三重県伊勢市宇治館町字岩井田山
通称「内宮の磐座」と呼ばれ、イワクラ学会でも公開の可否に物議を醸したといわれるが、今はインターネットなどでも訪れる人が続出し、その存在が広まっているようである。
その実情はどうであるのか、情報が錯綜する前に、この機会にまとめておく。
現地の様子
神宮司庁の北入口にこんもりとした丘があり、道路沿いからも森の中に巨岩が見えている。
石橋も架けられており、特に何も隠されてはいない。
この丘の一帯は少なくとも江戸時代から岩井戸山と呼ばれ、朝熊山の登山口の一つとして知られていた。
数体の巨岩が群集している。
丘の頂部ではなく、直下の斜面に立地している。
1体の巨岩はそそりたっており、高さ6mを超えると推測される。
巨岩群のすぐ上は平らな頂面が広がる。
伊勢神宮の式年遷宮の折、神宮御用材を伐採するためための祭祀として山口祭がここで催行される。
この巨岩群について触れられている文献
1.『宇治郷之図』
文久元年(1861年)に描かれた『宇治郷之図』に、この巨岩の絵が図示されている。
伊勢古地図研究会編『宇治郷之圖』(伊勢文化会議所、1997年)より引用 |
この絵図について解説を加える伊勢古地図研究会が、同書でこの巨岩群について次のように言及している。
「現在は本絵図の示す位置に神社はないが、その位置に巨岩があり、近世以後内宮の遷宮諸祭のうちの山口祭がこの岩(巌)の傍らで行なわれている。異説があるため断定には至っていないが、この地が神宮末社の岩井神社の跡地であるともいわれている。末社の岩井神社は倭姫命が定められたとの伝承をもつ神社であり、祭神は高水上命であるが、古くに社殿は廃絶しており、現在は津長神社に同座している。」(伊勢古地図研究会編『宇治郷之圖』伊勢文化会議所、1997年)
2.『皇大神宮儀式帳』
岩井神社は、延暦23年(804年)完成の『皇大神宮儀式帳』において、「石井(イハヰ)神社 大水神兒高水上命形石坐」として記されている。
大水神の兒(児)である高水上命(タカミナカミノミコト)は、伊勢神宮の公式見解によれば石清水の神とされ、石と水の両属性を神名としたのが石井となる。
同文献では、伊勢神宮の摂末社の多くが「形石坐(みかたいしにます)」と記されており、石積みや石畳に神をまつる祭祀が盛んだったことがわかる。
だから、とりたてて石井神社だけが石のまつり場というわけではないのだが、他と違い自然の巨岩群をまつる摂末社は石井神社だけのようである。
以上の点をふまえると、この岩の文献上最古の記述は「高水上命形石坐」にあると結論づけられる。
読み下しとしては「高水上命の形は石に坐す」であり、名称化するなら「高水上命の形石(みかたいし)」がまず第一に挙げられるが、「石に坐す」とはつまり「石坐(いわくら)」であり、その点では「高水上命形の石坐」という名称でも良いかもしれない。
3.伊勢参宮名所図会
そのほか、寛政9年(1797年)刊行の『伊勢参宮名所図会』にも、この巨岩群は登場する。
国立国会図書館デジタルコレクションより(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952764) |
画像の左上に、岩の絵と共に「岩やしろ」と書かれている。
同書には「石井神社 石井田山にあり これを巖の社とも云」(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952764)と紹介されており、「巖の社」もこの巨岩群を表す名称として認められるだろう。
4.勢陽五鈴遺響
江戸時代の伊勢国の郷土資料として知られる1833年(天保4年)完成の『勢陽五鈴遺響』にも、石井神社と巌社の関係が記されている。
「巖社遥拝所 祓所ノ南ノ石畳ナリ 今此処ヲ神域ノ第一ナル故ニ方俗一ノ宮ト称ス 是本祠ハ館町ノ北東岩井田ニアル石井神社也」(安岡親毅著・倉田正邦校訂『勢陽五鈴遺響』5、三重県郷土資料刊行会、1978年)
石井神社が江戸時代当時、俗称として巖社(巖の社)と呼ばれていたことは、これで複数の文献に記載されていることから明らかである。
その巖社にはさらに遥拝所があり、それは内宮の一の鳥居の内側の神域に石畳の形で設置されていた。
鳥居内の神域内の最初のまつり場という意味で、一ノ宮と呼ばれていたというのも興味深い情報である。
5.櫻井勝之進『伊勢神宮』
櫻井勝之進『伊勢神宮』(学生社、1969年)によれば、巖社遥拝所をはじめとする、神宮境内のあちこちに増設されていった石畳や石積は、四至神や瀧祭神など一部を除いてほとんどが、明治時代になって整理(撤去)されたという。
話の本筋からは脇にそれるが、これらの石畳・石積について櫻井氏は次のように述べている。
「(四至神などの)祭壇には榊の根もとに特徴のある形をした石が若干据えられている。これに眼をとめて、神道では石を拝むのかと問う人もいる。また、すこし古典にくわしい人は、さすがに伊勢には古代のイワクラが生きているともいう。どちらも早とちりであることはいうまでもないが、説き明かすのには時間がかかる。」(櫻井勝之進『伊勢神宮』学生社、1969年)
これらの石はイワクラではないという意見であり、早とちりなのは言うまでもないとのことだが、いや、言うまでもないというような簡単な問いではないだろう。
櫻井氏が何も説明してくれないので勝手な推測となるが、おそらく、人為的に設置した石の祭祀施設は、自然石としての磐座神の信仰とは異なるという考え方なのだろう。
とすれば何となく言いたいこともわかるのだが、思わせぶりな言い方で論拠を明かさないこの書き方はやや閉口する。また、磐座=自然石と決まっているわけでもないので、論が通っているとも言い難い。
同書では石井神社の巨岩群については明言していないが、一言、「岩井田には末社石井神社の旧跡があり」と記している。旧跡=巨岩のことだろうか。
6.木村政生『神宮御杣山の変遷に関する研究』
木村政生『神宮御杣山の変遷に関する研究』(国書刊行会、2001年)は、その名のとおり神宮御用材を切り出す山である御杣山についての研究書であり、ここにも石井神社旧跡の名が出てくる。
「遷宮最初の祭である山口祭が、内宮は神路山の入口にある岩井田山の石井神社旧跡の地で行われ、一方、外宮は高倉山の麓である神域内の土宮の東南において執り行われるのは、古来の御杣の山口に当るためであり、現在までの例になっていることによっても考えられる。」(木村政生『神宮御杣山の変遷に関する研究』国書刊行会、2001年)
岩井田山にある旧跡で山口祭が行われる・・・これだけの条件が揃えば、旧跡とは、巨岩群を指すと考えてまず間違いはないだろう。
したがって、伊勢古地図研究会が「異説があるため断定には至っていないが」と慎重を期した記述にとどめているものの、実際に絵図には「岩井神社」とも書いてあるのだから、巨岩群が平安時代『皇大神宮儀式帳』以来のまつり場である石井神社/岩井神社/巖社/岩やしろであることは認めてもいいのではないか。
山口祭の場所に選ばれ、内宮正殿のほぼ真北に位置するという意味深な場所ではあるが、これまで見てきたように、決して当地は隠された場所でも公開に物議を醸すような場所ではない。
明治時代に石井神社は近くの津長神社に合祀されたことから、巨岩群での祭祀の足跡は姿を消したように見えるが、それは単に私たちの耳に入っていないだけで、調べれば古文献や絵図に明記され、現在でも伊勢神宮を専門とする研究者には周知の場所だった。
いたずらに陰謀論的な世界観に陥る前に、まずは虚心に先人の残した歴史を調べてからにしたい。そうしないと、歴史が曇ってしまい歴史に失礼なことになる。
私は、この巨岩群のために「内宮の磐座」という、先人が呼んでこなかったセンセーショナルな名前には与しない。
この磐座の真東に朝熊山頂上が位置します。
返信削除途中の山で直視できませんが、緯度は同じです。
真東の朝熊山頂から昇る太陽を拝む縄文からの原始崇拝の場所だったかもしれませんね。