その徳井氏が、古今東西の「石ぐるい」たちを取り上げた石の本が『ミステリーストーン』(筑摩書房、1997年)である。
スピリチュアルや超常現象の本ではない。
読後の感想としては、石の本というより、石に魅せられた人の物語集を読んだかのようである。
石を目の前にした人の価値観の広さがそこにあった。
石に関心を持たない常人には、文章の意味は分かるが、理解の及ばない世界である。
石は、人間研究と言っていいのではないか。
私でさえも、視野を広げてもらったような気がする。
そのような感慨を抱きながら、本書を紹介していきたい。
――石ころの何が私を惹きつけていたのかはわからない。
まずは、作者自身の「石ぐるい」の経歴から話は始まる。
小学生の時、クッキーの空き缶に自分の色々なコレクションを入れていて、その中にたくさんの石ころが詰まっていたそうだ。
――おそらく子どもの私は石をさわりながら世界の手触りをたしかめていたのだ。(中略)世界を所有しているように感じていたのかもしれない。
石を通して、世界を知るということ。
世界の知り方の具体例として、下記を思い出している。
- 石を集めている感覚は、カラスが光りものを巣に集めるような感覚に通じる。
- 真夏に日陰の石に触れると、冷たさを感じられる。
- 水につけると色が変わる。
- 石はひとつとして同じものがなく、ロールシャッハテストの絵のようだ。
- おままごとの道具に使っても、その見立てがどれだけ勝手気ままでも黙ってつきあってくれる。
- 投げても蹴飛ばしても文句を言わない。
その極致は、この石ころたちは、缶ごと、どこに行ってしまったか作者自身覚えていないということ。
石はどれだけ文句を言わないのか。世界を所有できているのかということである。
いったん石を忘れた作者だったが、大人になり「石がふたたび私の視野のなかに入ってきた」。
鼻煙壺(びえんこ)という、18世紀のフランスで流行した嗅ぎタバコの小道具を店頭で見かけたのだという。
壺の材質は金属からガラス・磁器・象牙など千差万別だったが、ほとんどは人の手で加工された素材だった。
その中に、電気石の結晶を切り出した、石の自然の模様を素材にした壺があり、作者の言葉を借りれば「ひとり超然とした美しさで立っていた」。
この石を見て、作者が次に感じたのは、人のドラマだった。
――これを所持していたのはどんな男だったのだろう
石を見ながら感じるのは、石そのものだけではなく、まさに「石の履歴」である。
石を美しいと感じると同時に、石を美しいと感じて、それを壺に仕上げた人間、そしてそれを所有した人間について、思いをはせるのである。
――もしかすると、私は石そのものではない何かに惹かれはじめていたのだろうか。