京都府福知山市大江町内宮
元伊勢内宮の概要と旧跡
元伊勢伝承地「吉佐宮(よさのみや)」の比定地。
ただし、吉佐宮の比定地としては他に京都府宮津市の籠神社があり、むしろ籠神社の方が支持する人が多いのが一般的で、当社はやや陰に隠れている。
かつてより地元では「大神宮(ダイジング)さん」と呼ばれ信仰を集めていたという。
当社は、麻呂子親王の伝説を伝えている。
麻呂子親王は用明天皇の皇子で聖徳太子の異母弟にあたる人物。
麻呂子親王が大江山の鬼退治に赴いた時、戦勝祈願のために伊勢神宮の神々を祭る内宮・外宮を勧請したということから、当社はいわゆる「天照大神の元伊勢」と違うところから発祥したという説もある(大江町誌編纂委員会編『大江町誌』通史編上巻、大江町、1983年)。
また、『延喜式神名帳』によればこの辺りに不甲神社という延喜式内社が鎮座していた。不甲神社の名は今に伝わっておらず、比定地の一つとしてそれを当社が挙げられている(村上政市『神と鬼の棲む山-元伊勢と大江山-』日本の鬼の交流博物館、1994年)。
境内の石段を登ると、かつてあったのが「癌封じの膿木」。
(2007年、あんでっどさんの当サイト掲示板の投稿写真より)
2008年に台風により倒壊して今は存していない。在りし日の写真を掲載した。
「麻呂子の杉」
麻呂子親王が鬼の平定祈願のため、三本の杉を自らの手で植えたという。
三本のうち二本は落雷などで枯死し、現在は上写真の一本のみが遺風をとどめている。
枯死したと思われた杉からも、新たな生命が生まれている。
「真名井の池」
境内社 御門(みかど)神社。
「天地根元造」と名付けられた特殊な建築様式で、ベースは神明造だが、竹の幹を用いているのが特徴。
御門神社に隣接する岩室。
かわらけ(素焼きの土器)を入れて破砕することで、祭神に自らの厄を祓ってもらうという「かわらけ割り神事」が執行される。
「カネの鳴る石」
この石を小石で叩くとカーンカーンと金属音がする。
これが高じて、金銭にまつわる御利益のある奇石とみなされるようになった。
元伊勢内宮皇大神社の社殿。
当社の鳥居は黒木鳥居といい、木の皮がついたまま鳥居とした原初的な造り。
黒木鳥居を持つのは、元伊勢内宮・外宮以外では京都市の野宮神社だけとされている。
本殿は、伊勢神宮と同じ神明造。
他と違って特徴的なのは、本殿の背面に扉があり、扉を開けるとまるで社殿から裏山を遥拝する形式になるという点。
この至近距離から拝めるというのも伊勢神宮とは異なる魅力だろう。
(2010年以前は上写真手前の玉垣すらなく、高床式の柱を前面に拝むことができた)
なお、内宮の裏山は宮山と呼ばれるが、その奥の山を高底城山と呼ぶという話がある。
明治末の口碑調査記録のメモによると「日室ヶ嶽に相対峙する山を高底城山という。高底城とは御陵地の尊名であり、ここは皇大神の御尊骸を納めた地である」という(村上政市『神と鬼の棲む山-元伊勢と大江山-』、日本の鬼の交流博物館、1994年)。
神域を見渡すと、正殿と脇宮を取り囲むように、境内の周りに数え切れないほどの小さな祠が建ち並んでいる。全国各地の一宮の神々を勧請したため、八十六の小宮が取り囲んだのだという。
神主さんが話してくれたところによると、作家の梅原猛氏が当社に参った時、大略「神とかそういった精神的なものを信じない人でも、ここに来れば、聖なることとはどんなものなのか、自ずと感じることができるのではないか」という主旨の感想をもらしたという。
個人的にも納得の聖域感が保たれている。
「龍灯の杉」
節分の晴れた夜、この杉の頂上に灯明のごとき灯りが見えるのだといい、これを見た人はその年が幸福に包まれるという。当地に宿る龍神が天照大神に献じた御燈明ともいう。
これと同じようないわれを持った龍灯杉は、内宮の他に外宮と日室ヶ嶽山頂にもある。
内宮の龍灯杉は樹齢2000年を越えると推定されるが、戦後に火災に遭い、枯死寸前となった。
その命を絶やさぬために、龍燈杉の生きていた部分を切り取り、境内の別の場所に新たに植えて、若木として成長している。
龍灯杉の裏手に、1体の岩石がまつられている。
岩石の上部は窪んでいて、縦に真っ二つに分かれるかのような外形をしているため、陰石に対する信仰と目される。由来は不詳。
陰石の手前には、小ぶりの苔むした石と平たい石が置かれていて、さらにその周りを、列石が方形に配されている。
供物を捧げる石、司祭者が座する石、聖と俗を分かつ磐境のごとく機能している、岩石祭祀のお手本のような事例である。
天岩戸神社
元伊勢内宮の境内奥の山道を進むと、やがて下り斜面となり、宮川へ降りることができる。
この宮川を社域として、河岸に建つのが天岩戸神社である。
元伊勢内宮・元伊勢外宮・天岩戸神社を総称して元伊勢三社と通称されている。
宮川の流れが作り出した岩場と、いまなお鬱蒼とした社叢。
まさに自然の景観そのものがまつり場である。
産釜遥拝所。
この建屋から下の宮川を眺めると・・・
上から宮川を見たところ。
宮川の川底にある岩盤が隆起しており、川の浸食作用によって甌穴が多数形成されている。
これを、神々の湯浴みした霊跡「産釜(うぶかま)/産盥(うぶだらい)」として神聖視している。
甌穴の中には絶えず水が溜まっており、いつも一定量の水が溜まって、増減することはないといわれている。
日照り・旱魃の時に甌穴の水をすくって水面に注げば、必ず雨が降ると信じられた。
逆にこの水を濁すと、川は激しく荒れると禁忌を伝える。
天岩戸神社の社殿は、川岸の岩肌上に建てられている。
鎖を伝って社殿前で拝礼することもできるが、岩肌は水しぶきで濡れていることもあり注意。
社殿の裏手に回ると、1体の岩塊が宮川を塞ぐように控えている。
これが天岩戸神社の名の由来か。
御座石(ございし/みくらいし)
その名の通り、神がここに降り立ち座したといういわれを有する磐座。
神楽岩(写真手前の平たい岩)
ここで神楽を神に献じたと伝えられる伝説の地。
地元に伝わる『清園寺古縁起』によると、麻呂子親王が鬼を討伐した地は「天ノ戸」と記され、「神通川の川上に岩山ありて、仙丈ヶ嶽と申すあり。この末を岩室戸とも申す。ここに清き瀧あり、のち岩戸と申す」とある。当地を指すのではないか。
日室ヶ嶽
元伊勢内宮皇大神社の神体山に位置付けられる日室ヶ嶽(ひむろがたけ)。
日裏ヶ岳、日浦ヶ岳、日陰ヶ岳、城山の異名もある。
内宮から天岩戸神社へ向かう山道の途中、日室ヶ嶽遥拝所(一願さん)という場所がある。
日室ヶ嶽を最も優美な姿で遥拝できる場所であり、ここで願をかけると必ず成就するという「一願成就」の風習が伝えられている。
遥拝所の下は切り立つ崖。下からは宮川の流れる水音だけが聞こえる浄地と言える。
日室ヶ嶽は、標高427mで麓からの比高差300m程の低山だが、その優美な三角形の稜線がひときわ目立つ聖山であり、山の東斜面は禁足地とされてきた。
そのためも、山の東斜面は人の手が全く入っていない自然林であり、この地方では暖帯林と温帯林が混ざる「岩戸山原生林」として府の保全地域に指定されている。
他方で1980年代、週刊誌がこの山を「日本一美しい日本ピラミッド」と形容して以降、日室ヶ嶽はしばしば酒井勝軍以来の日本ピラミッドの1例としても取り沙汰されてきた。
大江町も、観光地図の看板に「日室岳(ピラミツト)」と記載しており、神社側も――さすがに積極的ではないが――看板などに「ピラミッド形」と書くあたり、当時の空気を今に伝えている。
不思議ついでにもう1つ大切な事実に触れると、夏至の日、遥拝所や内宮がある辺りから日室ヶ嶽を眺めると、太陽が日室ヶ嶽のちょうど山頂に沈み込むという現象を見られる。
麓の内宮地区から望む日室ヶ嶽の遠景。
手前にある支峰は、城ヶ越あるいは面山と呼ばれている。
この面山に、少なくとも2基の円墳が確認されており、城山古墳群と名付けられている。
径はいずれも10m強で、1基(1号墳)は峰上やや西、もう1基(2号墳)は面山と日室ヶ嶽の鞍部に位置する(いずれも小字は上杉)。
1号墳の方はおそらく盗掘などによって墳頂部が陥没しており、半壊状態と報告される。
発掘調査はされていないため、詳しい築造時期などは明らかになっていないが、この陥没部の存在から、1号墳は横穴式石室を内部主体としていたのではないかと考えられている。
なお、地元の伝承によると、1号墳のほうは倭姫命の墳墓であると語りつがれている。
※以上、下記文献による。
大江町誌編纂委員会(編) 1983 『大江町誌』通史編 上巻 大江町
大江町教育委員会(編・発行) 1999 『大江町遺跡地図』(大江町文化財調査報告書 第7集)
大江町教育委員会(編) 1975 『京都府加佐郡大江町 高川原遺跡発掘調査報告書』(大江町文化財調査報告第1集)
日室ヶ嶽山中の岩石構造物について
日室ヶ嶽山頂にある岩石構造物(大江町在住の「大江山の赤鬼」さんの案内により2003年登頂。南から撮影)
日室ヶ嶽は全山禁足地ではなく、原生林の神域である東斜面が立入禁止で、西側からは登れるとのこと。
山頂には、元伊勢巡幸時に天照大神の祭祀を司っていた倭姫命の住居址とも磐座ともいわれる構造物が残るといい(村上政市『神と鬼の棲む山-元伊勢と大江山-』日本の鬼の交流博物館、1994年)、それがこの構造物ではないかと思われる。
この構造物は山のほぼ頂上に立地し、原生林のある東斜面からは外れている。伝承では、この山頂に「龍頭の松」がある。
大江町誌編纂委員会編 『大江町誌』通史編上巻(大江町、1983年)によると、倭姫命住居址の伝承地は日室ヶ嶽の中腹とのことで、磐座についての言及はなく、村上論文との齟齬がある。
岩石構造物を別角度から(西から撮影)
高さ1.5mほどの四角錘状の岩石が、まるで2つに割れたかのような亀裂を接触面にして(あるいは異なる2つの石を組んで)、2体の岩石に分かれて構成されている。
この2個の石から構成される四角錘状の岩石構造物をメイン施設にして、その西側にやや他の部分からは盛り上った壇状地形が付随する。
そして、その壇状地形内部からは周りに比べて礫の混入が目立ち、壇の北側面には数個の平滑面を持つ石が貼り石のような状態で側面を固めている。
日室ヶ嶽は城山の名称を持つことから、中世に山城があったのではないかという話もある。
もし山城があったのなら、山頂を始め山中各所の岩石群の配置は原位置をとどめておらず、山城築造時に石材の二次利用を受けている可能性があるが、『大江町誌』(1983年)を参照する限り、日室ヶ嶽に山城があったという伝承や文献は存在しない。
日室ヶ嶽の本体の方には特に古墳の存在は報告されていないが、丸山という地名が日室ヶ嶽の山中にあるそうで、この地名から古墳の可能性を指摘する声もある(『大江町誌』1983年)。
以上の情報も踏まえ、この構造物が人為か自然かは判断を控えたい。
真名井ヶ池。天岩戸神社の北に位置する。この地を真名井ヶ原と呼ぶ。
「昔し此の地に真名井ヶ池と云う池があって七人の天女が天下って水を浴びていた。一人の老翁がその一人をとらえて我が子とした。天女は善く醸酒をつくった。一ぱいを飲めば吉く万の病悉くいえた。其の一ぱいの直材を車に積みて送ったところ其の家豊かに富んだので士形里という名が生れた。天女は豊宇賀能貴命と云う。又此の水は眼病によいと云伝があった。」(現地看板より)
「内宮の港石」
元伊勢内宮の南東、内宮地区の9号線沿いにある。高さ約1.5mの立石。
いわれによれば、豊受大神社の鎮まる舟岡山が宮川の流れによって流れていってしまわないよう繋ぎ止めておく、舟つなぎ石という。
また、この港石は昔の川の流れに沿って存在することから、川水を守る水戸神の磐座だったのではないかと記している。
南に位置する元伊勢外宮近くにも「二俣の港石」と呼ばれるものがあり、同様の伝承を持つという。
参考文献
- 大江町誌編纂委員会(編) 1983 『大江町誌』通史編 上巻 大江町
- 村上政市 1994 『神と鬼の棲む山-元伊勢と大江山-』 日本の鬼の交流博物館
- 大江町教育委員会(編・発行) 1999 『大江町遺跡地図』(大江町文化財調査報告書 第7集)
- 大江町教育委員会(編) 1975 『京都府加佐郡大江町 高川原遺跡発掘調査報告書』(大江町文化財調査報告第1集)
- 日本の鬼の交流博物館(編) 1996 『鬼力話伝45』 大江町役場