長野県下伊那郡阿智村
黒川と本谷川が合流し、阿智川になる合流点に阿智神社の奥宮が鎮座する。
奥宮の背後(西)は小丘状に盛り上がっており、これを「河合の陵」(川合の陵)と呼ぶ。
阿智神社祭神であり阿智の祖神である天表春命(アメノウワハルノミコト)の陵としてまつられている。
前宮看板には「奥宮近くの河原から、昔、暖かい水が出てきたといわれている」と記された場所でもある。

丘陵上に1個の岩塊があり、現在「磐座」とみなされている。

現地看板には、この岩石が学者によって古代祭祀の跡であると立証されたと記されているが、学者名が明記されていない。

丘陵上に1個の岩塊があり、現在「磐座」とみなされている。

現地看板には、この岩石が学者によって古代祭祀の跡であると立証されたと記されているが、学者名が明記されていない。
調べたところ、『阿智村誌』上巻(阿智村誌編集委員会、1984年)に詳細が載っており、昭和32年(1957年)に考古学者の大場磐雄博士が現地を訪れ、この巨石は磐座であると証言したとある。
しかし、雑誌『伊那』384号(第8巻第5号、1960年)によれば、
「昭和三十二年九月廿七日、東京国学院大学の大場磐雄博士が(略)この叢林中に必ず磐座の存在すべきを言われたのであるが、その際誰も知るものがなく、たまたま博士の予言によって社殿の裏手ほど近い樹下に、図の如き苔蒸した一個の巨石を発見した」
とある。
これでは、大場博士は巨石を見つけていない状態であり、その当時、地元でこの岩石の存在は「誰も知るものがなく」の状態だったことがわかる。
この森には山王権現という社があり、徳川家光の寄進状が残ることから江戸時代には山王権現として知られていたことが前掲の『阿智村誌』に記されている。
その山王権現の社叢が阿智神社の関係地ということで注目され、岩石が見つかったことからそれを古代祭祀の磐座であろうとみなして、現在は阿智神社奥宮の位置を獲得したということになる。
もちろん、何の所縁もない地というわけではなく、河合の陵と呼ばれ、阿智神社の故地とみなされた神聖な場所だったことに変わりはない。
その中で「古代祭祀の跡を立証」とあるのは、発掘調査で地中から遺物や遺構が見つかったというものではなく、大場博士の直観のようなものでとどまっている。
現在の「阿智神社奥宮の磐座」として「整備」された状態が古式ゆかしい景観のままだったというわけではないことには注意しなければならない。
0 件のコメント:
コメントを投稿
記事にコメントができます。または、本サイトのお問い合わせフォームからもメッセージを送信できます。