和歌山県田辺市本宮町大津荷字津荷谷
俱盧尊佛
村の東谷にあり高さ十餘丈の巌をいふなり疱瘡神と崇む又鉾島ともいふ邑民奉祭する者より疱瘡護符を出す
(天保10年、1839年完成『紀伊続風土記』http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765519 国立国会図書館デジタルコレクション108ページ参照)
現地では黒尊佛(黒尊仏)とも表記されるこの場所は、インターネット上でもいくつか探訪記がUPされているが、これらの記述だけでたどりつくのは至難ではないか?
何を隠そう、私は各インターネットページを参照した上で昨夏に一度現地を数時間探索しましたが、見つけることができずに一度断念しています。
その後、現地を知る方から詳細な道順を教えていただき、先月末に再訪を決意。
結果、これでも一発では辿りつけず、迷ってしまいました。
発狂しながらあちらこちらの谷をしらみつぶしに踏み入った結果、何とか発見。
半年越しの報告と相成ったわけです。
苦労して見つけると達成感はあるものの、それはある種の勘違いでしょう。
プレーンな気持ちで、岩石を見ることをおすすめします。
思わせぶりな記述で濁して後続の方には同じ思いをさせたくないですし、あちこちに踏み跡をつけることが良いこととは思わないので、ここにできる限り詳しい行程を掲載しておきます。
道は、歩かれてこそ道になるのです。
黒尊佛へのアクセスルート
ということで、さっそく出し惜しみせず黒尊佛へのルート図を掲載します。
(以下、一度見た方向けではなく、初見の方向けに書きます)
正確な縮尺ではないのであしからず。
林道終点から、沢沿いを進む道と斜面上を行く道の大きく2ルートあるのが、逆に迷わせます。
終点すぐに坂を登り斜面上を進むルートの方が、結果としては分かりやすいです。ただ、最初の踏み跡が細くて分岐も多いので、初見で正しいルートを見つけられるかが運命の分かれ目だと思います。
何回か渡河することになりますが、増水していなければ足をぬらさずに、じゅうぶん渡れる沢です。
(雨天翌日など、増水時は渡れないとの情報もあるので注意。当日だけでなく前日の天候も考慮してください)
黒尊佛への取りつき口となる林道大津荷線。
軽自動車なら林道終点まで入ってOKだと思います。
大小の落石があるので、車の底は傷をつける覚悟でどうぞ。
私は国道からの分岐に車を置いて、この林道を歩きました。終点まで徒歩約40分。
途中に集落跡があります。
かつてあった津荷谷村の遺構とみられています。
(「村影弥太郎の集落紀行――津荷谷」http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/30.Wakayama/Hongu_Tsugadani.html)
林道終点。写真中央奥に、ピンクのテープが巻かれた木が2本あり、その間からいよいよ山道となります。
なお、ピンクテープが巻かれた木は随所に登場しますが、これは複数の作業道で多用されているので、これを信じて歩いていってもたどりつくことは困難です。
2018.1探訪時 |
まずは沢沿いルートです。
(略地図を適宜参照してください)
すぐにこのような看板と沢に出会います。
実は昨夏に訪れた時は、この沢に丸太橋がかかっていました(下写真)
2017.8探訪時 |
いつからかかっていた橋かはわかりませんが、たった半年足らずで光景が変わってしまいました。
でも、橋がなくても沢を直接渡河できますのでご安心を。
沢の対岸は、平らでしっかりとした踏み跡が沢沿いに続きます。
しかし10分ほど歩いていると突然終わりが来ます。
写真が光で飛んでいてすみませんが、川の合流点のような場所で道が消失します。
(左から別の沢が合流する感じ)
唯一先に行けそうなのが、沢の左岸左奥側。
そこで再び渡河して左から合流する沢沿いに上流方面へ向かおうとしますが、大きな岩が沢を塞ぐようにどんと鎮座しており、無理をすれば行けないことないが、その先の保証がない状態で無謀に進みたくない、そんなギリギリの景色。
結果から言えば、ここをむりやり進めば黒尊佛のほうへ行けるのですが、その時の私はビビったというか、「こんな踏み跡とも思えない先に、黒尊佛への正しい道はつながっていないのでは?」と思って、周りをうろうろ観察。
すると、その左から合流してきた沢の左斜面の上の方に、なんだか作業道のようなものが見えるのです。
これがまた、本当に山道なのかどうかが、少し自信のない微妙な見え方。
急斜面のため、一度登ってもし違っていたら、今度は下るのがキツい傾斜でした。
他にアテがないため、逡巡した挙句、急斜面を登りました。
結果、正解。しっかり歩かれている山道に取りつくことができました。
一度見つけてしまえば、この山道で林道終点側に戻ることもできます。これが、斜面上を行くルートです。
この斜面上ルートの方が、林道終点から道は見つかりにくいですが、先述したような沢沿いルートの渡河も急斜面登りもしなくてすむので、今から斜面上のルートも教えます。
まず、林道終点のピンクテープ2本の間を入るのは同じ。
しかし、2本の間に入ったら、すぐに下写真の細い坂を上がってください。
ピンクテープ左側の幹の真後ろに見える細い坂が見えますか?これです。 |
これです!(写真真ん中) |
文章では説明しにくいので、略地図のように、何段か上に上がってください。他の道のようなものに惑わされてはいけません。
ブルーシートの残骸のようなものが見えてきたら、それを超えればゴールです。
(ただしこのブルーシートいつまで残っているか・・・)
ブルーシート横を通り過ぎて坂を登ったら、登りつめた所に山道が一本通っています。
登って左に行くと谷間があり、黒尊佛とは違う方向に行くので、右へつづら折りのように鋭角に曲がります。
この山道を進むと、途中で谷間に丸太橋を渡してある場所を通過します。
この橋はまだ歩ける状態ですが、いつまであるか。
これがなくなったら、谷間を下り上りですが、ちょっと危ないルートになってしまうかも。
橋を渡ってしばらく歩けば、私が沢沿いのルートから無理やり急斜面を上がった先の山道につながります。
では、話を戻してその先を案内します。
下のような看板が出てきます。
こんな看板に出会うとうれしいですよね。
右下に降りる道があります。看板の矢印に従い、右下に降りてください。
沢まで降りれます。
沢沿いにまだ道が続いているので、ノーヒントだと、ついついこの沢沿いに上流に向かってしまうのですが・・・これが罠です。
この"自然な"沢沿いの踏み跡は黒尊佛への道ではなく、 どこか別の場所へ行ってしまいます(略地図参照)
なまじ作業道として使われていたようなので、私は2度目の探訪時、この上流の奥まで行ってしまいどん詰まり、万事休すになりました。
この自然な道を疑い、看板のところまで戻ってくるという決断を下すことが一番大変でした。
さて、正解のルートは、斜面を下った後に出会う上写真の沢を「渡河する」です。
・・・ここに看板が1つ欲しいです・・・。
上写真をご覧ください。写真の右奥にピンクテープが巻かれた木がありますね。
平らな植林地帯の様相を呈しており、よく見ると沢の際に石垣も見えます。
これが目印です。
植林が凄いので、伐採用の作業道ではないか?と半信半疑でしたが、もはや万事休すの私は、この道をダメもとで進んでみることにしました。
このルートが正解でした。
このような、伐採林の中を5分ほど歩きます。
本当にあるのか?と自分の中の疑心暗鬼と戦いつづけていると、
看板が木の脇にもたれかかっています。
まさに、見つけた時の気持ちは「南無・・・」
他のネットページの皆さん、この看板に出会うまでのルート、省略しすぎです。
「祭 毎年旧1月18日」の文字が。
新暦で言うと3月5日?私の誕生日です・・・。それはどうでもいいですが、縁ですね。
現在の様子を見るかぎり、もはやこの祭りは途絶えています。
千手観音に見立てられた信仰でもあるのだということを知ることができる、貴重な情報源としての看板です。
この看板を見つければ、もうゴールインしたも同じ。
看板横の踏み跡を3分も進めば黒尊佛と出会います。
黒尊佛の現状と歴史的記録
ファーストインプレッション。沢沿いに屹立する存在。
正面はこちらでしょうか。
かつてまつられていた時の設備が残されています。
クレーター状の窪みが蜂の巣状に広がっている、独特な外貌をしています。
黒尊佛の頂部
やや遠巻きから、黒尊佛の祭祀場の全景を映そうとしますが、まったく一枚に収められません。
いつものことですが、現地のスケール感が写真ではまったくつたわりません。
そこで、動画もUPしますので、参考としてください。
当日、小雨が降るなか、雨カッパ着用で撮影。
それにしても、一種のおどろおどろしさ、生々しさのようなものを無機物であるはずの岩石から感じます。
特にこの窪み様と下部の黒光りする岩肌に、黒尊および疱瘡神としての神格を感じずにはいられません。
地質学的には、熊野地域に広がる熊野層群の中に局所的にマグマが噴出した火成岩の名残で、石英斑岩の岩質とのこと。
(田辺ジオパーク研究会「地質遺産の物語 田辺・みなべ編 №40 黒尊仏」http://tajiken.org/topics/topics.cgi?pg=10 紀伊民報の記事ありhttp://tajiken.org/topics/img/122-2.jpg)
この記事によると、地元の古老格の方の貴重な証言として
- 津荷谷村の村人がまつっていた。
- 元々は社があった。
- 旧暦1/18の祭では、のぼりをたてて太鼓を打ちながらしながら参詣し、赤飯と餅をお供えしていた。
- 1953年7月の水害で社が流されて、この祭りは途絶えた。
- 1990年に元村人が中心となり祭を復活させたが、約15年ほどで高齢化などの理由で再び途絶える。
- 2011年9月までは鉄製の鳥居や石灯籠が健在だったが、同月の水害によりこれらも流され今に至る。
たしかに、現在残る祭祀設備は残骸の様相です。
御神燈ですから、本来は上部があり、現在は下部のみ残存。
安政六未四月(1859年)の銘があります。貴重な文化財のはずです。
願主名、所属、地区名も。
ビール瓶。いつぞやの祭の遺物でしょうか。
火を起こしていたのでしょうか。
黒尊佛の下部は黒光りし、岩肌をえぐるように沢が流れます。
清浄な沢ですが、水害の爪痕を残すかのように、へし折れた草木が無秩序に散乱しています。
鳥居や灯籠の残骸もこの辺りに落ち込んでいるのでしょうか。
一方、生き残った一部の祭祀施設。
黒尊佛に隣接して、このような露岩群が斜面上方にかけて広がっています。
上流側から映した黒尊佛の遠景。
「鉾島」の名前にふさわしいと思います。
黒尊佛を沢を挟んだ向かい側には、このような(写真では伝わりにくいですが)一大岩盤がそそり立っています。
始め、こちらが黒尊佛かと勘違いしたほどの存在感です。
ネットページによっては、こちらの岩盤のほうが元来の祀り場であるという記述も見かけましたが、「津荷谷の地元の方の証言・記録に立脚しているか」で批判的に臨む必要があります。
検証可能な資料や出典元でない限り、その直観に私は乗れません。
その直観自体は現代の新たな信仰として肯定しますが、「古来の信仰・歴史が何であったか」をかき乱す危険性と覚悟も自覚して、それを言っているのかということです。
すべては、黒尊佛を現代につなぎわたした津荷谷の方々を最優先にして、この黒尊佛に接するべきです。