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2018年3月23日金曜日

新道岩陰遺跡(三重県亀山市関町)


三重県亀山市関町新所字新道

■ 遺跡の立地


当遺跡は、鈴鹿川沿いの岩陰から、古墳時代前期(4世紀)の遺物が見つかった遺跡である。
祭祀遺跡・葬送遺跡・生活遺跡などの各説が入り乱れ、遺跡の性格は特定できていない。

遺跡は東海道の宿場町で著名な関宿に近接しており、遺跡の北100mには現・東海道、南200mには古代東海道の推定ルートが存在している。
つまり、当遺跡は交通の要衝にあることが分かるが、遺跡自体は、東海道から川沿いを歩いた中にあって到達には一手間かかる。遺跡への元来の到達手段は川経由だった可能性もあり、4世紀の遺跡ということも踏まえると、古代道との関連性はいまひとつはっきりしない。

遺跡は2つの川の合流点の近くにあり、これも大きな特徴として挙げられる。
鈴鹿山脈から流れてくる鈴鹿川と、伊賀地方から流れてくる加太川の2つが合流する地点があり、その合流点から鈴鹿川を遡っていくと川が大きく湾曲する。その湾曲地点に高さ約21m・幅約30mの長大な岩崖があり、この岩崖の下に僅かに残る平坦地に遺跡が位置する。
岩崖はややオーバーハングしているため庇のようになっており、このことから当遺跡は岩陰遺跡と命名されることになった。

岩崖の前面には落盤岩が折り重なっている。この折り重なりの隙間に、人一人が何とか潜り抜けられる「くぐり穴」があり、調査報告書ではこの「くぐり穴」を使って岩崖下の平坦地に出入りしていたのではないかという可能性を指摘している。
しかし、この落盤岩の形成時期が遺跡の前か後かが判然としていないため推測の域を出ない。

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北から新道岩陰遺跡を望む。前に流れるのが鈴鹿川。

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「くぐり穴」を抜けると、目の前に岩崖と平坦地が出現する。

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遺跡の南側を高所から撮影。岩崖と落盤岩の合間に平坦地が僅かに形成されている。

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遺跡の北側。岩崖(写真左側)が若干オーバーハングしている様子が分かる。

■ 発見された遺物とは


遺物が見つかった場所は、岩陰エリアの中でも特定の一部だけに偏っている。

岩崖の直下に5個の露岩があり、その最も東側の岩石(調査報告書ではA岩と呼称)と岩崖根元の間に砂が充填されており、ここから遺物の大半が見つかった。砂の充填には人為性が認められ、遺物の散布状況に偏りや傾向は認められない。
調査報告書では特に指摘していないが、岩崖下の平坦地の中でのこの発見状況はやや特異であり、原位置というよりかは、後世の再配置・整理の可能性も考えて良いだろう。

見つかった遺物は土師器・動物遺体の2種類に大別される。
土師器は細片を含めると100点以上で、甕が大半を占め、一部に壺と想定される破片、高杯あるいは杯と想定される破片があるが少数。
甕は、考古学の世界でS字甕と通称される濃尾平野で盛行した型式が過半数を占める一方、畿内系と呼ばれる布留式の甕も一定量見つかっており、いわば東海と近畿の両地域の型式が見つかったところに大きな特徴がある。いずれの型式も4世紀の製作と推定されており、これがそのまま遺跡の使用年代の根拠となっている。

動物遺体はタヌキ・シカ・鳥類(ヤマドリもしくはキジ)・カエル・カニ(モクズガニか)・魚類(?)の骨と、貝殻が見つかった。
シカは骨組織内に土が詰まっていたことから、人為的に骨を分離したということであり、食用に供された可能性が高い。
貝殻は58点採取され、中でもハマグリ・アカニシ・フトヘナタリ・ハイガイ・アサリなどの海産性の貝類が43点(74%)を占め、地産ではなく海から持ち込まれた貝類が多いことが特徴と言える。

ほか人為的に研磨したハマグリ製貝製品(貝輪?)が1点見つかっている。

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A岩と崖の間は砂に埋まり、いまだ遺物が散布している。
上写真は誰かが表採して岩石の上に置きっぱなしにされた土器片。
ここに限らずの話だが、遺跡と歴史を守るためには「そのまま」が鉄則。
遺物が眠っていても掘り出さず、手を付けずで。これもそのままにしておいた。

■ 遺跡の性格について


調査報告書では、遺跡の性格について下記の3つを可能性として挙げている。

a.祭祀遺跡(磐座)
b.葬所(人体埋葬地)
c.生活跡(山人等の非農耕民のキャンプ地)

aは岩崖を磐座とみなすものだが、遺物が生活臭の強いもので祭祀遺物と認定できるものがないこと、および磐座の一般的な成立が5世紀と考えられることから報告書では批判的に取り上げられている。
磐座の一般的な成立が5世紀という見解は、あくまでも考古学的に確認できる磐座遺跡が現時点では奈良県三輪山・静岡県渭伊神社境内遺跡・福島県建鉾山遺跡など5世紀を遡らないことによるものであり、金科玉条の鉄則という訳ではない。

それよりも管理人は、岩石の祭祀遺跡=磐座といきなり限定させてしまう、現今の考古学の解釈が気になる。せめて、先行研究として大場磐雄博士が提示した石神・磐境あたりには最低限思考を巡らせていただきたい。
とりわけ、当遺跡は岩崖と落盤岩に囲まれた平坦地という空間的な趣きの強い場なので、磐境要素を抜きにして語ることは考えられない。

bは古墳時代の遺跡でも岩陰・洞窟などにおける人体埋葬の事例があることから可能性が挙げられているが、調査報告書では肝心の人骨が未確認であり、遺物も副葬品としては無理があるとの理由で否定的である。

cは当遺跡の遺物構成から連想される最も素直な解釈であるが、調査報告書では古墳時代にキャンプ遺跡の類例がほぼ未確認であることと、遺跡が古代交通の要衝で東海系・畿内系が混ざり、海産性の貝類が見られるといった特殊性から「なお議論を要する」という結論に落ち着いている。

管理人の考えとしては、まずbは人骨未確認であるため積極的に押すことはできない。
aは岩石祭祀の研究をしている立場としては、逆に極めて慎重に取り扱う必要があると考えている。以下に批判点を列挙しておこう。

・調査報告書が指摘する通り、土器は生活用としての甕が主体であり、祭祀供献用と類推されやすい杯タイプがほとんどない。

・動物遺体も全て食用であり、種類も雑多であり、いわゆる神饌用とみなすにはあまりにも食材のこだわり・偏りがない。

・東海系・畿内系土器の混入、海産性と淡水性の貝類の混入はいずれも流通の範囲を示すものであり、祭祀性などの意味は持ちえない。

・2つの川の合流点に近いことは興味深いが、遺跡地はあくまでも合流点から北上した鈴鹿川沿いという立地であり、また、この地点は古代道沿いではないため古代交通要衝地という性格からも外れる。

・当遺跡に到達する方法は川を渡るパターンと、崖上の斜面から降りてくるパターンが想定されるが、前者は本格的な渡河となりこのようなアクセスをとる岩石祭祀の事例は稀である。また、後者は祭祀対象である岩崖の「上」から進入するというのが祭祀の構図として珍しい。基本的には祭祀対象の「下」から人は拝する。

祭祀遺跡を完全に否定するものではなく、気になる点もあることはあるが、それよりも批判的要素の方が多く、管理人としても祭祀遺跡説は積極的にはなれない。
遺物構成を素直に受け止める限り、現段階において余計な仮定を最も省いた可能性はcになると思う。

■ その他


新道岩陰遺跡の岩陰空間の北方は崖がせり出しており、そのまま北へ歩いていくのは至難だが、北50mほど歩くとまた別個の岩陰空間がある。

ここは岩盤が真っ二つに割れてその亀裂を岩陰空間としており、いわゆる「くぐり穴」的隙間も少なくとも2ヶ所ある。ここが調査されているのかどうかは報告書からは分からないが、ここも遺跡利用されていておかしくない。

ちなみにここには丸石を積んだ石垣や切削痕を持つ岩石などがあり、後世に人の手が介入した場所である。

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遺跡の北方にある別の岩陰空間

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上から下の岩陰を覗いた様子。両端に「くぐり穴」がある。

出典


望月和光・穂積裕昌 『新道岩陰遺跡』(関町埋蔵文化財調査報告書13) 三重県鈴鹿郡関町教育委員会 2003年

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