2018年10月31日水曜日
江島神社の岩屋(神奈川県藤沢市)
神奈川県藤沢市江の島
江島神社と江の島観光が一体化して、今日まで廃れていない「生きた聖地」だった。
蟇石(がまいし)
仏僧の法力を物語る石。聖なる跡。
福石
弁財天と出会った場所という点では仏教の影向石に通じるものがあるが、石の上に弁財天が影向したわけではなく、石につまずいたら吉夢を見たという変化球パターン。
亀石/亀甲石/蔵六石
鏡餅状に石が2つに重なっている。
経塚の標石のような位置付けで伝えられている。
鎌倉四名石の他の三石の所在も興味深いが、いずれも情報収集不足。
力石。亀石に隣接している。持ち上げる系の力石。
もう一つの亀石
人工的に造形した石とのこと。
岩屋。海蝕洞窟である。
元は江島神社の霊窟であり、江の島信仰の原点に当たるが、現在は藤沢市の管理で安全な観光ができるように配慮されている。
ライトアップと舗装がなされ、いわゆる観光洞窟の様子だが、宗教的な配慮も残されている。
岩屋内にはかつて奉献された多くの石造物が残されており、それらが保護されている。
尊名不詳の欠損したものも。
日蓮上人の寝姿石がある。
洞窟の奥は富士山の鳴沢氷穴に通じていると書いてある。
岩屋の最奥部にまつられた石祠と狛犬。
祠の前には賽銭も手向けられていた。
2018年10月22日月曜日
益富壽之助『石―昭和雲根志―』(白川書院、1967年)
日本鉱物趣味の会を創設した益富壽之助が、「学校で教えている地学や鉱物学書のような系統や順序はむしろタイクツ」として、奇石・珍石を文学的に記した本。
随所に、江戸時代の弄石家・木内石亭リスペクトが見られ、石亭が取り上げた奇石を時には石亭の記述に沿って追憶し、時には鉱物学的にアプローチしている。
たとえば「饅頭石」の章では、石亭が記した産地の「団子谷」が今でいうどこのことなのかを追跡調査し、初版では特定できなかったが、初版を読んだ読者からの情報提供で第二版では場所を鳥取県倉吉市の西南西、汗干部落の西にある峠であると追記したくだりは、昭和時代の著者と読者のインタラクティブな関係性を閉じこめたかのようである。
昭和時代の民俗誌としての観点は他にもある。
益富博士自身が子供のころは「水晶を地中に生けておくと、大きくなると、信じていた人が多かった」、だから、「もっと昔の人々は、石が大きくなったり子供を生むということを、信じていたにちがいない」と書いている。
この発想自体が、現代の私たちからするとすでに価値観の隔たりを感じずにはいられない。しかし、益富氏がこれを書いていた時は、まだ近世以前の心性を理解できる土壌があったのだ。このような些細な記述が益富壽之助という一人の人間を話者とする民俗誌なのである。
「鈴石」の章では、たまたま泊まろうとした宿の廊下に鈴石が陳列されているのに接し、宿主の紹介で鈴石の産地に赴く益富博士のドラマチックな物語が語られたと思えば、現地の鈴石の説明看板を見て「まことに素人くさい説明だが、さりとて書直しを希望するほどのこともない」と突如専門家らしい寸評も飛び出し、面白い。
「紫石英」の章では、もともと石英と結晶が逆の意味で使われていたのを貝原益軒があべこべに書いたのを筆頭に、「石黄」や「錦石」の名称が不正確なものにも濫用されている現状を憂う。
やはり学者としての概念規定の厳格さを感じられ、いわゆる感情的なエッセイからは一線を画している。
石亭だけでなく、服部未石亭・西遊寺鳳嶺・森野賽郭ら、他の弄石家の人生も取り上げ、江戸時代における珍石・奇石の基準や保存のしかたに熱い目を注いでいる。
たとえば、森野賽郭の石のコレクション箱は、各石の上に蓋がしてあって名札や石の混じりあいを防いでいた。
本書は益富博士自身が薬学の専門家であることもあり、日本や中国の本草書に取り上げられる石薬の紹介も多いのが特徴であるが、その石薬の標本としての見地から、森野コレクションの保管方法に高評価を下している。
さて、最後に触れておきたいのが巻頭である。
導入部でありながらまるで要旨であるかのように、永平寺貫主の泰禅禅師が94歳の時に記したという「石徳五訓」が掲げられている。
孫引きになり良くないが紹介したい。
かつて紹介した森徳一郎の「石の徳」と対比して特徴的なのは、四つ目のように建材の基礎としての石の実用的役割も「徳」の一つに入れていることだろう。
カチワ(堅磐)の精神性は二つ目、トキワ(常磐)の精神性は三つ目に顕著だが、全項目に散らばっている雰囲気もある。
一つ目や五つ目は非情の裏返しと言える。無言・沈黙が無感情・無機物とみなされるのが通常だが、一つ目は逆説的に「人に語らせる」という意味での多弁性に化け、五つ目は超然とした存在に感じさせるのが安心感や抱擁感につながるのかもしれない。
随所に、江戸時代の弄石家・木内石亭リスペクトが見られ、石亭が取り上げた奇石を時には石亭の記述に沿って追憶し、時には鉱物学的にアプローチしている。
たとえば「饅頭石」の章では、石亭が記した産地の「団子谷」が今でいうどこのことなのかを追跡調査し、初版では特定できなかったが、初版を読んだ読者からの情報提供で第二版では場所を鳥取県倉吉市の西南西、汗干部落の西にある峠であると追記したくだりは、昭和時代の著者と読者のインタラクティブな関係性を閉じこめたかのようである。
昭和時代の民俗誌としての観点は他にもある。
益富博士自身が子供のころは「水晶を地中に生けておくと、大きくなると、信じていた人が多かった」、だから、「もっと昔の人々は、石が大きくなったり子供を生むということを、信じていたにちがいない」と書いている。
この発想自体が、現代の私たちからするとすでに価値観の隔たりを感じずにはいられない。しかし、益富氏がこれを書いていた時は、まだ近世以前の心性を理解できる土壌があったのだ。このような些細な記述が益富壽之助という一人の人間を話者とする民俗誌なのである。
「鈴石」の章では、たまたま泊まろうとした宿の廊下に鈴石が陳列されているのに接し、宿主の紹介で鈴石の産地に赴く益富博士のドラマチックな物語が語られたと思えば、現地の鈴石の説明看板を見て「まことに素人くさい説明だが、さりとて書直しを希望するほどのこともない」と突如専門家らしい寸評も飛び出し、面白い。
「紫石英」の章では、もともと石英と結晶が逆の意味で使われていたのを貝原益軒があべこべに書いたのを筆頭に、「石黄」や「錦石」の名称が不正確なものにも濫用されている現状を憂う。
やはり学者としての概念規定の厳格さを感じられ、いわゆる感情的なエッセイからは一線を画している。
石亭だけでなく、服部未石亭・西遊寺鳳嶺・森野賽郭ら、他の弄石家の人生も取り上げ、江戸時代における珍石・奇石の基準や保存のしかたに熱い目を注いでいる。
たとえば、森野賽郭の石のコレクション箱は、各石の上に蓋がしてあって名札や石の混じりあいを防いでいた。
本書は益富博士自身が薬学の専門家であることもあり、日本や中国の本草書に取り上げられる石薬の紹介も多いのが特徴であるが、その石薬の標本としての見地から、森野コレクションの保管方法に高評価を下している。
さて、最後に触れておきたいのが巻頭である。
導入部でありながらまるで要旨であるかのように、永平寺貫主の泰禅禅師が94歳の時に記したという「石徳五訓」が掲げられている。
孫引きになり良くないが紹介したい。
石徳五訓
一 奇形怪状無言にして能く言うものは石なり
二 沈着にして気精永く土中に埋れて大地の骨と成るものは石なり
三 雨に打たれ風にさらされ寒熱にたえて悠然動ぜざるは石なり
四 堅実にして大厦高楼の基礎たるの任務を果すものは石なり
五 黙々として山岳霊園などに趣きを添え人心を和らぐるは石なり
かつて紹介した森徳一郎の「石の徳」と対比して特徴的なのは、四つ目のように建材の基礎としての石の実用的役割も「徳」の一つに入れていることだろう。
カチワ(堅磐)の精神性は二つ目、トキワ(常磐)の精神性は三つ目に顕著だが、全項目に散らばっている雰囲気もある。
一つ目や五つ目は非情の裏返しと言える。無言・沈黙が無感情・無機物とみなされるのが通常だが、一つ目は逆説的に「人に語らせる」という意味での多弁性に化け、五つ目は超然とした存在に感じさせるのが安心感や抱擁感につながるのかもしれない。
2018年10月16日火曜日
ゆうれい石に宿るものはなに?
『パッション』63号に「ゆうれい石に宿るものはなに?」と題したコラムを書きました。
下のリンク先からご覧になれます。12ページ目です。
http://www.yokkaichishibunkakyoukai.com/passion/pass63.pdf
おかげさまで連載3回目となりました。
現在勉強していること、興味関心を持っていることを反映した、良い内容が書けたと思います。
あくまでも石の紹介だけに終えないようにしています。
また、過去を振り返るだけの内容にもしないようにしました。
歴史をやっていると陥りやすいのが、何のために歴史を研究しているのかを考えてしまうこと。
安易に未来の話をし出すと大火傷するので、まずは今の話に置きかえることから始めています。
そんなコラムです。
*映画業界ではフィルムをもう使わなくなってきていることを知ったのは、コラムを書いた後でした。たとえは今風になりませんでしたが、勉強になりました。
下のリンク先からご覧になれます。12ページ目です。
http://www.yokkaichishibunkakyoukai.com/passion/pass63.pdf
おかげさまで連載3回目となりました。
現在勉強していること、興味関心を持っていることを反映した、良い内容が書けたと思います。
あくまでも石の紹介だけに終えないようにしています。
また、過去を振り返るだけの内容にもしないようにしました。
歴史をやっていると陥りやすいのが、何のために歴史を研究しているのかを考えてしまうこと。
安易に未来の話をし出すと大火傷するので、まずは今の話に置きかえることから始めています。
そんなコラムです。
*映画業界ではフィルムをもう使わなくなってきていることを知ったのは、コラムを書いた後でした。たとえは今風になりませんでしたが、勉強になりました。
2018年10月15日月曜日
石ふしぎ大発見展(ミネラルショー)の感想
先日、石ふしぎ大発見展に行ってきました。
行く前は、宝石が多めかな?と思っていましたが、予想は覆されました。
雰囲気を乱暴にまとめると、
鉱物5:宝石2:化石2:パワーストーン1
うさんくさい石から、大原石までヤミ鍋状態。
外国の業者が多いのと、子供連れが多いのが印象的でした。
日本の国石が翡翠に決まったということで、翡翠の原石がコレクションされていました。
ここに置いてあった紫翡翠がとても美しく思いました。
古代、紫が高貴とみなされた理由を少し感じられました。
この一角だけが展覧会で、あとは石の即売会です。
主催が益富地学会館なので、学問性もちょっとは。
個人的には、石関連本のコレクションがあったらうれしかったです。
私が買った石をお披露目します。
石は「見る専」でしたが、新しい世界が広がりました。
即売会に出店していた数十の店の中で、いわゆる「盆石」「水石」と呼ばれるタイプを取り扱う店は、わずか2~3店舗しか見当たりませんでした。
これはとても意外でした。今は人気がないのでしょうか?
私は、こういう自然石に惹かれました。
熟考の末、上の写真の石を購入。気に入っています。
いくらで買ったかは、私とこの石の名誉のためにないしょです。
玉石混交の会場でしたが、石好きの裾野の広さを体感できました。
またこのような機会があれば足を運ぶつもりです。
2018年10月7日日曜日
金刀比羅神社の「象乃岩」(愛媛県大洲市)
愛媛県大洲市新谷 金刀比羅神社/山口神社 境内
2012年、大洲市立博物館の大洲史談会の方から教えていただいた場所だった。
大洲市の巨石文化と言えばその道では有名だが、いざこの場所を紹介しようと現在のインターネット状況を調べてみたら、検索にあまり引っかからないことに驚いた。
当時、大洲史談会の方からは懇切丁寧に大洲の巨石文化に関わる資料をいただいたのだが、それらの巨石関連の資料には取り上げられておらず、ここだけは住宅地図で位置を示してくれただけだった。
大洲の神奈備山の一つである神南山の北麓に位置する巨岩ではあるのだが、ここで紹介しておきたい。
楼門を擁する立派な神社である。
近年の改修工事の碑も建ち、地元の篤い崇敬が窺われる。
一時期、山口神社と称されていたが、平成16年、元の名と思われる金刀比羅神社に名を戻した。
社殿に接して巨岩が控えている。
巨岩に接して社殿を建てたというのが正確な表現か?
「象乃岩」の標示が立てかけられている。
愛媛県神社庁のホームページに唯一、「古代は、象の岩(自然岩)で祭祀が行われていた。」と記されている。
藤堂高虎が建立した神社というから新しい創建と思うが、この記述が事実であれば元は神社ではなかった聖地に、神社を建てたということか。調査不足である。
「象乃岩」という名称も類例を聞かず、この形態もやや独特である。
一応、「象乃岩」の岩盤の上に社殿を建てたかったという想念を感じられる。
「象乃岩」からもっと場所を離して社を造ることもできただろうに、どうしても岩盤とくっつけたかったからこうしたと思わせられる距離感だ。
ここまできたら、ご神体の岩をすっぽり覆って秘匿する神社も他にあるが、そうもしていない。
神社建立当時の人々が、この岩をどうしたいと思って、岩の上にもつくらず、岩の手前にもつくらず、岩をかくすわけでもなく、でも、岩にちょっと切り合うように上に重なろうとしたのか、これはなかなかに興味深い。
狭いからそこにしかつくれなかったというケースではなく、土地にやや余裕がある環境である。
巨石文化関連資料で触れられないのがよくわからない巨石だが、それは「象乃岩」がシンプルな自然石とみなされたからだろうか?
人工的な巨石遺構は耳目を集めるが、ただの自然石と評価されたら、石好きの世界の中でも端っこのほうに行きやすいというのも、今後気をつけたい問題の一つと言える。
2018年10月1日月曜日
三つの石神社の候補地(三重県いなべ市)
延長5年(927年)完成の『延喜式神名帳』に「伊勢国員弁郡 石神社」と記された神社がある。
岩石信仰の観点から述べると、『延喜式神名帳』では石神社、磐座神社、像石社など、岩石信仰に関する神社名が言葉を違えて併記されている。
それぞれ、岩石に宿る神の様相が異なっていたのかどうかは、わからない。
そのような問題意識の上で石神社を取り上げる。
伊勢国員弁郡石神社の論社は、現・いなべ市に3ヶ所存在する。1ヶ所ずつ紹介していこう。
立地は、集落の端であり山裾に位置する。
山を土地の神として里の境界でまつる、典型的な神社である。
入口には、奇妙な形をした石が置かれている(上写真左下)。
拝殿の奥には、高台に立った本殿があり、高台は多数の石で固められている。
そのほとんどは石垣としての役割を超えないものと思われるが、石垣の間にも、上写真のような意味ありげな立石がある。
本殿から離れた位置関係や、石垣の中に置かれていることなどを考え合わせれば、神域を構成する石としてふさわしい奇石怪石を誰かが見つけ、奉献したものという可能性がある。
上写真は社叢の案内板であるが、「石神社の御神体は『石』である。石神を祀ったのは奈良時代と言われている」と明記している。
ここまで断言できる根拠が気になるところだが、単純に石神社という名称からの類推かもしれないし、ここが延喜式内社の論社であることからの自明として書かれただけの確率も高く、あまり看板の記述を盲信できない。
社頭に掲げられた祭神の一覧である。
注目すべきは「伊毘志都幣神」(飯石社) だろう。
島根県雲南市の飯石神社の祭神であり、ここから分霊したことは疑いない。
当地の石神社の名や飯倉という地名もここからきているのかもしれないが、逆に、もともと石神社を名乗っていたから、後に親和性の高い飯石神社の神を分霊した可能性もある。
また、このことと、石自体が当地にまつられているかは別の問題である。
ただし、経験的にはそうした石があってもまったくおかしくない立地である。
石川という集落の隅にある。
こちらは山際の自然的境界ではなく、集落端としての人為的な境界の趣が色濃い。
ただ、少し距離を広げると、石神社の手前は複数の河川の合流点となっており、川水を掌握する神の性格も感じられる。
さらに、石川地区の背後には太平洋セメントにより石灰岩の山肌が露出した藤原岳がそびえており、石を生業とする当地を鎮める神としての位置付けもできる。
石は単に保護されるべき存在ではなく、石は人に利するツールであったことを忘れてはいけない。狩猟民や焼畑民にとっての山の神が山の恵みを直接的に奪う対象であったように、削られ取られる対象としての石神のあり方もじゅうぶん想定されるべきだろう。
上写真は社殿の様子であるが、特筆すべき石は見当たらない。
当社はカゴノキの名木があることで知られているが、境内一帯に石そのものは感じさせなかった。地理的環境としても同感であるので、仮に本殿内に石があったとしても、それは人為的な設置によるものかもしれない。
ここも川の合流点に近い。
春日神社の名がついているが、石神社の論社の一つである。
かつては伊原宮、石原(いはら)の宮、石原神社と呼ばれていたともいい、そうするとイシやイワとの関連性が高まる。
祭神の中に、石立たす――の枕詞で有名な少彦名命と、石の化身とされる磐長姫命がいる。
ここは伝承上と祭事上で、岩石信仰が明確に伝えられている。
かつてこの場所に、毎夜光り輝く霊石があったので、それをまつったのが当社の始まりだという。
それに関連があるかは不明だが、石の神事として奉石と投石の石祭がある。投石の神事はやがて参加者同士で石をぶつけあったため、危険と判断されて断絶したらしい。
春日神社は本殿の前で拝することができる。
岩石信仰の観点から述べると、『延喜式神名帳』では石神社、磐座神社、像石社など、岩石信仰に関する神社名が言葉を違えて併記されている。
それぞれ、岩石に宿る神の様相が異なっていたのかどうかは、わからない。
そのような問題意識の上で石神社を取り上げる。
伊勢国員弁郡石神社の論社は、現・いなべ市に3ヶ所存在する。1ヶ所ずつ紹介していこう。
いなべ市北勢町飯倉 石神社
立地は、集落の端であり山裾に位置する。
山を土地の神として里の境界でまつる、典型的な神社である。
入口には、奇妙な形をした石が置かれている(上写真左下)。
拝殿の奥には、高台に立った本殿があり、高台は多数の石で固められている。
そのほとんどは石垣としての役割を超えないものと思われるが、石垣の間にも、上写真のような意味ありげな立石がある。
本殿から離れた位置関係や、石垣の中に置かれていることなどを考え合わせれば、神域を構成する石としてふさわしい奇石怪石を誰かが見つけ、奉献したものという可能性がある。
上写真は社叢の案内板であるが、「石神社の御神体は『石』である。石神を祀ったのは奈良時代と言われている」と明記している。
ここまで断言できる根拠が気になるところだが、単純に石神社という名称からの類推かもしれないし、ここが延喜式内社の論社であることからの自明として書かれただけの確率も高く、あまり看板の記述を盲信できない。
社頭に掲げられた祭神の一覧である。
注目すべきは「伊毘志都幣神」(飯石社) だろう。
島根県雲南市の飯石神社の祭神であり、ここから分霊したことは疑いない。
当地の石神社の名や飯倉という地名もここからきているのかもしれないが、逆に、もともと石神社を名乗っていたから、後に親和性の高い飯石神社の神を分霊した可能性もある。
また、このことと、石自体が当地にまつられているかは別の問題である。
ただし、経験的にはそうした石があってもまったくおかしくない立地である。
いなべ市藤原町石川 石神社
石川という集落の隅にある。
こちらは山際の自然的境界ではなく、集落端としての人為的な境界の趣が色濃い。
ただ、少し距離を広げると、石神社の手前は複数の河川の合流点となっており、川水を掌握する神の性格も感じられる。
さらに、石川地区の背後には太平洋セメントにより石灰岩の山肌が露出した藤原岳がそびえており、石を生業とする当地を鎮める神としての位置付けもできる。
石は単に保護されるべき存在ではなく、石は人に利するツールであったことを忘れてはいけない。狩猟民や焼畑民にとっての山の神が山の恵みを直接的に奪う対象であったように、削られ取られる対象としての石神のあり方もじゅうぶん想定されるべきだろう。
上写真は社殿の様子であるが、特筆すべき石は見当たらない。
当社はカゴノキの名木があることで知られているが、境内一帯に石そのものは感じさせなかった。地理的環境としても同感であるので、仮に本殿内に石があったとしても、それは人為的な設置によるものかもしれない。
いなべ市藤原町下野尻 春日神社
ここも川の合流点に近い。
春日神社の名がついているが、石神社の論社の一つである。
かつては伊原宮、石原(いはら)の宮、石原神社と呼ばれていたともいい、そうするとイシやイワとの関連性が高まる。
祭神の中に、石立たす――の枕詞で有名な少彦名命と、石の化身とされる磐長姫命がいる。
ここは伝承上と祭事上で、岩石信仰が明確に伝えられている。
かつてこの場所に、毎夜光り輝く霊石があったので、それをまつったのが当社の始まりだという。
それに関連があるかは不明だが、石の神事として奉石と投石の石祭がある。投石の神事はやがて参加者同士で石をぶつけあったため、危険と判断されて断絶したらしい。
春日神社は本殿の前で拝することができる。
光る霊石はどこにあるのだろうか。
霊石が本殿内に安置されているとしたら、外からはまったくわからないことになるが、本殿の形態と規模から考えて、持ち運びができる規模の岩石と推測される。
しかし、当地の霊石に関する貴重な聞き取りが、岩野見司氏『考古学上からみた北伊勢』(三岐鉄道 1956年)に「付説 員弁郡藤原村春日神社 ―旧称「石神社」― 霊石と境内発見の鏡について」に記されている。
地元在住の毛利利一氏が話したところによると、約70年前(本の刊行年から推測して1885年前後)、道路を新設した際に取り除いたそうである。
霊石が本殿内ではなく道路側にあり、石神社の創建由来に関わるものが道路工事で撤去されたというのはにわかに信じがたいが、たしかに他の事例でも時代的にただの自然石だからという理由で岩石信仰の地が破壊されたケースは把握しており、本事例の場合もどうやらそのパターンだったらしい。
なお、取り除いた霊石がそのまま破壊されたか、例えば本殿内などに移設されたかまでは不詳である。
そして、当社の旧本殿の地下からは平安時代末期の鏡1面が出土しており、前出の岩野氏は所有者宅でその鏡を実見している。
これらを綜合して、岩野氏は『延喜式』の石神社を当地、藤原町石野尻の石神社だろうと主張している。
その理由の一つとして、他の2つの石神社にはそれらしき石がないことを岩野氏は挙げているが、本記事でまとめたように、三つの石神社の候補地のいずれにおいても、その地なりの岩石との関連性があり、その点で確定するにはいまだ難しい。
自然石たる岩石は、後の世に破壊されてもわからなくなるし、社殿内に隠されてもわからなくなるし、後世に外部から持ってこられてもわからなくなる。
自然石信仰の忠実な継承の難しさ、そして、後から追跡することの難しさを物語る事例である。
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