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2018年6月11日月曜日
気比遺跡/気比銅鐸出土地(兵庫県豊岡市)
兵庫県豊岡市気比溝口
立地としては、山の尾根先端が河川とぶつかったところに、高さ約4mの岩盤が露頭している。
ここから銅鐸4個が出土したことで知られる。
発見された銅鐸は完形で保存状態も良く、現在東京国立博物館に所蔵されている。
この一帯は岩盤が露出しており、採石作業中に銅鐸が見つかった。
岩盤には3体の仏像と「南無阿弥陀仏」の字が刻されていた。
このちょうど裏側が岩の集積となっていたようで、そこに生まれた岩穴のような空間に銅鐸があったという。
岩穴空間の床面には川原石と貝殻が敷かれ、その上に銅鐸4個が横に寝かされた状態で収められていたという。
発見当時は、岩穴の入口に相当する部分に閉塞石のように石の詰め物がなされていたといい、極めて人為的な空間が形成されていた。
石仏が刻まれていた面のちょうど裏側。
原形はとどめていないかもしれないが、おそらくこちら側にかつて岩穴の空間があったのだろう。
尾根と岩盤の間に道が切り開かれている。中世の頃からあった古い道ともいう。
元は同一の岩盤だったと思われるが、道によって結果的に銅鐸埋納地は単立の巨岩のような外見となった。
井上洋一氏は「但馬・気比銅鐸をめぐる2・3の問題」(『考古学雑誌』68-1、1982年)の中で、この銅鐸の実物を観察した結果、弥生時代の埋納状態そのままではなく、別の場所からこの岩穴に後世移された「再埋納の跡」ではないかと論じた。
以後、当地を弥生時代の遺跡と見るのは批判的である。
また、いわゆる巨岩信仰と銅鐸埋納をセットにする旧来の研究の反証事例としても挙げられることがある。
とはいえ、1例2例の再埋納の例を取り上げて、すべての「石と青銅器の伴出事例」を否定するのも横暴である。
巨石下に青銅器を埋納する事例が、瀬戸内地域の扁平鈕式の型式の時期に分布していることを指摘する研究(石橋茂登氏「銅鐸・武器形青銅器の埋納状態に関する一考察」『千葉大学人文社会科学研究』22、2011年)や、朝鮮半島からも巨石下の青銅器埋納事例が見つかっていることから、アジアに広げた祭祀研究の中で考えるべきというのが昨今の趨勢である。
また、当地が銅鐸だけの視点で語られることで看過されるのが、石仏・刻字という文化財と、再埋納した人々の心性と歴史である。
岩穴に川原石と貝殻を敷き、その上に銅鐸を並べて、閉塞石を詰めたという祭祀が行われていた事実を、はたして誰が、どの立場で研究のまなざしを当てているのか?
石仏の担い手と銅鐸再埋納の担い手が同じであるという保証はないが、石橋茂登氏「銅鐸と寺院―出土後の扱いに関して―」(『千葉大学人文社会科学研究』21、2010年)でも述べられているように、中近世において弥生時代の銅鐸が発見された時、そのいくつかは梵鐘と同じような位置付けの聖なる法具として扱われた記録が残っている。
当地の銅鐸埋納が、このような歴史的背景のもとでなされた祭祀遺構と考えると、その具体的な祭祀方法を今に伝える貴重な資料とも言える。
その中で、岩石に仏を彫る行為や岩石に法具を納める行為を、岩石信仰という観点から批判的に捉えることも一つの重要なアプローチだろう。
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