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2018年8月27日月曜日

日本武尊御血塚/血塚/血塚社(三重県四日市市)


三重県四日市市采女町

参考文献

四日市市・編発行『四日市市史 第5巻 史料編 民俗』1995年

日本武尊が東征の帰途、伊吹山で怪我を負い、都に戻る途上、急坂にあえいで、杖をつきながら越えた。
ここを現在、杖衝坂(つえつきざか)と呼び、三重県四日市居采女町に伝承地が残る。

杖衝坂は旧東海道でもあり、後世、ここを通った松尾芭蕉が「歩行(かち)ならば 杖つき坂を 落馬かな」と詠んだ。

血塚
杖衝坂の入口

そんな杖衝坂を上がりきった場所に、血塚をまつる血塚社がまつられている。
ここは日本武尊が足の出血を封じた旧跡とされ、石を重ねて塚としている。
日本武尊はこの後、能褒野(同県亀山市と推定)で亡くなったという。

血塚
血塚社

『四日市市史 第5巻 史料編 民俗』に下記の記述があった。

「血塚社はミコトの足から流れ出た血を封じた場所とか、御神体がミコトの血がついた石であるという言い伝えがある。境内に石が積まれているのは、御神体が石であるからといって積む人がいるためであると言う。」

御神体が石だとなぜ石を積むのか。一見納得しそうになって、理屈としては完全にはつながっていないことに気づく。そこに文字化されていない岩石信仰の心が垣間見える。

2018年8月26日日曜日

吉野政治『日本鉱物文化語彙攷』(和泉書院 2018年)を読んで

同志社女子大学特任教授・吉野政治氏による著書。

国文学を専門とする吉野氏が、日本の古典から明治時代の鉱物学書にいたるまで、砂石・岩石・玉石に関わる記述をあまさず取り上げ、それを網羅しきった石の博物誌的な書である。

石の研究者としてのアプローチではなく、国文学から素材としての石を見たアプローチのため、その客観性が石の研究としては新しい流れになっている。

本書の前半部分「前篇 日本の鉱物観」が、私自身の興味関心と合致したので、前半部分を中心に勉強になったところを取り上げていきたい。

「大石(おほいし)」と「生石(おひし)」

古代語研究では、『古事記』に「意斐志(おひし)」、『日本書紀』に「於費異之(おひいし)」とある語が、大石を指すのか生石を指すのかで意見が分かれているらしい。

吉野氏自身も両説ともに一理あり判断しがたいようだが、他の論旨からやや「生石」派のようである。

「生石」はかつて柳田国男が「石が成長する伝説が多い」と指摘した生石伝説に連なる系譜の概念である。

生石の概念は石に意思を認めるものであるが、大石はどちらとも言い難い。大きい石としての石を想定しがちだが、大きな石への威容を込めた概念と考えると大石にも意思が込められた場合があるかもしれない。そこに注意したい。


砂と石の名前の分類整理

近代鉱物学の知識が入る前の日本語の中での石・砂の名称表現を、吉野氏は江戸時代の学者である佐藤信景『土性弁』の砂石の分類などを踏まえて、次のとおりに整理している。

  • ス(沙/洲)・・・「スナ」は元々「ス」と呼んだ。砂そのものと、砂がある場所(=洲)も指す言葉だった。
  • スナゴ(砂な子/洲之子)・・・ 「砂の子」なので、「ス」よりも微細なものを指した。
  • マナゴ(真+スナゴ)・・・真に繊細な砂の子ということで、スナゴよりもさらに小さなものを指した。『萬葉集』のマナゴの用例はすべて浜辺・水辺の細かい砂として登場していた。
  • イサゴ(石子)・・・石より小さいもの、あるいは小さな石。砂より大きいか砂と同じ大きさを指す表現だったかは諸説あり、吉野氏はス・スナゴ・マナゴとは別系統の言語ではあるが、砂と同じ大きさ程度のイシ系統の言葉であると考察している。
  • マサゴ(真+イサゴ)・・・これまでの議論を踏まえると、スナゴとほぼ同じ大きさを指すイシ系統の言葉か。
  • ミサゴ(水+イサゴ)・・・古典の用例が水の字を多く当て、水辺や水から出た石としての注釈が複数あった。
  • イシ(石)・・・イサゴよりも大きいもの。つまり砂より大きいもの。イシゴとは親子の関係であり、イシゴが成長するとイシになるという考え方が見られるという。手の上に乗る大きさから、石の上に人が乗るぐらいの大きさまでが古典から読み取れるという。
  • サザレイシ/ササライシ(磧石)・・・細かい石の意であるが、「磧」は「かわら(河原)」を指す語であり、磧石は河原の小石から由来している。
  • イハ(磐)・・・イシが大きくなったもの。イハの大きい様子をイハホ(巌)として本来言葉を分けていたが、新しくても江戸時代にはイハとイハホは同義としてみなされた。
  • トキハ(常+イハ)・・・常にあるイハのように、永遠性を表現した言葉。
  • カチハ (堅+イハ)・・・堅いイハのように、堅固性を表現した言葉。

吉野氏は砂・石に関わる古語を総覧した結果、水とのかかわりが深いことに着目して、砂が水辺で成長して石になるという考え方がかつて根強かったのではないかという仮説を提唱されている。
まったくの主観ではなく、『萬葉集』など古代の和歌に歌われた石に川・海のモチーフがセットで使われていることや、 『和漢三才図会』に「土中・水中の石はよく育つ」「水中の細石が岩となる」「石の皮をはがすと枯れてしまう」などの記述が見られることを踏まえての主張である。

ヤマト朝廷の支配者層は「ものを言う石」を信じていなかった?

『日本書紀』一書第六に、高天原から見た葦原中国の様子を描写する以下の記述がある。

「葦原中国は、磐根・木株・草葉も猶し能く物語ふ。夜は熛火の若に喧響ひ、昼は五月蠅如す沸騰る」

記紀を編纂したヤマト朝廷の支配者層としては、祖先にあたる高天原の神々が葦原中国を平定した時の大義名分が必要だった。
その一つとして、葦原中国は岩や木や草葉が昼夜うるさくしゃべっているというのを、未開社会の証として記述した。それを啓発するための高天原の神々という構図である。確かにそう読めて興味深い。

吉野氏の指摘で注目したいのは、このような記述があるということは、当時のヤマト朝廷はすでに自然物がものを言うというアニミズム信仰を信じてはいなかった証拠ではないかという点である。
信じなかったというよりも、平定すべき先住民のアニミズム信仰を否定するためにこのような立場をとったという見方も取れる。

天津神が祭祀装置としての磐座系文化で、国津神が信仰対象とする石神系文化という二項対立の構図がすぐ頭に浮かぶ言説ではあるが、古代祭祀の研究や祭祀考古学の最新の研究も踏まえて、ここは安易に結論付けるべきではないだろう。
磐座が石神化して二分できない事例が多く、石神も国津神のものと決まっていなかったり、そもそも磐座と石神の先後関係はまだ証明されておらず、それを今残る文献だけで評価するのはまだ拙速と見たい。

仏教が教化しきれなかった列島基層の岩石観

中国由来の仏典・経典・漢籍では、木石を人の心を失った状態、死んだ状態としてたびたび表現している。

日本の奈良~平安時代の上流階級の文人たちは、こうした漢籍を忠実に由来して、人は木石ではない、木石は心を持たないというたとえを好んで用いた。

これだけ読むと、日本ではすでに岩石信仰は失われたと読みといてしまうが、そうではなく、心の深層には石が物言う往時の心性を脈々と続けてきたことを一部の文献から吉野氏は見つけ出している。

  • 岩木にも物の心はありといへばさぞなわかれの秋はかなしき(鎌倉後期の歌集『夫木集』)
  • 木石心なしとは申せども(略)石に精あり(江戸時代の謡曲『殺生石』)
  • 松浦佐用姫がひれふりし姿は石になりにける(鎌倉初期の『曽我物語』)
  • 明恵上人(1173~1232年)が中国の経典に「土で加持する」と書いてあったものを「土砂で加持する」に変え、イサゴ、スナゴ、細砂と形容される砂を実質的に使用した。

どれだけ外来の文化が流入して、表面上は木石心なしという概念が浸透したとしても、詩歌や物語などの文献の中で、木石に心は宿っているのではないかという期待を込める記述が見られると吉野氏は調査している。
このあたりは、かつて大護八郎が『石神信仰』(木耳社、1977年)で論じた、仏教の影響が及んでも水面下で日本古来の石神信仰が石仏と時に融合しながら現代まで持続したという考えの延長にあるものだろう。

石が無情のものとして比喩される時は多く「木石」がセットであることも仏典漢籍由来であることの表れで、日本列島における石へのまなざしは無情(感情がない存在)ではなくあえて言うなら非情(喜怒哀楽がない超然永遠としたもの)であると論ずるのが吉野氏の結論である。

非情とは、石の永遠性(トキハ)・堅固性(カチハ)を感情面で付託した場合の石の特性としてまとめることができるだろう。

吉野地蔵尊の石(三重県四日市市)


三重県四日市市三滝台4丁目

参考文献

蒲池勢至「信仰と生活」(四日市市・編発行『四日市市史編さん調査報告 第二集 川島町の民俗』1991年)
四日市市・編発行『四日市市史 第5巻 史料編 民俗』1995年

三滝台団地の一画に個人が建てた地蔵堂がある。
個人がまつっていた私的な堂が、今は団地一円で受け入れられているらしい。
訪れた時も、堂入口の建て替え工事をしていた。いまでも生きた霊場である。

吉野地蔵尊

詳しい由来は上画像をご覧いただきたい。
地蔵尊とあるが、元々の信仰が、地中から出た石にあることは疑いない。
近代化した以降の岩石信仰である。

吉野地蔵尊

『四日市市史編さん調査報告 第二集 川島町の民俗』にはこのような記述がある。

「石は地蔵でありトイイシ(問石) である。トイイシは重軽石でもある。林一氏は『○○してもよろしいでしょうか。よかったらくっついて下さい』『○○してもよろしいでしょうか。悪かったら離れて下さい』などと問い掛けて石を持ち上げようとする。」

良い時は石が上がらず、悪い時は石が上がるという形式の石占だろうか。
石が信仰対象でありながら、占いの道具の性質も複合していることがよくわかる記述である。

吉野地蔵尊

『四日市市史 第5巻 史料編 民俗』によればこうした重軽石は、四日市市内で三本松町の薬師堂(オモカルサン/ミクジ石)、紅葉谷の地蔵堂、六呂見町の地蔵堂、元新町の藤見善八郎氏宅などに類例が見られたという。
私も四日市市松原町の聖武天皇社で座布団に乗った自然石を2体見たことがある。

吉野地蔵尊

堂内の右側に、台に据えられた丸い石が見え、その左に地蔵を刻したような石がある。
現地看板に「堂内右側にもこぶし大の石が二個ある」と記載されたものだろうか。ただ、地蔵様の石を二個のうちにカウントして良いか憚られる。
手前の二重座布団の上に何も置かれていないのも気になる。

鈴木林一氏と稲垣小兵氏が地中から見つけたという石は、台に据えられた丸石だろうか?重軽石のほうだろうか?
掘り出したのは一個だったのか、それとも複数個(堂前の二個と重軽石を合わせた三個)だったのか、後から追加奉献された石が混ざっているのか。現状ではよくわからない。

2018年8月17日金曜日

サンゴジさん/黒祖神社/黒尊神社/黒尊仏(三重県四日市市)


三重県四日市市川島新町

参考文献

蒲池勢至「信仰と生活」(四日市市・編発行『四日市市史編さん調査報告 第二集 川島町の民俗』1991年)
四日市市・編発行『四日市市史 第5巻 史料編 民俗』1995年

住宅街の一角に祠がまつられている。

サンゴジさん

これをサンゴジさん、または黒尊仏といい、そこからちなんで黒祖神社・黒尊神社の名がある。

サンゴジさん

祠内を見ると、「黒尊佛」と刻まれた石碑が石祠内に安置され、その手前に座布団に乗った1体の石がある。
こちらがサンゴジさんの本体か。

サンゴジさん

祠内には「黒祖神社の由来」と書かれたパンフレットが複数部置かれていたが、祠には鍵がかかっており中身は見れず。
紙がよれて一部の記述が読めるが物語があるようで興味深い。機会が巡れば読んでみたい。

サンゴジさん

祠の隣には、このような石仏とも石塔とも自然石ともつかない石群が集められている。
各々に各々の歴史があったのだろう。

眼・口・舌・鼻・耳・歯・いぼなど、首から上の病に霊験あらたかと信じられている。
黒尊すなわち拘留孫仏の信仰に見られる特徴であり、当地はこのような住宅地になる前は山林の中であり、化け物が出る場所として忌避の対象でもあったらしい。

『四日市市史』によれば、サンゴジの名はシャゴジ(シャグジ信仰)の転訛の可能性を指摘している。
四日市市内には、南河原田町に「シャゴジ」、川尻町に「シャゴジ(石神社)」、大治田町に「ショモジ/ショウモジ(社護神)」、羽津町に「シャクンド」など、類似するまつり場が分布していた。

この黒祖神社は、明治41年に近くの川島神社に合祀されている。
合祀されているのだが、旧社地である当地を個人の方が川島神社から払い下げを受け、今もこのようにまつっているのだという。
祠の一帯は極めて綺麗に掃除・整備されており、供え物も新しく、今も生きている信仰の場である。
(『川島町の民俗』によれば、毎月1日と11日に榊・水・饌米を供え、7月20日頃に神主による神事も行うとのこと)

黒祖神社の神体は合祀された川島神社にあると考えるのが普通だが、旧社地の祠にまつられた座布団の上の石が再び川島神社から戻された本来の神体なのか、新たにまつられた神体なのかは気になる点である。

2018年8月15日水曜日

石神社/石の神神明社(三重県四日市市)


三重県四日市市川尻町

参考文献

宮田嘉七・編『四日市市河原田地区郷土史 前編』四日市市河原田地区連合会 1965年
四日市市・編発行『四日市市史 第5巻 史料編 民俗』1995年

村社。石の神神明社と表記される場合もある。
創建時期不明ながら、弘化3年(1846年)の棟札が伝わっている。
近くに木ノ下社(祭神:八天狗)という無格社があったという。

明治37年、神明社・菅原神社・石神社を合祀して石神神明社(石の神神明社)と改称した。
さらに大正4年、石神神明社は上記の木ノ下社などと共に同町の熊野神社に合祀され、実質上消滅した。

このような二度の合祀を経ているため、石神社の由来の詳細はすでに失われている。
旧社地があったあたりも住宅地となっており、現地でよすがを偲ぶことはできない。
唯一、『四日市市史』の聞き取りによれば「石神社のことをシャゴジさんと称した」と記述がある。
シャグジ信仰を石神の字に当てる事例と見られる。

社名が示すような、石のご神体があったかどうか、あったとして現在どこにあるかはまったくの不明であるが、岩石信仰があったかもしれない例としてここに紹介しておく。

また、当地の地名に河後(かご)があり、当地名がいつまで遡れるかは調べていないが、コウゴ石信仰との関連性の余地も指摘しておきたい。

熊野神社(三重県四日市市川尻町)
石神社が合祀された熊野神社

熊野神社(三重県四日市市川尻町)
境内には、山神と刻された石が集められている。山神社も合祀されていることによる。

熊野神社(三重県四日市市川尻町)
写真左下と右上に穴あき石が置かれており興味深い。

2018年8月5日日曜日

粟島神社/大元社の巨石(愛媛県大洲市)


愛媛県大洲市北只424 粟島神社

鳥居龍蔵博士・樋口清之博士の調査によって、戦前に一躍脚光を浴びた「大洲の巨石遺跡」。
その一つに数えられるのが粟島神社にある巨石である。

粟島神社の巨石

「大洲文化発祥の地 巨石遺蹟ドルメン」(昭和5年建立)の碑がある。

粟島神社の巨石

神社の本殿が、巨石の上に築かれている。
これを「ドルメン」に当てはめたものと思われる。

粟島神社の巨石

「高さ4.2m、幅5.7m、厚さ5mという、実に驚くべき巨石である」(大洲市誌編纂会『大洲市誌』1972年)

粟島神社の巨石


粟島神社の巨石

粟島神社の巨石

この巨石は白色珪岩であるが、社域の地質は絹雲母片岩で白色珪岩は産出せず、どこからか運ばれてきたに違いないと前掲『大洲市誌』は記述する。

地表を1m掘ると地層の母岩である絹雲母片岩に達するが、母岩と白色珪岩の傾斜軸がそれぞれずれていることから、元は同一の岩石同士ではないともいう。

地表下には数個の石が混ざっており、これは敷き石であり、母岩の上に人工的に埋め土をした上でこの巨石を設置したという、驚くべき内容が書かれている。

1972年当時の知見であり、現在の考古学がこれをどう再評価するかが見ものである。

五藤孝人「南久米ものがたり 石の古代史と民俗誌」(大洲史談会『温古』復刊第27号、2005年)に、この粟島神社について詳細な検討が加えられている。

まず、粟島神社という名前は昭和9年(1934年)に合祀されたことによる名称で、それ以前は大元社(大元神社)と呼ばれていた。
大元社自体も安政6年(1859年)に社殿が今の形で建てられたものであり、それより前の当地および巨石のあつかいはわかっていない。

神社境内裏からは常森遺跡が見つかっており、ここからは縄文時代早期~弥生時代中期にわたる石器(石笛もあったというが現在行方不明らしい)・土器群が出土していることから、当時からの人足があった場所であることは間違いない。

また、拝殿の石垣と石段に計4カ所、盃状穴が残っているというが見逃した。