1つの結論に絞らず、考えられる可能性を列挙し、後学の参考に供す」という方法です。
(1)古代人の巨石崇拝 説
(2)仏教信仰の霊場 説
(3)中世の砦 説
(4)以上の複合的なもの 説
(5)古代朝鮮文化の影響下にある祭祀場 説
(6)巨石の霊力で外部の賊・敵・邪を追い払うという宗教的要塞 説
(7)単なる自然石で全ては偶然の産物 説
(1)において、斎藤氏は鳥居龍蔵・大場磐雄・景山春樹・宮地直一各氏の研究を紹介し、立石という形状が鳥居氏の言うメンヒルに相当すること、大場氏の言う石信仰の条件に入る事例であること、景山氏や宮地氏の言う「神体山」の条件に猪群山が当てはまることなどを述べています。
以上のことから斎藤氏は(1)の可能性が最適かもしれないとは述べながらも、考古学上の積極的な証拠はないので仮説として挙げるというスタンスをとっています。
(2)の理由としては、天安年間(857-859年)に仏僧が猪群山に寺院を建立したという『飯牟礼神社縁起』の記述、国東半島では古代・中世に仏教文化が極めて盛行していた事実、神体石下の板状の石に隠れる形で平安・中世以降と見られる土師器片・古銭が見つかったことが時期的にも埋納方法的にも他の修験道遺跡と類似している点などを挙げています。
(3)は猪群山自体が麓に一番近い里山でありとりでとして絶好の場所であること、さらに巨石群のある北峰は絶好の眺望でありふもとの様子を完全に監視できること、自然の巨石を利用する山城が存在すること、土塁と溝が砦施設の可能性があることなどを理由とします。
ただし斎藤氏は「整った本丸・各郭や虎口等をそなえたものでなく、山砦的な、或いは、烽火台的な場としての頂上の利用」であっただろうことと「頂上の立石や巨石群は、この頃も、神聖なものとして、祈願の対象になったこと」を注意して記述しています。
(4)は(1)(2)(3)いずれもあったという複合遺跡説。
(5)は、イノムレの「ムレ」が古代朝鮮語で言う「山」の意を持つ可能性があること、古代朝鮮では農耕に関する祭祀が多く猪群山の雨乞い儀礼もそこから端を発するものである可能性があること、国東半島には渡来人が多く居住していたことなどを理由としています。
(6)は『豊後風土記』直入郡蹶石野条に、巨石に祈願することで賊軍を滅ぼしたという記述があることから、猪群山の巨石群がいわば宗教的な防御力を持った古代山城であった可能性を述べています。
斎藤氏は特に、白山江の戦い以後に造られた神籠石式山城・水城的なものを考えているようです。
(7)は、以上の可能性を否定し、これは自然石のムレであり、これにまつわる伝承・行事の類も近世以後のものであるとする見方です。
神体石の下部から見つかった古銭や土師器片もたまたま少数の人々による偶発的な行為(しかもそれは必ずしも祭祀の痕跡とは考えない)の産物と見る解釈です。
1つ1つが順当であり、豊富なソースに基づく仮説です。
現在もどれか1つに絞るという段階までは至っていないと思われ、(7)はさすがにナイと言いたいですが、基本的にはどれもありだと思います。(4)の複合遺跡説なんて最も万能でツッコミ不能なスタンスでしょう。
以下、私が思ったことを幾つか。
土師器片の製作年代と古銭の奉納時期
入江英親氏によると、土師器片は平安時代の頃ではないか、古銭の中で大観通宝については鎌倉時代頃の奉納ではなかったかと推定しています。
しかしこの土師器片は底部の一部が残るだけの小破片であり、特に年代を決定するような製作特徴なども見当たりません。これの製作年代を推定するのは難しいと思われ、平安時代ではないかという見立てにあまり明確な根拠はないものと思われます。
また大観通宝についてですが、これは元々平安時代頃に中国宋で鋳造された銭貨で、日本には鎌倉時代から輸入・使用されるようになりました。このことから鎌倉時代の奉納という推測がされていますが、私が気になるのはこれらの遺物の埋納状態です。
土師器片・大観通宝と同時に見つかった遺物は江戸時代の古銭4枚と、大正時代の1銭銅貨、さらに昭和の五円銅貨(いわゆる現行の1つ前の楷書体五円銅貨)です。
発見場所が異なっていたり、見つかった地層が違うとかしていれば問題は何もないのですが、これらの遺物は「同時に」見つかっています。
つまりこれらの奉納は「同時期(つまり一括遺物の最終時期である昭和)」の可能性があります。さすがに土師器片に関しては「時代的には比較的古いものではないか」と考えられるような状態であることから、全ての遺物が同時期に一気に奉納されたということはなく、正確な表現を用いるならば「再配置」の可能性があるということです。
大観通宝は鎌倉時代に通用していたということですが、銭貨に関しては「伝世品」の可能性があることも考慮しなければなりません。
江戸あるいは大正あるいは昭和の時代になってある人が現行貨幣と共に、自分が持っていた「貴重な古銭」としての江戸の寛永通宝やこの大観通宝を一緒に捧げたという解釈も、できないことはないのです。少々ひねくれ解釈ですが。
この「一括発見状態」であることから、土師器片が平安の奉納で、大観通宝が鎌倉の奉納であるという推定に対しては、鵜呑みにすることなく少し批判的に見ていく必要があるのではないかと思われます。
岩石群は人為配置か自然のままか
調査報告書によれば、全体の環状配置については自然の営為による可能性が高いことと周辺の土塁・溝によって錯覚しやすいという点を指摘しています。
私も思うのですが、重要なのは、環状に配置しようとした意識が、猪群山の配置状態には見られないこと。
ストーンサークルを造ろうという意図があったのならば、他の環状列石遺構に見られるような計画的配置、秩序や規格性のある配置がなされて然るべきだと思うのです。
これに対する反論の方法として、「後世に破壊された」という見方があると思います。
しかし現状で残る岩石に立石形のまま残るものがあり、これは石が立つという状態であることから「後世の破壊」が加わっていないとみなすことができますが、こういった立石を抜き出して配置を見てみても環状とは言えない状態です。
また「破壊」とは簡単に言いますが、これほどの巨石を少し動かすだけでも大仕事なのに、環状配置を崩すほどに位置を改変しようとすれば、途方もない労働力です。
しかも、中心的存在である神体石は破壊しないままなのでしょうか(直立から斜めに倒したという見方もできるでしょうが、そこまでやるなら完全に倒せよと思うのが自然)。
さらに破壊のためにこれほどの巨石を動かしたはずなのに、地表面にその痕跡を全く見出さないというのも、いくら自然の草木の繁茂力によって地表面がならされたと考慮しても、少々疑問符です。余計な仮定が多いですし、このことから後世破壊説はナンセンスだと思います。
あえてあるとするならば、後世山城に転用された時、巨石の位置に多少の改変が加えられた可能性でしょうか。
しかし現状の配置を見る限り1つ1つの巨石に「城・砦として何らかの意味がある配置」は見出せません。
ただし陰陽石にだけは、まるで山頂に至る「門柱」的な意味を感じます。
この点に関しては調査報告書でも、唯一人為的な配置を感じるとの所見を記しています。
片方が単体の岩石であるのに対し、もう片方が陰石的に2つに割れているというある種「非対称」な状態を、どのように考えるかが評価の分かれどころだとは思います。
砦・山城の門として置くのならば、もう少し同質の岩石を揃えるのではないかと思う部分はあります。一方、門に霊的な力を込めるため「陰陽」を示す形状の岩石を揃えたとみなす解釈もできなくはないので、どちらとも言い難いところ。
それよりも私は、中心の神体石にこそ人為性を感じます。
調査報告書では特に触れられていませんが、神体石の立石状態を保つため、さながら下にかませ石の如く岩石が存在している辺り、人為的な力が入っているのではないかと感じます。もちろん自然の営為によるものと見たほうが、より神聖性は感じます。
以上のことから、私は人為の可能性を消すわけではありませんが、個人的には全体として自然の営為によるものと見る立場です。
岩石群の性格
調査報告書の中で、斎藤氏は大場氏の研究に触れ石神・磐座・磐境の例に山頂巨石群が入る可能性を示唆していますが、具体的にどれとは言っていません。
山頂巨石群は石神・磐座・磐境、あるいは他のどういった機能を持つ事例と言えるのでしょうか?
今一度、神体石に関する伝承を再掲してみます、
- 山幸彦(ヒコホホデミ命)が竜宮から持ってきた「潮満つ玉」「潮干る玉」を神体石の上に置いたという。
- そのため、満潮時には神体石上部の窪みに水が溜まり、干潮時には窪みの水がなくなるという。
- 第25代仁賢天皇の治世、竜宮からやってきた童女が武内宿禰の9代目の子孫となる翁に連れられて猪群山に登り、神体石上部に溜まる水を飲んだところ産気づいた。生まれた子はヒコホホデミ命の再来であり、これを受けて山の中腹に神社が建てられたという(現・飯牟礼神社)。
- 雨乞いをする時は、佐伯市日向泊浦から汲んできた海水を神体石上部の窪みに入れる。と同時に南峰において、各家から持ってきた割れ木を集積させ、その中心に3本の竹(その内の1本は特に長くする)を立て、火焚きを行なう。最後の儀礼は昭和33年8月18日という。
- 窪みの水の中には金魚がいて、この金魚を見ると失明するという。
竜宮伝説とヒコホホデミ命の聖跡という位置付けがまず可能です。
また、神体石に溜まる水を以て「潮の干満を見る儀礼」「子宝安産」となることから、祭祀儀礼を執り行うための装置的な役割の強い岩石と言えます。
現状では「神体」としてまつられています。
「神体」という名前だけ見れば「神が宿るための体=依代」ということであり磐座的な意味合いを持つ言葉ですが、現在の人々の認識の中では石神・磐座の区別は付けられていないと思います。
ただ、雨乞い儀礼の時に石の窪みに海水を入れるため人々が石によじ登る点や、調査の時にも石の上へ登ることを特に咎められなかった点などを考慮すると、やはり神体石は神そのものであるというよりも、神が祭りの時に宿る施設という考え方の方が妥当なのでしょう。
以上の点から、神体石は「聖跡」「儀礼装置」「依代(石神的側面もあり)」の3つの側面を見せる岩石祭祀事例として位置付けをまとめたいと思います。
そして、この神体石を中心として広がる岩群は、空間的に「神域」を形成する磐境でしょう。陰陽石もこの磐境の一角を形成する施設です。
なお、「常盤の巨石群」については、明確な伝承・記録の類がないので性格分析は困難です。
おわりに
猪群山は、数々の「巨石遺構」と呼ばれる場所の中でも、考古学者の実地調査が入り、その報告書までもが刊行されている貴重な例です。
正式に遺跡となっているわけではなかったのに、わざわざ斎藤忠氏がやって来て1冊の本に仕上げたというこのモチベーションは、単に地元の人や松本清張氏の依頼によるもの、というだけではなさそうです。
斎藤氏は調査報告書の冒頭で「学問という名のもとに、これらの巨石群を環状列石となし、墓地と考え、さては『卑弥呼の墓』説までもあらわれたこと」などに深い危惧を覚えたことから、「その基本的な調査をなし、学問の立場からの正しい批判を試みることも、我々研究者にとっての責務」と考えたことを吐露しています。
そして報告書中では、ちゃんと卑弥呼の墓説、ゾロアスター教説、超古代文明説に1節を設け紹介しています。
これらの説に対して斎藤氏は「批判の限りではない」とノーコメントでしたが、できれば具体的な批判を加えて欲しかったところです。
そして報告書末尾では「学問から飛躍した考えは是正されなければならない。むしろ、これらの考えの横行することは、地元において、ながく伝承してた純真無垢な信仰への冒瀆ともいわれないだろうか。今後、学問の立場から正しく判断することによって、猪群山の真価は一層高まるものであろう」と筆を置いています。
この考え方ですよ。
この考え方がもっと考古学の世界に普及することを切望します。
どうも考古学者の中には、こういう世界へ手を伸ばすことが「ばかばかしい」「必要ない」「常識で考えれば分かるだろそんなもん」といった空気で占められている感があります。
考古学の人間が介さないところで「考古学的」と印象付けられる研究がなされている、そのために考古学なるものに対して大きな誤解が生まれる可能性がある、この状態が決して正常な状態ではないことになぜ気付かないのでしょうか。
そして、当人は無意識で悪気はないのでしょうが、ある人が「とんだ話」を作ってその説が広がることで、それ以前からの純粋な信仰の在り方というのはその影響を受け変節し、やがては影に埋もれるわけです。世間一般の中で「とんだ話」が定着してしまった時、私は学者・研究者の方の責任というのは少なからずあると思います。これも研究者として重要な仕事でしょう。
このことの危険性及び重要性を、すでに1983年の時点で指摘していた斎藤忠氏の視点には驚かされるばかりで、軽く考えずに傾聴するべきものがあるでしょう。
また、この調査には航空会社の空撮写真などもあり、かなりの費用が投じられたことと思います。
発行者であり呼びかけ人である「猪群山を有名にする会」は猪群山巨石群の知名度を高めようと各方に力を貸してもらうよう頑張ったようですが、今ではこの組織はどうなっているのでしょうか
。松本氏は全国この山の存在を知らしめるべきだとし、斎藤氏はこの山の更なる詳細な調査研究がなされるべきと訴えかけましたが、現状を見る限り、どうやら希望した通りにはいっていないようです。
しかしいたずらに知名度だけが上がり、観光資源としての側面ばかりが強調されると、斎藤氏や松本氏が危惧していた「ストーンサークル」的なイメージ操作が広がるばかりで、必ずしも猪群山のためになったかとは言えません。
実際猪群山に登りましたが、地元の有志の方と思われる整備がとても行き届いていて、気持ちの良い登山をできました。もしかしたらこれぐらいの段階が一番良いのかもしれません。学術的なものに変に観光実利が絡むと、あまり良い方向に進んだ試しがないからです。
(2007年5月13日 旧サイトの記事を再掲)