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2017年8月27日日曜日
2017年8月20日日曜日
生石神社(和歌山県有田郡有田川町)
うごめく石 気まぐれな魔女~徳井いつこ『ミステリーストーン』を読む その8~
――誕生石の説明に、いまも「トパーズは純潔、ガーネットは快活、サファイアは慈愛・・・・・・」などと書かれているのは、単なる象徴でも思いつきでもなく、そうした美質が本当に宝石にそなわっていると信じられていた時代の名残である。
石の魔性と、石の気まぐれな性質について取り上げられた章である。
宝石やパワーストーンが、単なるこじつけではないことを、歴史的な経緯から説明している。
十字軍の際、兵士がガーネットを携えた。
ナポレオンが、出征の時ダイヤモンドを携えていた。
宝石は、ヨーロッパでは「天体の光が凝縮したもの」と信じられた。
ヨーロッパの宝石信仰である。
宝石が天の上の世界(天体)とつながっていて、天上界の力を借りられるという信仰は、ギリシャ・ローマ時代よりも以前、古代バビロニアまで遡ることができるという。
そんなバビロニア由来の宝石信仰は、ヨーロッパでキリスト教世界観が誕生するに伴い、天体から天上界、そして天使の象徴へ姿を変えた。
12世紀のドイツの修道女ヒルデガルトは、そうしたバックボーンに自らの心性を込めて、どの石がどのような天使の倫理的美質を備えているかを定義づけた。
これは、現在の誕生石の説明につながった。
――歴史の一場面、一場面にもし立ち会うことができれば、登場人物の多くが石のお守りを所持していることに驚くだろう。ある時代には特別の力をもつと信じられた石がべつの時代には忘れられ、また再び思いだされて、誰かのポケットにひっそりと入っていたり、ドレスのボタンとして縫いつけられていたりするのだ。
日本では、古く『古事記』に載せられた話では、神宮皇后が腹に石をしのばせたことで陣痛を鎮め、三韓征伐に赴いたという鎮懐石伝説がある。
なぜ、腹に石をしのばせると、そこの痛みが鎮まるのか?
そこに万人を納得させるような理論的説明は、何も書かれていない。
それなのに、この文献には堂々と鎮懐石伝説が書かれ、少なくとも書かれた当時の読者を圧倒したわけである。
――中国とヨーロッパでは、突出したかたちで玉と宝石が神聖視されたが、日本においては、石がただ石であるというだけで神として扱われてきたようなところがある。
「とくに日本の国は、石の形に暗示的なものが多い」と語った小泉八雲の話に通ずる。
八雲は日本の石の信仰を「天然物の形からくる暗示」と表現した。
宝石も削り出されて加工はされているが、石の輝きと色・模様が天然物であるから、それによる暗示もあるだろう。
中国由来で日本の古墳文化でも根付いた「玉(ぎょく)」の重宝もこれに基づくものであるし、遠く縄文時代の翡翠の珍重も、縄文人の心性まではわからないが日本の宝石信仰と言えるかもしれない。
その一方で、宝石ではないただの自然石を、一切加工することなくまつりあげるのも日本列島には多く見受けられる。
同じ石だが、これはあくまでも、現代人が石と定義した中での発想。
古代日本において、宝石信仰と自然石信仰は同系統にくるまれるものか、別系統の心性によるものと捉えるべきか。
こう疑問に思う理由の1つに、私自身が、宝石にまったく惹かれず、路傍の石のほうに惹かれるという個人的な興味関心がある。
私個人が、なぜか同じ石でありながら、その2者に明確な線引きをしている。
もちろん、宝石と言ってもその種類は多様であり、ただの石との線引きも当然明確ではないから、どこからどこまでか、というとグレーゾーンはある。
私自身が、宝石は上でそれ以外の石は下という現代的価値観にとらわれていて、宝石に対してはねっ返りがあるだけなのかもしれないことは、書き添えておきたい。
人間は、後天的に学習してしまうと、もはや色眼鏡から逃れることはできない。
自分をもはや客観視できないので、結論は先送りにして、さらに多くの情報を浴び続けていこうと思う。
――現代の呪う石で印象的なものにハワイの火山の話がある。ハワイ島の公園管理局には、毎年、膨大な量の石の小包みが送り届けられ、年によっては総量が一トンにのぼったこともあるという。(略)これによく似た現象はオーストラリアのエアーズロックでも起きている。(略)国立公園に指定されたことから観光客が登るようになり、なかには石をもち帰る人がいるらしい。公園事務所に送り返されてきた石はコーラの瓶に詰まった砂から一抱えもあるのに及び、その多くに病気、事故、破産など不幸の報告と懺悔の内容の手紙が添えられているという。
石の魔力は、人に利するだけでなく、人を害する「気まぐれな魔女」であると評するのが徳井氏だ。
「幾十万年来、人間の伴侶であり、無言の庇護者であった石が毒素を吐きつづけ、人を殺しつづけるということはわれわれの存在の基盤にかかわること」と説いたのは宇佐美英治である。
人が石から恩恵を浴び続けると、その揺り戻しで、石から強い反発と災厄を受けると思ってしまうのではないか?
石を、別の単語に置きかえてみてもいいかもしれないが、石の哲学は人間研究に他ならない。
2017年8月19日土曜日
岩倉神社の「粟生の巌」(和歌山県有田川郡有田川町)
白岩丹生神社(和歌山県有田川郡有田川町)
2017年8月15日火曜日
白山・田殿丹生神社(和歌山県有田郡有田川町)
和歌山県有田郡有田川町出339
田殿丹生神社の背後の山を白山といい、山頂に白山神社をまつる(境内社)。
周囲の山々がみかん畑で開墾されている中、よく社叢が保たれている秀麗な三角山である。
山腹に、屹立する巨岩(写真左)と、剥き出しの岩崖(写真右)が見える。
白山の名前に偶然か相応しく、陽光に白く反射する岩々である。
明治時代の絵図にも、その三角の山容が描かれている。
この絵図にこう記されている。
「当丹生神社は上古丹生都比女之大神本国伊都郡奄太村(今の慈尊院村)の石に天降り坐して当所夏瀬の森にご遷幸あらせられしにより、垂仁天皇の朝宮造りせし社頭なりしと旧記に見ゆ」(新字体、ひらがなに適宜修正)
夏瀬の森とは、田殿丹生神社が鎮座する場所から南にかけての社叢一帯のことをこう呼んできたそうである。
「夏瀬の森で白山を御神体として崇拝していましたが応仁天皇の御代初めて立派な社殿が建立されました」(社頭掲示より)
白山のあれほどの巨岩群であるが、文献・伝承としては何も伝わっていないが、上記のとおり白山自体が神山であることは間違いなく、岩も構成要素の一つとして含めた山全体が、神の顕現として崇められたものだろうか。
2017年8月11日金曜日
伊和神社と宮山にまつわる岩石信仰(兵庫県宍粟市)
※上地図は宮山磐座の位置を表示。
一つ山祭と三つ山祭
播磨国一宮・伊和神社を、宮山(514m)・花咲山(637m)・白倉山(841m)・高畑山(470m)の4つの山が囲む。
伊和神社とこれらの山々には、数十年周期での神事が残っている。
21年に1回、「一つ山祭」が宮山で催行される。
61年に1回、甲子年ごとに「三つ山祭」が花咲山・白倉山・高畑山(伊和三山)で催行される。
この神事への地元での意気込みを、遠山正雄の「『いはくら』について」 (1935年)ではこう表現している。引用しよう。
「氏子の慣習としては、一代一度この六十年目に行はるる、三ッ山祭に遭遇する事を無上の幸慶、子孫に対する至極の副業として居り、この三ッ山祭の期日近づけば、六十年間放任して居た山道を、嶮峻何のその、跡方殆ど分らぬ荊棘も何の苦ぞといふ風に、狂喜して道付けを勤み、やがて山道に幟旗を樹連ね、頂上の小祠(木製).を改造し、夜の目も眠らぬ風情でその日の来るを待ち設け、愈々祭日来ると老幼男女の別なく、阪を押上げ曳上げ、岩角を攀ぢつ扶けつ、一ヶ月許りは蟻の行列のやうに絡繹として巡拝する事、今も変わらないそうです。」
60年に一度、山道を開き山上の祠をまつるという形式から、山上の神を里に招く山岳祭祀の遺風を忠実に見て取ることができる。
遠山の報告によると、宮山・花咲山・白倉山・高畑山のそれぞれに磐座と思しき岩石群があるといい、実際に遠山は山を登りそれらを実見している。
写真は掲載されていないが、伊和三山の磐座について詳しくは参考文献を参照されたい。
ただ遠山は、当時の伊和神社宮司の小林盛哉の話として、下記を書き残しているので、これだけは紹介しておこう。
「祭典の直会席上、古老に聞糺したる処によれば、シラクラヤマと称するは此頃の若者が転訛した名称で、従来は正しくイワクラヤマと称したるなり」
伊和神社から望む高畑山
伊和神社の鶴石
欽明天皇の御代、大神、伊和恒郷に託宣あり。
「是より西方に当りて霊地あり、古の如く我が神霊を祀るべし」と。
即ち翌朝至り見るに白鶴二双、巨石の上に停立し、北方に向ひて眠れり。因ってその石の上に神殿を造営せり。
其の後、社殿現在の位置に移され「鶴石」と称し、一般の信仰せらるるに至りしなりと。今社殿の北向なるも此の伝説に因るならんか。
石の上に社を立てるという社伝から、石の上に神宿る磐座の違例であることは疑いない。
宮山の磐座
麓から30分ほど登ると、このような巨岩群が現われる。
遠山正雄の表現を借りると、この巨岩群は三階段状になっており、最下段が上写真、そして中段に下写真の岩屋状の構造物がある。
自然の巨岩を庇として、その岩陰に祠をまつっている。
祠内には「伊和大神」と書かれた神札がまつられ、現地標識にはここが伊和神社の一つ山祭の祠と表示されている。
しかし、遠山正雄が聞き取りした当時の情報をここで書き添えておくと、ここはかつて妙見祠と呼ばれ、祠の「扉のかげに瓦焼き製の道士姿の立像を立ててある」のを「高さ一尺四五寸のもの。之ぞ俗に妙見サンと崇める」という。
ならびに、遠山が当時の神職に聞いたところによると、「今は神社と(国幣中社伊和神社)何らの関係なし」との返答だった。
現在の祭祀状態と、戦前の祭祀状態に、開きがあることを認めなければならない。
推測だが、遠山の探訪によって、この妙見祠が「伊和神社の鎮座前の元宮磐座」と位置付けられ、宮山の一つ山祭の祠に置き換わったのかもしれない。
なぜなら、遠山は前掲論文の結語で、こう推定しているからだ。
「これだけの実査を以て、伊和神社境内及祭祀の現状に対照するに及んで、どうも伊和神社はこの宮山の、岩座から下遷座申上げたものと疑はれてなりません。」
換言すれば、遠山論文当時は「宮山の磐座≠伊和神社の元宮」であることを前提とした物言いであり、遠山論文によって地元の伝承は固定化され、現在ではあたかも古くからの話であるかのように、「宮山の磐座=伊和神社の元宮」のイメージが浸透している。
今の研究者には、このような繰り返しがないように、自省の参考として記しておきたい。
巨岩群の最上段にも、倒壊した祠らしきものがある。
こちらのほうが、一つ山祭の対象だったかもしれない。
参考文献
遠山正雄 「『いはくら』について」 『皇学』第6回 第3巻第1号、第7回 第3巻第2号(1935年)2017年8月7日月曜日
三上山周辺の岩石信仰(滋賀県野洲市)
三上山は、滋賀県野洲市に位置する標高432mの山であり、御神山・近江富士・百足山の別称がある。俵藤太の百足退治で著名である。
『先代旧事本紀』に収められた伝説によると、巨人が近江の地に穴を掘り、その窪みが琵琶湖になったのだという。
掘った土で盛ったのが富士山で、その時に零れ落ちた土が、三上山になったという。
近江富士の美称のとおり、秀麗な円錐形から古代の信仰対象とされ、山頂に奥津磐座、山麓に三上山を御神体とする御上神社など、三上山に関わる祭祀の場が周辺一帯に設けられてきた。
三上山(北より撮影)
三上山周辺地図(現地看板より)
三上山
奥津磐座
三上山頂上にある奥津磐座は幅約3m×高さ約2mの岩塊で、その周辺一帯が岩盤剥き出しとなっている。
毎年6月18日未明、御上神社によって執り行なわれる「山上祭」の時、神職が三上山頂上に登り、山頂で神を降ろす祭祀を行う。
社殿祭祀以前の古態をとどめているとすれば、山頂磐座祭祀の事例と言える。
奥津磐座の下方斜面は岩崖のガレ場となっており、これを「姥の懐」と呼ぶ。
山麓からも、「姥の懐」の岩崖は肉眼で確認することができる。
姥の懐(一部)
山腹には「割岩」「魚釣岩」などの岩石もあるが、これらは神聖視の段階には至っていないようである。
「ある郷土史家」によると「鏡石」「方位石」「太陽石」に比定される岩石があるというが(『日本ミステリー・ゾーン・ガイド』学習研究社 1993)、その真偽は定かでない。
東光寺山と出世不動明王
三上山の北方には、山続きで妙光寺山(標高267m)と、東光寺山という複数の小峰が林立する山塊が広がる。
この一帯は、かつて多くの寺院が興隆し東光寺と総称されたが、後の戦乱で灰燼に帰したという。
三上山と妙光寺山の間に、御池という江戸時代に作られた農業用の溜池がある。
この御池に沿って続く山道を登っていくと、山腹谷間に出世不動明王という霊場がある。
出世不動明王 入口
出世不動明王の境内には、立派な楼や滝の行場などが整備され、現在も生きた霊場であることが分かる。
寺伝では皇紀1475年(西暦815年)、弘法大師が42歳の時にこの山で修行をし、その厄除として不動を刻んでまつったのが始まりで、嵯峨天皇からは地領として金田荘を与えられたと伝わる。
出世不動明王本堂。後ろに巨岩が控える。
本堂裏の巨岩。ずんぐりと丸い。
巨岩から三上山を望む
本堂の背後に接して半球状の巨岩が鎮座している。この巨岩に不動を刻したと思われる。
この地点は山腹の谷間にあるが、巨岩と対峙して三上山の秀麗な山容が拝める。
当地の岩石祭祀の起源は謎に包まれているが、三上山の岩石祭祀の場としてはこれ以上ない立地・景観。まつられるべくしてまつられた岩石と言うほかない。
ほかにも、山中各所は古墳の石室が開口しているといい、巨石文化研究の分野で著名な神山一夫氏によると、この山には三上山に姿を向ける椅子形の組石構造物や、「弁慶の経机」というものもあるらしい。
以下、当サイトの旧掲示板で神山氏から2004年に投稿された内容を引用する。
お久しぶりです No: 659
投稿者:神山一夫 04/01/08 Thu 21:11:01
三上山のとなりに妙光寺山があり、ここにナントカ不動という古い霊場があります。中心の祠の後ろは巨石なので、イワクラ信仰が土台だと推測される場所です。巨石周辺の山腹には古墳の石室が無数に口をあけて、なんとなく不気味なところです。この霊場の主と思われる修行者の老人から、「弁慶の経机」なる岩組みがあると昔聞きました。ドルメンのようなものかなと何度か探したのですが、結局見つけられませんでした。でもその代わりに、まっすぐ三上山頂を向いた巨大な椅子?のような石組みに遭遇しました。なんかまだまだいろいろありそうです。
霊山妙光寺 No: 664
投稿者:神山一夫 04/01/11 Sun 02:37:37
妙光寺山と三上山の間にあるダム池をさかのぼっていくと霊場の寺?につきます。門を入って左の山道を少し登ったところに古墳の石室が穴をあけていて、それは典型的な横穴式石室です。案内していただいた老人は、まだ何十という古墳がこの山中にあると言っておられました。また巨人の椅子のような石組みも、そのあたりの山中にありました。
いずれにしろ、この山は精査する必要がありそうですね。いろいろ思いがけない発見があるような気がします。
妙光寺山
妙光寺山は、北斜面の中腹に妙光寺山磨崖仏があることで知られる。
妙光寺山磨崖仏は、自然石の平滑な岩肌に地蔵立像を刻したもので、元享4年(1324年)の造立とされる。
妙光寺山磨崖仏
この磨崖仏から少し下った所に、「岩神大龍神様」と呼ばれる場所がある。
大小様々な岩石が寄り集まって、岩窟状の空間を構成している。
横には石碑が立ち、「岩神大龍神様 御鎮座は今より一千五百年前」と彫られている。詳細不詳である。
岩神大龍神様
ネコ岩
大岩山銅鐸出土地と極めて近い位置に、「ネコ岩」と呼ばれる場所がある。
ネコ岩という名前の出自は、井上香都羅氏が著書『銅鐸「祖霊祭器説」』(1997年)で紹介したことに依拠する。
大岩山丘陵の南端に鞍部があり、さらにその南に相場振山・田中山の北側斜面が高まっていくが、その途中の山腹に、よく整備された祭り場と共に高さ3~4mほどの縦に亀裂の入った立岩が存在する。
誰が手入れをしているのかわからないが、出世不動明王で感じた時と同じく、聖域として清浄に保とうという意識が強く伝わる場所であり、生きた祭祀場である。
ネコ岩の入口。参道がよく掃かれている。
ネコ岩
KNIGHTさんのブログ「HUGE STONE・CURIOUS STONE」内の「三上山と周辺の磐座10」によると、この岩はネコ岩という名前ではないという地元の方らしき発言があったそうだ。
私も銅鐸博物館の方にこの岩石のことをうかがってみた。
返答は「岩の存在は知っているが、名前は分からない」「ネコ岩という名前も聞いたことはない」というものだった。
よって、この岩石が本当にネコ岩という名前なのかどうかは確定できないが、他にネコ岩候補もないため、とりあえず現段階ではこの岩をネコ岩として仮称しておきたい。
なお、相場振山の西山裾の辺りは「堂山」と呼ばれ、ここには福林寺跡磨崖仏という磨崖仏群が残っている。室町時代の製作と考えられており、かつてこの辺りに福林寺という寺院があったが織田信長の兵火により消失した。
一部の磨崖仏は明治~大正の頃に大阪方面の富豪の庭に持ち去られたらしい。
その富豪の庭に今もちゃんと保存されていればいいが、1つの歴史が消えるのはたやすい。
福林寺跡磨崖仏
大岩山と銅鐸出土地
妙光寺山・東光寺山の北東に谷間を挟んで広がる山塊に、田中山(標高293m。甲山と書くものもあるがそれは誤り)・相場振山(標高283m)の峰が続く。
この山塊の最北端に大岩山(標高152m?麓からの比高差50m程度)と呼ぶ低丘陵があったらしく、現在は丘陵の3分の2が東海道新幹線の採土作業により消失しているが、ここからは弥生時代の銅鐸が多数出土している。
明治14年(1881年)、地元の村人らによって丘陵中腹(発見者に話によると急傾斜面だった様子)から偶然に14個の銅鐸が発見。さらに昭和37年(1962)の新幹線採土時に、明治14年出土地から尾根を1つ越えた南東の中腹から9個、丘陵頂部から1個の銅鐸が相次いで出土した。
合計3ヶ所に分かれて銅鐸は埋納されていることが分かり、各地点はそれぞれ直線距離40~50mほどしか離れていなかった。
大岩山銅鐸出土地の記念碑(正確な位置ではない)
野洲の銅鐸博物館に明治14年発見時の想像絵図があるが、銅鐸の埋納坑のすぐ傍に巨石が累々としている様子が描かれている。
明治の偶然の発見のため詳細な調査記録はなく、絵図は想像図なので話半分にとどめておくべきだが、大岩山という名はいかにも岩累々の地形を表している。
大岩山という地名は、かつて福谷・奥小松・丸山と呼ばれていた3つの字を明治時代に改称したものであり、田中山・相場振山北端の低丘陵全体を指す地名だった。
相場振山・田中山自体が全山露岩の目立つ半岩山的な風貌であり、大岩山も同様の半岩山だったのだろう。銅鐸はかつての奥小松の字に該当する丘陵東側斜面から見つかった。
昭和37年の銅鐸出土地点についても、採土中の発見のため詳細な調査記録はとられていないが、銅鐸が見つかったときの写真が数枚撮影されており、その写真には銅鐸の背後・周辺に大小の岩盤・岩塊が露出している様子がはっきりと写っている(銅鐸博物館の常設展示および図録を参照)。
以上の点から、大岩山銅鐸出土地は、銅鐸埋納と巨石・巨岩の相関関係を感じる事例である。
しかし批判的に考えれば、露岩が目立ったのは大岩山丘陵だけではなく、田中山・相場振山も同様である。
そんな山塊の中であえて大岩山東斜面の中腹~丘陵上の3ヶ所を埋納地点に選んだ理由は何だったのか。
いかんせん現地は地形削平されており景観が分からないため検討のしようがないが、露岩の近くを意識して銅鐸を埋納したという仮説は、「是」とも「非」とも言えない状況だ。
大岩山の銅鐸は、その型式から製作時期に幅があり、なおかつ近畿式と三遠式という二系統の型式が織り交ざっていたと考えられている。
埋納方法は、少なくとも一部については銅鐸同士を「入れ子」にして、時期の違うもの異なる系統のものを一括して完形で収納していたとこれまでの研究から推測されている。
銅鐸の破壊行為はなく、代々の銅鐸を伝世・保有した上で土中に一括収納しているというのが大岩山銅鐸の特徴である。また、埋納地点が3ヶ所に分かれていることも大きなポイントだろう。
一つ述べたいのは、明治14年銅鐸出土地点は急傾斜面で「崖」と形容してもいいような立地だったという発見者の報告、現地を知る地元の人の話が残っていること(花田勝広「大岩山遺跡群出土遺物の追跡調査」2002年)。
単なる保管場所であるならば、もう少し傾斜のゆるい地点にしそうなものではある。
急傾斜なら外部の人間に荒らされにくいが、地山ごと崩落するような急傾斜地形であれば銅鐸そのものが紛失の危険性があり、保管場所としては不適切の印象もある。
急傾斜面でも埋納するんだという意思がそこには感じ取られることだけ、記しておきたい。
古墳時代には、同じ大岩山丘陵で大岩山古墳・大岩山第二番山林古墳・円山古墳・甲山古墳・天王山古墳・宮山1号墳・宮山2号墳が築造されている。
大岩山に対する認識・意識が弥生時代から同じまま継続しているか、断続しているかは不明である。
参考文献
- 野洲町 『通史編1』(野洲町史 第1巻) 1987年
- 御上神社 『御上神社由緒略記』
- ムー編集部 『日本ミステリー・ゾーン・ガイド<愛蔵版>』 学習研究社 1993年
- 井上香都羅 『銅鐸「祖霊祭器説」』 彩流社 1997年
- 野洲町歴史民俗資料館(銅鐸博物館) 『常設展示図録』 1988年
- 野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館) 『大岩山出土銅鐸図録』 2006年(改訂版)
- 花田勝広 「大岩山遺跡群出土遺物の追跡調査」 『野洲町立歴史民俗資料館(銅鐸博物館)研究紀要』 2002年
調宮神社(滋賀県犬上郡多賀町)
修学院守禅庵 岩石祭祀遺跡(京都市左京区)
※過去の記憶に基づくため、上の所在位置は正確ではない。
所在地:京都府京都市左京区修学院守禅庵
参考文献:京都大学考古学研究会 1994 「修学院磐座調査報告」『第45とれんち』
比叡山の西麓に修学院離宮・赤山禅院などがある修学院の地。その赤山禅院の北側に張り出している丘陵に、比叡山への登山道の1つが巡らされている。
その登山道口から約200m入った右手斜面に、岩石のまつり場がある。
この岩石に対して、京都大学考古学研究会(以下、京大考古研)が1993~1994年にかけて、遺物の表面採集や簡易測量を中心とした調査を行なっている(京大考古研はこの岩石を「修学院磐座」と呼称している)。
その調査成果は、京大考古研の1994年の機関誌『第45とれんち』に載せられている。
ここでは『第45とれんち』に報告されている調査結果をかいつまみながら、修学院磐座を紹介したい。
石質は黒チャート。横幅は約2.4m、高さは約2.2m。全体として台形~オムスビ形の形状をしている。
石は苔むして、注連縄が張られている。前面には、直立する竹を幣として、紙垂が付けられている。現在でも祭祀が続いていることを示す。
京大考古研が、この岩石周辺から地表面に出ている遺物を採集したところ、その数は359点に上ったと報告されている。
採集した遺物のほとんどは、岩石の前面1.6×2.4mの範囲から見つかった。
その下斜面からも若干数が見つかったが、これは原位置にあった遺物が斜面下にずれ落ちたものと思われる。
採集された遺物359点はすべて土師器皿であり、ほとんどは細片だったため、京大考古研が機関誌に詳細報告したのは19点にとどまった。
土師器皿の多くは皿内面の底部と体部の境に凹線を有しており、これは17~18世紀に岩倉木野で作られていた土師器皿の特徴と酷似しているという。
凹線の付け方や器形の特徴から、今回の土師器皿群は18世紀前半~後半に渡って岩倉木野で製作された土器群であると京大考古研は判断した。
「岩石の前面」という非常に限られた、かつ非日常的空間で1世紀間にわたって同じ器種の土器が散布しているという事実を考慮すると、祭祀用途以外の可能性を指摘するのは、甚だ不自然であると言えるだろう。
京大考古研の報告では、一部の土師器皿には煤が付着しており、祭祀の際に火が灯されていたのではと指摘している。
江戸時代の岩石祭祀を考える際の興味深い事例となるだろう。
うごめく石 異界へのドア~徳井いつこ『ミステリーストーン』を読む その7~
なぜ、岩石は磐座や磐境として、異界との境を示すものとして信じられたのか?
これを哲学的な側面から補強するのが本章である。
異界の一つとして、冥界がある。
石化の夢想は、バシュラールも頁を割いて取り上げているテーマである。
石化とは、生を遮断するメデューサ・コンプレックスであるという立場だ。
徳井氏は、その例として次の5つの例を挙げている。いずれも興味深い。
「神は死んだ」の言葉で有名なニーチェは、スイスのジルヴァプラーナ村の湖を散歩中、ピラミッドのようにそびえたつ1個の岩塊に出会った。自然石である。
ニーチェによると、「そのとき私の身に永劫回帰の思想が到来した」と述懐する。
ニーチェは、あくまでも「到来した」と書く。
自らが編み出した、考え出したのではなく、石を見て、啓示を受け取ったのであり、それは確実なもので、選ぶ余地はなかったのだという。
この石から「圧倒的な力」を感じとり、その力から哲学的なインスピレーションを受けた自分のことは「単なる化身、単なる口、単なる媒体にすぎない」とした。
そして、同じ啓示をこの石から受け取った人は、数千年前まで戻らないといけないだろうとも述べた。
誰にでも再現性があるものだが、誰にでも再現できるものではないとも言える。
ニーチェはこの石を「聖地」と呼び、現在では「ニーチェの石(ニーチェ・シュタイン)」と呼ばれている。
これを哲学的な側面から補強するのが本章である。
異界の一つとして、冥界がある。
――石化の恐怖とは、死の恐怖である。(中略)石はすべての生命あるものがあらわれてくる場所であり、消えてゆく場所である。地球上の最初の物質であり、最後の物質である。
石化の夢想は、バシュラールも頁を割いて取り上げているテーマである。
「ときには、生気のないものを眺めていて、逆にこの意志のとりこになることがある。石、青銅、つまり物質の基盤そのものにおいて不動である存在が、突如として攻撃にうつるからである。」
「たとえば彫像とは、人間の姿で生まれようとしたがっている石であると同時に、死によって動けなくされた人間存在でもある。そのとき彫像を眺める夢想は、不動化の作用と運動を惹起する作用の律動にのって活動するのだ。夢想は死と生の両面価値にごく自然に身をゆだねるのである。」
「石化作用のイマージュに、氷結のイマージュや寒気のイマージュを比較するのは、まったく自然である。」
ガストン・バシュラール「石化の夢想」(及川馥・訳『大地と意志の夢想』思潮社、1972年)その3
石化とは、生を遮断するメデューサ・コンプレックスであるという立場だ。
――石は、多くの神話のなかで冥界と接触をもつ。
徳井氏は、その例として次の5つの例を挙げている。いずれも興味深い。
- マレー半島のセマン・ピグミー族は、世界の中心にバントゥ・リブンという1個の巨石があり、その下に冥界があると信じる。
- 旧約聖書には、ヤコブがある夜に石を枕にして寝ると、主から啓示を受ける霊夢を見た。「これは神の家である。これは天の門だ」ということで、以後、スコットランド王が即位の際に座るスコーン(スクーン)の石として現在玉座に組み入れられている。
- ローマ帝国で一時的熱狂的に信仰されたミトラ神は、岩の塊から生まれた。短剣で神聖な子牛を殺すことで不死のものに浄化するという神だった。
- 黄泉国神話の黄泉比良阪に置かれた千引岩
- 鹿児島県下甑島では、人は死ぬ前に魂が村のはずれにある「手掛け石」にとどまった後、その北にある立石へ飛んでいくと信じられる。
「神は死んだ」の言葉で有名なニーチェは、スイスのジルヴァプラーナ村の湖を散歩中、ピラミッドのようにそびえたつ1個の岩塊に出会った。自然石である。
ニーチェによると、「そのとき私の身に永劫回帰の思想が到来した」と述懐する。
ニーチェは、あくまでも「到来した」と書く。
自らが編み出した、考え出したのではなく、石を見て、啓示を受け取ったのであり、それは確実なもので、選ぶ余地はなかったのだという。
この石から「圧倒的な力」を感じとり、その力から哲学的なインスピレーションを受けた自分のことは「単なる化身、単なる口、単なる媒体にすぎない」とした。
そして、同じ啓示をこの石から受け取った人は、数千年前まで戻らないといけないだろうとも述べた。
誰にでも再現性があるものだが、誰にでも再現できるものではないとも言える。
ニーチェはこの石を「聖地」と呼び、現在では「ニーチェの石(ニーチェ・シュタイン)」と呼ばれている。
2017年8月6日日曜日
石を読む、石に惑う~徳井いつこ『ミステリーストーン』を読む その6~
――石こそはアナロジーの宝庫であり、人をして最も強烈に「読む」ことへと駆りたてる存在だった。
岩石の哲学では、「石が書く」という表現が使われる。
石が動作主になるわけはもちろんない。
その実は、人が石から何かを読み取り、ある意味勝手に惑わされているだけなのだが、哲学の当事者はそのような表層的かつ無感情な発想で語らない。
それは、かつてこのブログでバシュラールを取り上げた時に触れたとおりである。
再掲したい。
「現代の読者は、こういうイマージュにほとんど重要性をみとめない。しかしこの不信が不誠実な文学批評、ひとつの時代の想像力を発掘できない批評に、読者をおもむかせているのだ。こうして読者は文学のよろこびを喪失する。合理化するだけの読書、イマージュを感じない読書は、文学的想像力を当然軽視するにいたることは驚くにあたるまい。」
ガストン・バシュラール「岩石」(及川馥・訳『大地と意志の夢想』思潮社、1972年)その4
「無神経な読者は、こういう個所はなんのためらいもなくとばして読んだことだろう。つまりここに具象的な描写のための安易な手法しかみとめないはずだ。(中略)けれども文学的夢想の精神分析家は、この積みすぎこそ作家を導く関心をまぎれもなく示す契機だととるべきである。」
ガストン・バシュラール「石化の夢想」(及川馥・訳『大地と意志の夢想』思潮社、1972年)その2
このブログで「岩石の哲学」を追っている理由は、そういった無神経な読者の一人である私が、石を動作主と表現する"シャーマン(私から見て、異形なるもの)"を"シャーマン"のままにしないために、橋渡しとして取り組んでいる。
――フィレンツェの大理石は、十六、十七世紀のヨーロッパでブームを巻きおこした。(中略)貴族たちは、丘や木々、森や小川、雲や稲妻が一層はっきりと絵のように見える石をもとめて四方八方手を尽くした。
フィレンツェの大理石は、もともとは実際に絵が描かれているわけではない。
そう見える石を、もっと見えるように、後から手を加えることはあった。
――「絵入りの石」は当時の学者の手にあまる存在で、人々は魔術的解釈にながれる傾向があった。
これも、美しい美術品と、魔術的な対象の狭間に漂う石の一種である。
こういった石への錯視は、ヨーロッパ特有の話かというと、そうでもなく、日本でもあるのだから、私たちにも身近な話だ。
――日本でも「文字石」と称して、文字が浮かびあがった石を珍重する風習があった。(中略)それらのほとんどは吉祥の文字で、円、天、大、大吉など、ほかには、妙法、もろもろの梵字など宗教にちなんだ文字も少なくない。
ヨーロッパではキリスト教世界観の中で人が石を読み取り、日本では仏教などの日本ならではの文化的味付けに基づいて、石が読み取られていく。
現代でも、人が石に、何か深いメッセージを読み取ってしまう場面をみかけることがある。
研究家に、多い。
フィレンツェの大理石、日本の文字石の例が示すように、その人が読み取ったメッセージは、そのままその人のバックボーンを映している。
――石の名前を注意ぶかく見ていくと、実に多くの名前が物語の様子を携えていることに気がつく。
今でも、ゴジラ岩やUFO岩など、現代ならではのバックボーンで出た物語が生まれつづけている。
時代ごとの文化を岩石から読み取るのも、面白いテーマになる。
けれど、後天的な知識の上で物語られた部分をすくい取って、バシュラールが言うところの、石という物質そのものが持っている想像力から端を発する基層の部分がないか。
フィレンツェと、文字石と、UFO岩の基層を求めていきたい。
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