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2018年12月31日月曜日

岩屋神社の陰陽岩(京都府京都市)


京都府京都市山科区大宅中小路町

岩屋神社は山科区の東端に鎮座する。
「山科一之宮」とも称される(西にある山科神社という説もあり。ただ山科神社は岩屋神社を奥宮とみなしたともいう)。

岩屋神社境内は京都橘大学と隣接するが、社殿とは別に、裏山の中腹には「岩屋殿」という奥之院がある。境内からは「奥之院まで400m」と案内がある。

岩屋神社の陰陽岩
奥之院

奥之院は「陰岩」「陽岩」と呼ばれる2体の巨岩で構成される自然信仰の場となっている。2体を併せて「陰陽岩」とも呼ぶ。
陽岩には天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト。天照大神の子)、陰岩には栲幡千々姫命(タクハタチヂヒメノミコト。天忍穂耳命の妃)をまつっていたとされ、現在の岩屋神社の祭神となっている。

岩屋神社の陰陽岩
陰岩

岩屋神社の陰陽岩
陰岩

岩屋神社の陰陽岩
陰岩の頂部は平坦で草が繁茂

岩屋神社の陰陽岩
陰岩に見られる岩陰部

岩屋神社の陰陽岩
陽岩

岩屋神社の陰陽岩
陽岩

岩屋神社の陰陽岩
陽岩の頂部も平坦で草が繁茂

岩屋神社の陰陽岩
陽岩の周辺には他にも岩塊が群れている


岩屋神社を取り巻く歴史

岩屋神社の社記(由緒書)に基づいて、神社がたどってきた歴史を簡単に整理したい。

  1. 仁徳天皇31年(343年)、現社地の裏山中腹にある2つの巨岩を「石座」として信仰が始まる。
  2. 宇多天皇治世の寛平年間(889~897年)、2つの巨岩の内、陽岩に天忍穂耳命、陰岩に栲幡千々姫命、岩前小社に大宅氏(大宅地区)の祖神である饒速日命(上2神の子)をまつる。
  3. 治承年間(1177~1181年)、園城寺の僧徒によって焼かれ、この時、古記録類を失う。
  4. 弘長2年(1262年)、3神をまつる社殿が現社地に再建され、現在に至る。

この社記がどの程度忠実に歴史を伝えているかという問題はあるものの、まずは社記のとおりに語られる、陰陽岩の性格変遷を読み取ってみよう。

まず一つ目に重要なのは、神社側はこの陰陽岩の発祥を「石座」(=磐座)としていること。
神社側がこの「石座」という用語を「神聖な岩」一般を指す用語として使っているのか、あるいはその語義通り「神が宿る座石」という具体的な意味を持たせて読んでいるのかはわからない。

二つ目に重要なのは、まつられた当初ではなく、後世になって初めて陰陽岩に具体的な神(日本神話の神)が当てられたこと。饒速日命を祀っているのは岩ではなく「小社」と述べているところを見ると、饒速日命に関しては社殿祭祀後の併祀と見ることもできる。

寛平年間に3神を祀った時期と、仁徳天皇期に石座祭祀を行なっていた時期を明確に分けていることから、陰陽岩の性格は次のように変遷していった。
「現在→昔」にさかのぼって説明しよう。

弘長2年(1262年)以降~現在の陰陽岩


現在、祭神はすべて麓の本殿内に常在しているので、今の陰陽岩自体には神は宿っていない。
そのことは、現在岩屋神社が行なう定期的な祭祀儀礼にこの陰陽岩に関わるものがないこと、および、近年になって氏子崇敬者がこの奥之院の整備をし始めたということから、それ以前のしばらくの間は、まさにこの陰陽岩は普段人足がほとんど入ることもない場所だったことがうかがえる。
定期的に祭祀のない陰陽岩は、現代においては神が宿る中心的存在ではない。

陰陽岩が伝え持っているのは「昔、ここで神をまつっていた」という記憶・歴史である。そのことはすなわち、陰陽岩は岩屋神社の悠久の歴史を証明する働きを持つことになる。
よって、現在の陰陽岩の機能は「岩屋神社信仰の淵源がここにあったことを今に伝える聖跡(神聖な痕跡が伝え残る岩石のタイプ)」と解釈できる。

余談ですが、陰岩の窪みにあった水は霊水だと信じられている(現在この水は枯れてしまったらしい)。
単に岩屋神社信仰の淵源として存在するだけにとどまらず、プラスして陰岩は積極的な霊験を持っている。栲幡千々姫命が陰岩から社殿に移った後も、子宝安産の神格が岩にそのまま伝存してご利益があると信じられたのだろう。

寛平年間~治承年間の陰陽岩


この時期は、山腹の陰陽岩付近に3神をまつる社を設けていたといわれる段階。
饒速日命を社殿(小祠)にまつり、字義通り解するなら、天忍穂耳命と栲幡千々姫命の両神はそれぞれ岩自体を神として祀っていたことになる。

もしかしたら、岩の前に小さな祠を敷設していた可能性はあるが、延喜式神名帳に記載がないことを考えると(山科の式内社は山科神社)、この時期の岩屋神社は木造社殿の祭祀形態ではなく、陰陽岩それ自体を神の宿る神殿とみなした信仰だった可能性が指摘できる。
ということは陰陽岩の中には神が絶えず宿るという意味で石神信仰だったと考えられる。

寛平年間以前の陰陽岩


時代が遡れば遡るほど情報は少なく、推測の混じる部分が多い。
だから断定調の結論は避けたいところだが、私は「神社が寛平以前と以降で、祭祀形態が違うことを明確に伝えている点」を重視して、寛平年間以前と以後では岩石祭祀の形態に違いがあったと考えたい。

岩屋神社の実質的な創始は、寛平年間に3神を祀ったところから始まったのだが、それ以前の祭祀形態の存在を漠然と「石座だった」と伝えるだけにとどまらず、「仁徳天皇31年」と曲がりなりにも明確に記述しているのを見ると、まったくのフィクションと見るよりかは、寛平以前からその前身となるべき岩石信仰が連綿とあったのだろうと目される。

寛平以前の岩石祭祀は寛平以降の岩石祭祀とは違ったとすると、それは神社が伝えるとおり、石神信仰ではなく磐座祭祀だったということになる。

磐座祭祀が石神信仰に転化する例は全国の「磐座神」(本来、祭祀施設であるはずの磐座が神となっている)の存在から明らかである。
陰陽岩のように、岩自体に神聖性を感じさせるような岩石の場合は、いつのまにか神自体と同一視されてしまう確率もより高かっただろう。

ただし、陰陽岩は極めて巨大で形状も特徴的なので、初めて岩を見た人が、その岩を神の「座」と見ずに、初めから「石神」と見てしまうのではないかという可能性もある。
これは石神信仰と磐座祭祀が併存したか先後関係があったかという一大議論に関わるので即断できない。

1点ヒントとなる情報として、陰陽岩の立地が山の中腹にあるということを挙げておきたい。
山の中腹というのは、そこから上にまだ未知の世界が続いている(最高点は頂上)ということ。中腹にたまたま屹立していたこの陰陽岩を、山頂の神が降臨するにふさわしい絶好のポイントにしていたと考えても不思議ではない。
磐座として、よりふさわしい立地ということだ。
里(日常空間)と山(非日常空間)の中間地点としては、もしかしたら「山裾・山端・山口」といった立地のほうが、聖域にいる神を人間の立ち入れる俗域に迎える磐座の立地としては最適なのかもしれない。
そこは、陰陽岩が自然石だから、まつった人々にとっては自分達の好きなように祭祀場所を選べなかったといえばそれまでだ。逆にこの奇観は、神が与えた絶好の降臨ポイントだと思うこともできる。
陰陽岩の場合、山頂に近い中腹ではなく、里に近い中腹になる。まるで、麓から山を登って最初に出会う巨岩群という表現がピッタリであり、その意味では、なるべく俗域に近い場所で神を迎えようとする点で意味は大きく変わっていない。 

以上は社記を前提にした推論であり、他文献の記述によって変動する可能性はあることは付記しておきたい。
現時点で、山麓ではなく山腹に立地する磐座の事例、磐座から石神への転化事例など、様々な論を考えていく際の事例となるのではないだろうか。


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