出身地である岩手県の山々に毎週末出かけては、岩石・鉱物・化石などを採集し、それを自分の部屋に持って帰り、コレクションすることに熱を上げていた。
賢治は、単に石だけ集めて満足する人物ではなかった。
岩石だけでなく、それを作り出す成因や、その土壌でもある地質にも広く好奇心を抱き、それが高じて盛岡高等農林学校(岩手大学の前身)では地学を専攻した。
学生時代には、役場から地質図の作成の依頼を受けることもあるほどで、実質に賢治名義の地質図が現存している。
「土壌学、岩石学では並ぶ者のない逸材」と、教授陣からの評価も極めて高かった。
――「いままで勉強してきた岩石鉱物類をこれからも扱いたいと思うけれど、どうもこれらの仕事はみんな山師的であるので最初の職業にするのは気がすすまない」(賢治が父親に当てた当時の手紙より)
宝石研磨商になることを考えた時期もあるようだが、このような苦悩の果てに、賢治は農学校の教諭となり、その後、作家として花開くようになる。
宮沢賢治のパブリックイメージは、岩石と一見結びつかないように見えて、彼の作品の中には、石から着想されたモチーフを見出すことができるという。
――「銀河鉄道の夜」には、黒曜石でできた路線図や、水晶の砂、サファイアとトパーズの珠がくるくる回る観測所など多彩な石が登場する。
――貝オパールを描いた「貝の火」、ダイヤモンドをはじめ色とりどりの鉱物の雨が降る「十力の金剛石」 、ベゴという名前の溶岩餅を主人公にした「気のいい火山弾」、鉱物採集を描いた「台川」、オパールを探しにでかける「楢ノ木大学士の野宿」・・・・・・。賢治がつむぎだす世界では、石は人間のように自らの生涯を回想し、怒り、笑い、病気にもなる。
これらは小説という舞台を借りた、賢治自身の石の哲学であり、人が石を云々する心の発露の一事例と捉えることもできる。
江戸時代に、遊行聖が庶民に、石を人間のように行動させたり、聖人の仏法加護の素材として物語をつけていったと仏教民俗学者の五来重が『石の宗教』で述べていたことを思い出した。
宗教者が石を取り扱う時の心の動きと、賢治の作品作りには相通ずるものを感じるのである。
賢治は最晩年、体調を崩しながらも、砕石工場の技師として働いた。その時の気持ちを推し量ることは難しそうだ。
――作家D・H・ロレンスは書いている。「大地の外につき出た大理石の巨大なかたまりや荒野の原始的風景。(中略)人間たちがどうして石を熱愛するのか手にとるようにわかる。それは石ではないのだ。それは人類以前の時代の強大な大地の神秘的な力の顕現である。」
0 件のコメント:
コメントを投稿
記事にコメントができます。または、本サイトのお問い合わせフォームからもメッセージを送信できます。