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2017年10月12日木曜日

北山耕平「石のように考える」(【石の時代】石のように考える)~『石の神秘力』を読む その2~

――彼(女)らはその植物のどういう成分がその病に効くのかということにはまったく興味も関心もない。「そんなものはたいして重要ではない」とさえ言う人もいる。彼(女)らの生きている世界では、病気を治すものはあくまでもその植物のスピリットであり、そのスピリットの力を借り受けることで、癒しは達成されるのである。
彼(女)らとは、シャーマンのことを指す。
シャーマンのことを「メディスンマン」と呼ぶことがある。

ネイティブアメリカンのシャーマンに対してそう呼ばれることがあるのだが、北山氏によると、この場合の「メディスン」は単に「薬」を意味するのではなく、「不思議な力を持つもの」という意味合いを込めているのだという。

不思議な力には、良い面と悪い面の両面がある。
メディスンマンとは、メディスンの良いスピリットと悪いスピリットを見極められる人を指すのであり、薬の場合なら、その植物のスピリットとコミュニケートできるのがシャーマンということになる。

何にとって良い/悪いのかと言えば、あくまでも救いを求めに来る患者や祈願者の内容にとって、であろう。
したがって、ある人には良いスピリットは、ある人には悪いスピリットになりうる。
二面性の価値観は、常に逆転し合う。

――彼(女)らの用いていた薬草から、現在わたしたちが使う「薬剤」のいかに多くが抽出されているかを知れば、そうした知識がたんなるまやかしの類ではないことに気がつくはずである。

スピリットのコミュニケーターであるシャーマン自身も、ある人は良いシャーマンであり、ある人にとっては悪いシャーマンとなるだろう。

善悪の価値観というものは、 人の数だけ逆転する可能性のあるものとして理解しておくことが、いらぬ勘違いを生まないために必要な学びではないだろうか?

極端な事実を言えば、偽の信仰で救われる人もいる。
大多数から見れば悪と見えることも、身内の中では善となる。その事実自体は性質上、否定できるものではない。

一般的には、多数の人々が悪(あるいは無関心)とみなすことが多い世界であるからこそ、シャーマニズムを含めた「宗教」なる世界は「まやかし」に映るのだと理解したい。

10000人の人のなかで、1人にだけ響いたものを「まやかし」と捉えるのかどうかが、捉える側に試されている。

個人宅でまつられている岩石など、その最たるものの一例だと私は考えている。

――石は「世界で一番の年寄りだ」とアメリカ・インディアンの人たちは教えてくれる。むりやりこちらの意志を押しつければ、相手だって沈黙する。そんなのは尊敬をもった接し方ではない。即座に反応を返してくるものばかりとは限らないし、それにこちらの尋ねたいことだけを聞いて、相手の言いたいことには耳を貸さないのでは、相手もすぐには秘密を教えてはくれまい。なによりも尊敬すること。(中略)どうかそのことだけは忘れないでください。

北山氏は、石を理解しようとするためには、石とコミュニケートしなくてはいけないと述べる。

そのコミュニケーションに必要なのが、敬意を払えるかどうかということ。
石でなくても、ここは相手が人でも動物でも同じで、石を通して人生の学びにつながっている。

石を理解しようという表現自体が、相手にとっては不遜な態度かもしれない。

同様に、石とコミュニケートすることは、石を所有することと同義ではないはずだ。

動物と違うのは、石は「相手の言いたいこと」に耳を貸したくても、声にして発してくれないことで、コミュニケートしようと思ったら、難しさは格段にレベルが高い。

人は声を出して、石は声を出さない時点で、コミュニケーションは同等ではない。
この差を、人が上で石は下とみなすか、石を「世界で一番の年寄り」と考えて石を上位に置いて敬意的な接し方を選択するかが試されている。

また、敬意を持つことで、石がきっちり反応を返してくれるということをあらかじめ信じられるかどうか。
「ないもの」を「あるもの」と信じられるか、が分かれ目かもしれない。

正直に言えば、私は、まだ「ないもの」をあらかじめ信じることができない。
信じないが、私は「ないもの」を「見えないもの」と言いかえたい。
見えないものはわからないので、わからないことがあると認めることで、 石を「得体のしれないもの」という対象として敬意を持つように、自分を落ち着けている。

北山氏の意図する敬意とは異なるものになっていると思うが、これが自分に嘘をつかず、石にも失礼のない態度をとるための、現段階の精一杯の表現である。

――人がどんな石に惹かれるかはさまざまである。ある人はターコイズ(トルコ石)の入った指輪に関心を示すかと思えば、別の人はアメジストのペンダントに異様な興味をもったり、真珠のイヤリングを忘れると落ち着かない人もいる。かと思えば、そうした値の張る石などには一切目もくれずに、たまたま道端に落ちていた奇妙な形の石ころを拾い上げて、これを後生大事に袋に入れて身に付ける人もあるかもしれない。

北山氏はこれを、石が発する周波数の違いだと説明する。
宝石が貴重なものとされた理由は、とりわけ周波数の違いがよく分かる石だったからだという。

「水晶(クオーツ・クリスタル)の結晶構造は、サファイアを含んだ鉱物とはまったく異なる波長を送り出していることぐらい、二つを前にしてみれば、たちどころに理解できよう。」と北山氏は述べるが、すみません、これは私にはわからない。

実際的な効果があるのなら、ぜひ岩石ごとでの周波数の違いを研究された成果を見てみたい。
科学的な方法で見られる性質のものなのかという点が、疑り深い人間としては気になるところである。

あまり、岩石に対してわかったようにものする態度も、失礼だと私は考えているからだ。

――覚えておかなくてはならないことは、どんなものであれあなたが石を見つけるのではなく、石のほうがあなたを見つけるのだということである。あなたが石を選ぶのではなく、石があなたを選ぶのだ。まあ、へたに宝石などは人からもらわないほうがよい。もちろん、そうやってありがたく引き継いだ石が、自分にとってぴったりの場合もないわけではないところが、そもそも石の不思議なところではあるのだが。

北山氏がネイティブ・アメリカンのナバホ族部族保留地にあるターコイズ専門店から聞いた話によると、現地のナバホ族は皺だらけの模様が入ったターコイズを好むが、たとえば日本からくる石のバイヤーたちは皺のない真っ青なブルーのターコイズを好むらしい。

これを、後天的な文化的影響の違いによるものと見るかどうか。

その時、合わないと思った石が、年を経ると、合うようになるのであれば、後天的な影響によるものだろう。

これに対し、本来、先天的なものであるはずの、岩石が持つ周波数の違いがどう噛みあうことになるのか。
良いスピリットは、悪いスピリットになりうるし、その逆もあるという冒頭の話と共鳴する。

とりあえず疑問を呈したいのは、 ダイヤモンドなら○○の効果があり、メノウなら○○の効果がある、といった紋切りかつ一問一答な診断が、まったく当てにならないこと。

北山氏に言わせれば「すべての石は独自の傾向と波長」があり、「この宇宙には同じ石など二つとない」のだそうだ。
石の露出のしかたや、切り出され方で、石の波長が変わると言っていることに他ならない。

これは、周波数という科学的な概念の中で、説明できるのか?

縄文時代の日本では翡翠が珍重されたと考古学は言うが、ならば、それは石の持つ先天的な周波数によるものなのか、当時の人々が育てた後天的文化の影響によるものか。

人というものはえてして周りの人から影響を受けやすい生き物だから、石の持つ性質とは別個で、人が人から受ける心理変化もあったのではないかと思うが、それが「時代」という後天的の最たるものである。

石を知るためには、たえず時代ごとの人の後天的影響に考えをおよぼさなくてはいけない。

――相手は地球で最長老のグランドファーザーなのだ。そのことを忘れてはいけない。とんでもなくわがままで、取っ付きにくい相手かもしれないが、こちらがその気難しさを含むすべてを愛情をもって受け入れることができなければ、およそ本当のことなど教えてくれるものではない。

私にとっては、グランドファーザーの石に向き合う前に、有象無象の人間の感情が前にそびえ立っている気がしてならない。

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