――「この石はかわいそうだよ。いじけている」石の意志と生命を直観できるO氏は、まず石を愛することが大切と語ってくれた。
O氏は、著者の綾部霞作氏の知人であり、石と話ができる"一般人"だという。
綾部氏がいうところでは、宗教的なことやオカルト的なことを信じているわけではないが、「超能力を否定しつつ心の奥底では"信じたい"と叫んでいるというフーディニ的人格を内包」する人物と評する。
フーディニとは、20世紀初頭に活躍したユダヤ人の奇術師のことだろうか。超能力や霊能力のいかさまやからくりを暴露するマジシャンのような立ち位置の人だった。
そんなフーディニも、内心では"解きあかせないような力"に出会うことを待ち望んでいたのだろうか?
O氏も、今ある科学が万全だとは思わないものの、科学では証明できないものを安易に信じ込むこともない、理性的な人といったところかもしれない。
そんなO氏が真摯に語ったという「石の生態」を、綾部氏が次の5点にまとめてくれているので紹介したい。
- 人間や動物とは異なる生態ではあるらしいが、石にも「生命」がある。
- 石には「個性」がある。周辺の出来事に関する情報を記憶する。
- 石は、目に見えないが、周囲の事物に対して何かしらの「働き」を持っている。その中にいわゆるパワーストーン的な働きも含まれている。
- 石の「働き」には限界があるので、石に過大な役目を押しつけないこと。また、石には「意志」があるので、石を奴隷化してはよくない。
- 石の「個性」「働き」は個々に内容が異なるので、それをよくわきまえてつきあうこと。
O氏は、石を友達であると表現する。
友達だから、過大な要求をすると、石は「冬眠」するらしい。
O氏がいう、友達づきあいのしかたとはなんだろうか?
- まず石を愛するという気持ちを持つ。
- 石を所有物と思わずに、飾る、身につける、じっとみつめる、握るなどする。
- 石を見る時は、特別な角度で精神集中する必要がある。
- そうすると、石は本当に美しく輝くのだという。
これはまだ人間本位な考え方なのではないか?
所有した石がなぜ友達なのか?
石が、ある人を待ち続けていたかのように、ある人の"快"の目的のために心を開き、会話をするということがありうるのか?
この疑問は大切にしつつも、正解は現時点ではわからないので、とりあえず保留としておく。
石の哲学を学び続けることで、いつか氷解したい。
綾部氏は、モノとイキモノを区別しないことが、石と話ができる第一歩ではないかと考える。
モノは一ヶ所にとどまって変化がない。
イキモノは、動いて成長する。
言ってしまえばそれだけの違い。
これは目に見える差というだけであり、生命の有無を証明する絶対条件ではないのだ。
五感のうち、視覚だけに偏重しなかっただろう古代人や、感受性の高い人々がいたことは疑いない。
彼らには目以外の他の感覚あるいは第六感が秀でており、目に見えないところで生命をとらえることができた。
人間の心を研究する者は、研究者自身の感受性を高めることから逃れることはできない、そんな局面に来ている。
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