※上地図は宮山磐座の位置を表示。
一つ山祭と三つ山祭
播磨国一宮・伊和神社を、宮山(514m)・花咲山(637m)・白倉山(841m)・高畑山(470m)の4つの山が囲む。
伊和神社とこれらの山々には、数十年周期での神事が残っている。
21年に1回、「一つ山祭」が宮山で催行される。
61年に1回、甲子年ごとに「三つ山祭」が花咲山・白倉山・高畑山(伊和三山)で催行される。
この神事への地元での意気込みを、遠山正雄の「『いはくら』について」 (1935年)ではこう表現している。引用しよう。
「氏子の慣習としては、一代一度この六十年目に行はるる、三ッ山祭に遭遇する事を無上の幸慶、子孫に対する至極の副業として居り、この三ッ山祭の期日近づけば、六十年間放任して居た山道を、嶮峻何のその、跡方殆ど分らぬ荊棘も何の苦ぞといふ風に、狂喜して道付けを勤み、やがて山道に幟旗を樹連ね、頂上の小祠(木製).を改造し、夜の目も眠らぬ風情でその日の来るを待ち設け、愈々祭日来ると老幼男女の別なく、阪を押上げ曳上げ、岩角を攀ぢつ扶けつ、一ヶ月許りは蟻の行列のやうに絡繹として巡拝する事、今も変わらないそうです。」
60年に一度、山道を開き山上の祠をまつるという形式から、山上の神を里に招く山岳祭祀の遺風を忠実に見て取ることができる。
遠山の報告によると、宮山・花咲山・白倉山・高畑山のそれぞれに磐座と思しき岩石群があるといい、実際に遠山は山を登りそれらを実見している。
写真は掲載されていないが、伊和三山の磐座について詳しくは参考文献を参照されたい。
ただ遠山は、当時の伊和神社宮司の小林盛哉の話として、下記を書き残しているので、これだけは紹介しておこう。
「祭典の直会席上、古老に聞糺したる処によれば、シラクラヤマと称するは此頃の若者が転訛した名称で、従来は正しくイワクラヤマと称したるなり」
伊和神社から望む高畑山
伊和神社の鶴石
欽明天皇の御代、大神、伊和恒郷に託宣あり。
「是より西方に当りて霊地あり、古の如く我が神霊を祀るべし」と。
即ち翌朝至り見るに白鶴二双、巨石の上に停立し、北方に向ひて眠れり。因ってその石の上に神殿を造営せり。
其の後、社殿現在の位置に移され「鶴石」と称し、一般の信仰せらるるに至りしなりと。今社殿の北向なるも此の伝説に因るならんか。
石の上に社を立てるという社伝から、石の上に神宿る磐座の違例であることは疑いない。
宮山の磐座
麓から30分ほど登ると、このような巨岩群が現われる。
遠山正雄の表現を借りると、この巨岩群は三階段状になっており、最下段が上写真、そして中段に下写真の岩屋状の構造物がある。
自然の巨岩を庇として、その岩陰に祠をまつっている。
祠内には「伊和大神」と書かれた神札がまつられ、現地標識にはここが伊和神社の一つ山祭の祠と表示されている。
しかし、遠山正雄が聞き取りした当時の情報をここで書き添えておくと、ここはかつて妙見祠と呼ばれ、祠の「扉のかげに瓦焼き製の道士姿の立像を立ててある」のを「高さ一尺四五寸のもの。之ぞ俗に妙見サンと崇める」という。
ならびに、遠山が当時の神職に聞いたところによると、「今は神社と(国幣中社伊和神社)何らの関係なし」との返答だった。
現在の祭祀状態と、戦前の祭祀状態に、開きがあることを認めなければならない。
推測だが、遠山の探訪によって、この妙見祠が「伊和神社の鎮座前の元宮磐座」と位置付けられ、宮山の一つ山祭の祠に置き換わったのかもしれない。
なぜなら、遠山は前掲論文の結語で、こう推定しているからだ。
「これだけの実査を以て、伊和神社境内及祭祀の現状に対照するに及んで、どうも伊和神社はこの宮山の、岩座から下遷座申上げたものと疑はれてなりません。」
換言すれば、遠山論文当時は「宮山の磐座≠伊和神社の元宮」であることを前提とした物言いであり、遠山論文によって地元の伝承は固定化され、現在ではあたかも古くからの話であるかのように、「宮山の磐座=伊和神社の元宮」のイメージが浸透している。
今の研究者には、このような繰り返しがないように、自省の参考として記しておきたい。
巨岩群の最上段にも、倒壊した祠らしきものがある。
こちらのほうが、一つ山祭の対象だったかもしれない。
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