2017年3月22日水曜日

金丸八幡神社の列石(徳島県三好郡東みよし町)


徳島県三好郡東みよし町中庄1187

概要

正式には八幡神社だが、全国の同名神社と区別するため、金丸八幡神社・中庄八幡神社・三加茂八幡神社などの通称がある。

神社の境内を、387本もの石の列が取り囲んでいる特異な神社として有名である。磐境・皇護石・建石など色々な呼び方が通っているが、本項では列石と表記する。

使われているのは、この地域で取れる緑泥片岩という緑色を帯びた岩石である。
板状に割れる摂理を利用して、そのまま石を板のように立てて境内に並べている。

大きいものは、地表面から高さ1.5m以上、幅1.2m以上、厚さ30cm以上に及ぶものもあり、平均でもおよそ高さ1m前後の板石が多い。。
現在でこそ387本だが、往時はもっと多くの板石が社域を巡っていた可能性がある。

金丸八幡神社の列石
2003年撮影。2016年に隣接するトイレの工事があった時に、列石の一部が破壊されたという話を聞いた。文化財に登録されているというのに・・・。

金丸八幡神社の列石
2003年当時

金丸八幡神社の列石
2003年当時


『神社寺院明細帳』に記された金丸八幡神社の由緒


大正6年(1917年)に三庄村役場が『神社寺院明細帳』を作成しており、その中で中庄八幡神社の由緒がまとめられている。
以下、重要と思える部分を箇条書きにしよう。

(1)当社の祭神は八幡神社ということもあり、応神天皇・神功皇后・武内宿禰の三柱を祀っているが、今回の調査により、大巳貴命(オオナムヂノミコト)の神名を刻した板本を発見した。

(2)本殿の中には石体(=岩石の御神体)があったが、上述した板本の存在から、この石体が大巳貴命と認められる。

(3)当社の南にある金丸山の山中に、金丸神社がある。祭神は応神天皇・神功皇后・武内宿禰であり、当社に遷座・合祀する前に鎮座していた旧社地である。旧社地の字名は明ノ堂という。

(4)以上のことから、もともと当社は大巳貴命を祀っていた神社であり、明ノ堂の金丸神社が現社地に遷座・合祀して以降、当社を金丸八幡神社と号するようになったのである。中庄(金丸村)・西庄・東庄(毛田)を金丸三ヶ庄と呼び、この三ヶ庄の郷社であることから、金丸神社ともいう。

(5)また、当社を建石神社ともいう。古老の伝えるところによれば、建石神社は横田神社と称す延喜式内社で、金丸三ヶ庄の内の西庄村で祀られていたという。それを、古く、現社地に遷座したのだという。旧社地は今も横田という。

(6)当社には建石の群れがある。今、地上に現れているだけで380以上ある。社地の内外において、建石があると思われるような場所を地中まで掘ってみたら、いずこからも建石が出てきた。そのため、地中に埋没している数がどれほどあるのかは分からない。また、建石の根の部分・底の部分は深く、地中2m近くまで掘っていっても、建石の幅・厚さはますます大きくなっていっている。なので、この建石の極限の規模を窺い知ることはできない。実に奇妙と言えよう。

(7)当社の東に別当神宮寺がある。

(8)当社の西に200m強行くと、岩神の社がある。御供泉といわれる清水に接して岩がある。だから岩神という。また税神ともいう。

(9)元来、当社の社地は約600×600m程の規模を持ち、専用の田畑も約500×500m程持っていた。しかし、天正年間(1573~1592年)に長宗我部氏が阿波国へ乱入し、その兵火により社殿・別当神宮寺、ほか数々の宝物なども焼失した。その後、蜂須賀氏が阿波国に任ぜられると、当社地は僅かに約50×50mの範囲を除き、全て租税を課せられることとなった。慶長11年(1606年)になると祭典や神幸が郷民により再興され、他郷から民衆が集うほど祭りが盛大化したので、蜂須賀家より兵卒8名が毎年差し向けられて、警備の中で祭りが執行されるほどだった。

(1)のポイントは「八幡神社であるのに、大巳貴命の神名を刻んだ板本が見つかった」という事実。一見単なる八幡神社に見える金丸八幡神社が、非常に複雑な歴史的背景を持っていることの現れといえる。
(2)では、神社の本殿の中に石の神体があったということが報告されている。
本殿の大きさや「石体」という記述から推測するに、これはおそらく持ち運びのできるような小さめの石であったと思われ、執筆者がこれを「応神天皇ら三柱」ではなく「大巳貴命一柱」とみなしたことから、1体(1個)であると推測される。

そして(3)から、もともと応神天皇ら三柱を祀っていた神社は、別の場所にあったということが分かる。元来の当社は大巳貴命を祀る所で、それが金丸山にあった金丸神社の遷座・合祀によって、応神天皇ら三柱を祀る八幡神社になったという流れが読み取れる。

ちなみに、三加茂町にはこんな伝説が伝わっている(『手書き 三加茂百話』1986年より)。
大略「今ある神社は、昔は山の上の大石であり、人々は山に登って大石まで参っていたが、正直遠くて体力的にも辛いと感じるようになった。するといつの間にやら、山の上にあった大石が麓の長善寺に降りてきたので、以降、山麓でお参りをするようになった」という。

伝承なので、この「神社」「大石」がどれを指すのかは分からないが、大石が降りてきた長善寺は、金丸八幡神社のすぐ南にある別当神宮寺に当たる。
伝説なので事実を忠実に反映しているとは限らないが、村にこのような伝説が伝わっているのは、元々の信仰対象が山の上にあり、それが時代を経るにつれ、山腹での信仰対象の祭りに転化してしまったことを推測させる。

(5)は、金丸八幡神社が建石神社と呼ばれていた故を説明するものだが、ここでも「別の場所にあった神社が遷座・合祀した」という話が出てくる。

(6)によれば、「建石」は1917年の時点で「今、地上に残っているだけで380以上ある」とのことなので、大正時代の頃には現在の状態と同じ状況だったことがうかがわれる。

しかし、地中にはさらに多くの立石が眠っているらしい。このことに関して1つの証拠となるのが、明治18年(1885年)5月に調査された「八幡神社列石(磐境)配置図」である。
1917年と年代はそんなに離れてはいないが、この図には、現在では見られない立石群が多く記載されている。

現在、金丸八幡神社を訪れると、明治の配置図とは違う個所が散見される。
たとえば、配置図右側にある「年貢畑」「共有地」などと書かれている区画の多くは、現在、三加茂町歴史民俗資料館が建っている所であり、一部、残っている所もあるようだが、大半は現在見られない。
また、配置図の左側にある「御幸道」の左右に列石が続いているように記載されていたが、現地では、「藪」の西に列石があるのを除いては、御幸道左右の列石とやらはほとんど確認できない状況だった。このような状況を経た上での現在の列石現存数が387本なのである。

1885年当時の現存総数だが、配置図を見た限りでは全ての列石数が書いてないので分からない。

(7)は、金丸八幡神社付近の寺社を紹介している箇所から抜粋したものだが、(7)では別当の神宮寺の存在が触れられており、(9)により16世紀後半に兵火で焼失したことが分かるが、すぐに長善寺として復興している。

そして(8)は、岩石祭祀事例である。
探訪後にこの記述を見たので、残念ながら現地にそのようなものがあるのか確認することは適わなかったが、少なくとも、1917年時点では「岩神」と「清水」があり、共に神聖視されていた。
先に紹介した「神社の大石」の伝説に出てくる「大石」との関連性も気になるが、長善寺と少し場所がずれる。


棟札からの検討


金丸八幡神社で確認できる最古の棟札は、慶長11年(1606年)のものだが、どのような神社であったかという記述は見られなかった。
万治3年(1660年)の棟札で初めて「新造立 八幡社壇」という記載がなされ、記載者も「良賢」と記された。記載者の良賢法印は、長善寺の別当だった。このことから、1660年に八幡神社として造立されたということがわかる。
田中1990では、良賢法印が長善寺の鎮守社として八幡神社を建てたとしており、それ以前・・・1606年以前においては、大巳貴命を祀る神社があったのではないかと考察している。

すなわち、この神社には大巳貴命を祀っていた時期と、応神天皇ら三柱を祀る金丸神社の時期があったのであり、その2つの時期の狭間が1660年に位置付けられる。ということは、長宗我部氏が阿波国に侵入して社殿や神宮寺が焼かれた時は、まだ大巳貴命を祀る神社だった可能性がある。

先行研究からの検討


境内に残る列石に関しては、その起源・性格についていくつかの説が出されてきた。
その先行研究を紹介した上で、各説の検討を加えていきたい。

まず、最も代表的な説が「磐境」説だ。
「磐境」は、神域であることを表示するため、神域と俗域の間を区画するように配される岩石のこと。本例の最初の磐境説提唱者はわからないが、おそらく明治時代の頃、喜田貞吉が九州・四国に見られる「神籠石」を磐境だと主張した頃と同時期なのではないかと推測される。

昭和57年(1982年)、本石が町指定文化財に登録された時も、「磐境」として名称が付けられた。
以後、本列石の紹介のされ方も、「現在に残る磐境の実例」などとして取り上げられることが多い。

しかし、この解釈に対して異を唱える向きもある。
たとえば、三加茂町文化財保護委員会が1984年に刊行した『三加茂町の文化財』の中では、本列石を「一種の磐境と見られた。しかしその後の調査で、神社の境域を示すために造られた玉垣の原始的なものであることがわかった。」と記している。
ここで言及されている「その後の調査」が何なのかはようとして知れないが、とにかく「玉垣の原始的なものであることが分かった」と断言できる調査だったようだ。

では、磐境と玉垣ではどう違うのか?
磐境も玉垣も、その中に間違って入らないように、視覚的にそこが聖域であると表示する機能を持つ施設であり、機能的には同義である。だから、そもそも「磐境」と「玉垣」を別物として考えようとするのが間違いだと思う。
私は、磐境とは、石製の玉垣と考えて差し支えないと思う立場である。「玉垣」と聞いて、すぐに竹で囲った柵列や機械的に作られた石の柵を想起し、「磐境」と聞くと、自然石で素朴に囲った形態を想起する・・・。そのような形状のイメージで、両者を分けることは慎まないといけないだろう。

さて、本列石にはもう1つの説がある。
慶長9年(1604年)の『金丸中庄村検地帳』によると、この列石が所在する「石の内」(字名)は、石の内の半分が個人所有の御年貢地に属している。
そこで田中1990では、石の内は神域であったという根拠に乏しく、三加茂町歴史民俗資料館を建設した際の発掘調査では、地表下から2基の「たたら製鉄炉跡」が検出されたことなどから、この列石をたたら遺跡に伴う遺構ではないかと推測している。
郷名も「金丸」であることから製鉄関係の生業が栄えた土地柄だったと考えられており、中世の金丸郷におけるたたら遺跡だったと評価付けられる。

この「たたら遺構」説も、いくつか疑問点がある。
まず、石の内のおよそ半分が個人所有の年貢地だったから磐境・玉垣説の線は薄いという推論だが、この検地帳が1604年時点のものであることから、これだけで石の内が非神域だったという説得力までは持たない。

資料的に全幅の信頼性はもてないが、前掲の『神社寺院明細帳』によれば、金丸八幡神社は16世紀後半、長宗我部氏の兵火に遭い一度大きく壊滅状態に遭っている。
その後にまとめられたのが検地帳なので、壊滅前と壊滅後の状態が同じとは言えないものがある。

次に、石の内の西部から2基のたたら跡が検出されたから、列石もたたら遺構の痕跡であるとの推論だが、実際に、この列石がたたら施設においてどのような役割を持っていたのかという部分に関して説明がおよんでいない。。
たたら施設における列石の位置付け・役割が説明できない以上、たたら説を完全に肯定することもまだできない。

以上の各説をふりかえると、事実面として認められるのは、たたら遺構とほぼ同位置に立石があることと、現在は金丸八幡神社の玉垣(磐境)として機能していること。
あえて、この2つの事実をつなげるとするならば、 元々この場所はたたら施設で、その用材としてこの板石が元々用いられていた可能性が比較的高いことは言えるだろう(炉の構築材や塀として)。
それと併せて、たたら施設が停止した後、残った板石を神社創建の時に、玉垣(磐境)として再利用したという解釈が、現状の情報を綜合すると最も妥当ではないか。

また、本石の最も歴史学に即した名称は、建石神社の記述の存在から、建石となる。磐境などは後世的名称であるため注意したい。

※追註
補足したいことが2点。
まず1点目。『三加茂の文化財』によると、中庄八幡神社の列石は昭和56年に発掘調査が行なわれ、その際、明確な遺構は検出されなかったという。
2点目。『日本ミステリー・ゾーン・ガイド<愛蔵版>』 (1993年)によると、この列石は巨人が作ったものであるという言い伝えが地元にあると記述し、ここから「太古巨石文明」の存在を示唆していますが、「手書き三加茂百話」を見る限り、三加茂町にそのような列石縁起伝説はなかったことを申し添えておく。


伝承上の旧・三加茂町の岩石祭祀事例


『神社寺院明細帳』で、当社の西200mのところに「岩神の社」があることは前述したが、他にも様々な伝説の付帯した岩石が記されていたため、ここに紹介しておきたい。

(1)蛇巻き石

大きな淵に大蛇が棲んでいた。その大蛇は若い男に姿を変え、ある娘と恋人になった。ある日、娘の父が昼寝をしている大蛇を見つけ、これを7たたきにして斬り殺した。すると娘は子供を身篭り、7匹半の蛇の子供が生まれた。このような伝説に彩られたその大蛇が、いつも巻きついて昼寝をしていた石が、その淵にあるのだという。

(2)祟りを持つ石

ある父子が、果物採りに山へ登った。父が果物を採っている間、子供は近くにあった大きな石に垂れ下がっていたかずらにぶら下がって遊んでいた。するとその夜、子供は高熱に冒され寝込んでしまった。この石は、大蛇が昔住み着いていたといわれ、誰もが近づかなかった石なのだという。

(3)へんろ石

昔、北村の西の外れで、あるお遍路が行き倒れになり、これを不憫に思った村人たちは、お墓の代わりに平たい石を「へんろ石」と名付け、これを裏の竹やぶに安置した。しかし、やがて数十年経つと「へんろ石」は人々に構われなくなり、初めは行なっていた供養もされなくなっていった。するとある時から、へんろ石から人を呼ぶ声が聞こえたり、この石を踏んだ人達が腹痛や病気にかかったりする変事が起こるようになった。このことから、再び村人が「へんろ石」を供養するようになったところ、このような変事は起こらなくなったという。

これらの岩石は、伝説の中で登場するものであり、現在実在しているのかどうかは分からないが、伝説のモデルとなった岩石があった可能性は高い。
ゼロから創られた伝説だったとしても、それらのモチーフがなぜ「岩石」であったのか、というところに関心を覚えるところである。

また、伝説以外に見聞きした岩石祭祀に関わる例として、金丸八幡神社から南南西に行った西庄地区の山間部入りたての所に「磐座」と呼ばれる岩石群と「支石墓」と呼ばれる組石構造物があるそうだ。
この情報は、三加茂町歴史民俗資料館で知ることができた。
館内に、三加茂町内の文化財分布地図のパネルがある。このパネルに磐座・支石墓などの場所が示されている。他に、磐座の写真や付近から出土した弥生時代の磨製石器群も展示されている。無料でもらえる文化財マップの地図(ただし磐座・支石墓の存在は記されていない)もあった。

金丸八幡神社の列石
館内パネルより


金丸八幡神社の列石
館内の展示より

「磐座」は1m弱の柱状石が3本ほど屹立した状態の岩石群で、「支石墓」は名の通り、机状・鳥居状の石組がなされた構造物という。
これらを「磐座」「支石墓」と呼ぶ根拠・由来などは一切分からないが、この付近から磨製石斧や石鏃が出たようで、弥生時代の所産とされている(この年代決定の根拠も不明)。
これらの石器は実用品のため、これらの石器と磐座・支石墓との関係には疑わしいものがある。

「磐座」は弥生時代の祭祀跡と上記のパネルには書いてあったが、これも話半分で聞いておいたほうがいい。「支石墓」も、おそらくは形状の類似だけを持って鳥居龍蔵式の思考を持った人が名付けたものと推測される。

ほか、同館にあった地図によると、「ウスキの岩屋」(白内地区)、「巫女の岩屋」(町の南東限、土々呂滝の近く)なるものがあるという。詳細は不明。
吉野川の近くには「石敢当」の石碑もある。1862年の作だが、邪気や悪霊を防ぐ霊性を持つ石として「石敢当」という文字が刻まれた岩石祭祀事例である。


参考文献    

  • 三加茂町文化財保護委員会(編) 1984 『三加茂町の文化財』 三加茂町教育委員会
  • 田中合 1990 「阿波上郡在方文書集」『風蘭』13号 三加茂町歴史民俗資料館
  • 山梨賢一・薬師寺真・木村和子・村瀬紀子・渡辺威弘(編) 1993 『日本ミステリー・ゾーン・ガイド<愛蔵版>』 学習研究社
  • 三加茂町民話伝説収集委員会(編)・下川清(監) 1986 『手書き 三加茂百話』
  • 三加茂町歴史民俗資料館 展示各資料


(2003年7月3日 旧サイトの記事を修正加筆して掲載)


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