2018年6月24日日曜日
堂の穴/堂ノ穴(静岡県伊東市)
静岡県伊東市八幡野
八幡野の海岸に「堂の穴/堂ノ穴」と呼ばれる自然の岩窟がある。
当地をかつて岩倉と呼んだ。
土地の伝承によると、三島大神とその兄弟がこの海岸に来臨、鎮座した場所だという。
別の口碑では、伊波久良和気命が鎮まった岩窟ともいい、式内社・伊波久良和気命社の旧社地とも目されている。
後に、この岩窟に宿っていた神を内陸部に遷座し、そこはいま八幡宮来宮神社としてまつられている。
伊豆に散見される来宮の神のひとつであり、民俗学的には漂着神信仰を伝える場として知られている。
地名と神名の両方に「いわくら」を伝えるが、肝心の洞窟の名は「堂の穴」として伝わる特殊な例である。いわくらの神であり信仰であることは論をまたない。
座席のような宿りかたをする「くら」ではなく、蔵・倉として内部に宿る「くら」と言える。
「堂の穴」は海岸の岩盤が浸食で庇状に削られたものであり、入口が広く開いているため、洞窟というよりは岩陰のような空間を形成している。
岩肌には無数に剥離面・断面が入り乱れており、平滑面には模様のようなグラデーションが走り、岩石信仰としては特徴的である。この岩の自然の造形が信仰と無関係と断じることはできない。
現状、岩窟内には多数の祠や石仏・石碑が林立しており神仏習合の地となっており、それぞれが石の基壇や自然岩の上に建てられている。
また、祠の中には大小の石を献じた跡も残っている。
2018年6月14日木曜日
磐座神社・龍王山・権現山・高巖山(兵庫県相生市)
兵庫県相生市矢野町森字神田
磐座神社という名前は、磐座に降りた神を、後世に神社としてまつったものである。
元々は神が座した岩が、神が見えないからこそだろうか、岩自体が神と同格になり、その岩をまつる神社に転化した。
拝所のこの奉納額の多さと遺存状態が、磐座神社の篤い信仰を今に伝えている。
「社殿背後の権現山を神体山として拝し高座石 座光石 天狗岳を磐座の神と仰ぐ」
降座石の別名もあるという。
「後山ガ万葉集ニヨル矢野神山デ三角錐ノ奇峰」
「天正十一年十一月社殿ヲ現地に創建 岩蔵地蔵権現ト称シタ」
「座光石 此の処に並び立つ座光石は即ち磐座の大神なり 往昔山上より天降り給ふ 磐座神社の名は是に由来す」
磐座神社の境内から後ろの山、いわゆる龍王山、権現山(天狗岳)、高巖山に登るには、この出入口を見つけて登ること。
ルートファインディングのため、国土地理院地形図を持参することが望ましい。
登り口から約20分で、鳥居と巨岩のまつり場に出会う。
ここは磐座神社の裏山に当たる龍王山の尾根上先端。
由緒板に記されていた「龍王社(奥の院) 少童(わたつみ)神 阿弥陀佛」の地である。
元文4年(1739年)の銘をもつ。鳥居の前は切り立つ斜面で道が見当たらないが、信仰の歴史を感じさせる。
巨岩の懐に、少童神をまつる龍王社がある。
周囲の岩々も、聖域を構成する磐境のような感がある。
この巨岩の逆側に回ると、もう一基堂宇が控えている。
これは阿弥陀佛をまつる奥の院である。
つまり、この巨岩は表裏で神と仏をまつりあう神仏習合の地である。
「相生市の伝説(06)-磐座(いわくら)神社の巨岩伝説」(http://www2.aioi-city-lib.com/bunkazai/den_min/den_min/densetu/06.htm)によれば、享保年間に2つの集落がこの岩と山の所有権を争った時、この巨岩に亀裂が入ったという。
複数の集落の聖地であったことが窺われるエピソードである。
龍王山から北に尾根続きで権現山(天狗岳)がそびえる。
山頂直下に大岩壁が広がり、これを天狗岩という。
麓から仰ぐと三角の稜線を描き、神体山や磐座の神と位置付けられていることから、この天狗岩も磐座であることは疑いない。
磐座神社の座光石は山の上から落ちてきた石と言い伝えられているが、それが龍王山の奥の院の巨岩のことか、 この天狗岩のことからは明示されていない。
また、磐座神社からは直接見えないが、権現山のさらに北方には高巖山という山がそびえ、山名のとおりここも巨石累々らしい。ここも含めて磐座神社の聖地とみなされているかはわからない。
神社説明板に書かれていた「高座石」が、今まで触れたどの石に該当するのか、あるいは別の石を指すのかが特定できなかった。
奥の院の巨岩に、特定の名前が付いていない様子でもある。
いずれにしても、山中に遍く存在する山の神が局所的に出現する象徴的な地として石があり、その石が存在する天狗岩、龍王山奥の院、座光石などに、時期ごと、祭祀集団ごとに祭祀の場所を変えながら降臨したのだろう。
伝説上では祭祀の場は山頂から山麓へ移ったかのようだが、禁足地の概念なども踏まえて、史実はどうだったかは即断できない。安易に奥津磐座・中津磐座・辺津磐座の概念を当てはめるのは危険である。
ただ、当地の場合は麓からでも権現山の天狗岩が遠望でき、その威容は容易に伝わるため、祭祀の場とは別に、元来の信仰の源のひとつだったとは言えるだろう。
信仰対象は山中にあることを認知しながら、祭祀の場は基本的に山麓だったという可能性もあるし、山の民の発想で言えば、山中に踏み入れて山中の巨岩で祭祀の場を設けたのも自然である。
現時点で、神道学・文献学・民俗学それぞれで山岳信仰の捉え方については諸説が入り混じっている状況であり、場所によりケースバイケースの可能性もある。
2018年6月11日月曜日
気比遺跡/気比銅鐸出土地(兵庫県豊岡市)
兵庫県豊岡市気比溝口
立地としては、山の尾根先端が河川とぶつかったところに、高さ約4mの岩盤が露頭している。
ここから銅鐸4個が出土したことで知られる。
発見された銅鐸は完形で保存状態も良く、現在東京国立博物館に所蔵されている。
この一帯は岩盤が露出しており、採石作業中に銅鐸が見つかった。
岩盤には3体の仏像と「南無阿弥陀仏」の字が刻されていた。
このちょうど裏側が岩の集積となっていたようで、そこに生まれた岩穴のような空間に銅鐸があったという。
岩穴空間の床面には川原石と貝殻が敷かれ、その上に銅鐸4個が横に寝かされた状態で収められていたという。
発見当時は、岩穴の入口に相当する部分に閉塞石のように石の詰め物がなされていたといい、極めて人為的な空間が形成されていた。
石仏が刻まれていた面のちょうど裏側。
原形はとどめていないかもしれないが、おそらくこちら側にかつて岩穴の空間があったのだろう。
尾根と岩盤の間に道が切り開かれている。中世の頃からあった古い道ともいう。
元は同一の岩盤だったと思われるが、道によって結果的に銅鐸埋納地は単立の巨岩のような外見となった。
井上洋一氏は「但馬・気比銅鐸をめぐる2・3の問題」(『考古学雑誌』68-1、1982年)の中で、この銅鐸の実物を観察した結果、弥生時代の埋納状態そのままではなく、別の場所からこの岩穴に後世移された「再埋納の跡」ではないかと論じた。
以後、当地を弥生時代の遺跡と見るのは批判的である。
また、いわゆる巨岩信仰と銅鐸埋納をセットにする旧来の研究の反証事例としても挙げられることがある。
とはいえ、1例2例の再埋納の例を取り上げて、すべての「石と青銅器の伴出事例」を否定するのも横暴である。
巨石下に青銅器を埋納する事例が、瀬戸内地域の扁平鈕式の型式の時期に分布していることを指摘する研究(石橋茂登氏「銅鐸・武器形青銅器の埋納状態に関する一考察」『千葉大学人文社会科学研究』22、2011年)や、朝鮮半島からも巨石下の青銅器埋納事例が見つかっていることから、アジアに広げた祭祀研究の中で考えるべきというのが昨今の趨勢である。
また、当地が銅鐸だけの視点で語られることで看過されるのが、石仏・刻字という文化財と、再埋納した人々の心性と歴史である。
岩穴に川原石と貝殻を敷き、その上に銅鐸を並べて、閉塞石を詰めたという祭祀が行われていた事実を、はたして誰が、どの立場で研究のまなざしを当てているのか?
石仏の担い手と銅鐸再埋納の担い手が同じであるという保証はないが、石橋茂登氏「銅鐸と寺院―出土後の扱いに関して―」(『千葉大学人文社会科学研究』21、2010年)でも述べられているように、中近世において弥生時代の銅鐸が発見された時、そのいくつかは梵鐘と同じような位置付けの聖なる法具として扱われた記録が残っている。
当地の銅鐸埋納が、このような歴史的背景のもとでなされた祭祀遺構と考えると、その具体的な祭祀方法を今に伝える貴重な資料とも言える。
その中で、岩石に仏を彫る行為や岩石に法具を納める行為を、岩石信仰という観点から批判的に捉えることも一つの重要なアプローチだろう。
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