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2019年1月14日月曜日

辰巳和弘『古代をみる眼ー考古学が語る日本文化の深層ー』を読んで

辰巳和弘氏は、考古資料から古代人の心性を復元しようと活動してきた、考古学者の中では独自の視点を持つ(それは古代学と総称される)研究者です。

岩石信仰の研究では、静岡県浜松市の「天白磐座遺跡」を調査したことで知られています。

渭伊神社境内遺跡(静岡県浜松市)

辰巳氏自身も、この遺跡に出会って、考古学における祭祀研究を推し進めるきっかけとなったと書いています。

そのような辰巳氏の考え方を学ぶため、比較的最近の著書である『古代をみる眼ー考古学が語る日本文化の深層ー』 (新泉社 2015年)を読みましたので、岩石信仰研究にかかわる部分を紹介したいと思います。



祭祀は「場」を大切にするという考え

辰巳氏は、祭祀という言葉の定義を次のように定めています。

「祭祀とは、己や己が所属する集団の意志や力のみでは達成が困難と思われる事態を克服し解決するため、『人智を超越した霊威をもつ隠れたモノ』=『神』の存在を信じ、その霊威に働きかける行為をいう。それは『神の領域(存在)』を認知することである。『神の領域』と『人の領域』の接点に神が顕現し、霊威の発動があるという認識のもとで、マツリゴト(祭事・政治)にかかわるさまざまな考古資料は、はじめて意味をもつ」

神の定義については、大方の研究者が首肯できるもので異論の余地はありません。

独自的な部分は2点です。

まず、祭祀の目的を、自分では達成困難なものを克服するために祭祀をおこなうと明記していること。
祭祀にも目的はいろいろあり、真剣度のグラデーションもあったと思いますが、根本は「困ったことを解決する」というところに祭祀の動機があったとするもの。
神のせで祟りが起こることを鎮める祭祀も、確かに困ったことを解決するために、困らせている主体にお願いすることに他なりません。

現代人の「困った時の神頼み」レベルも、つきつめればこの祭祀の定義に入れられます。
ただ、宗教に期待する位置付けが変容した近現代においては、必ずしもこれが最大の目的であるかは議論の余地があるだろうとも思います。
癒しを求める、大切なものを守る、自分に箔をつけるといった、現代宗教の現状と照らし合わせると、やや文面ではズレるような印象もあり、どちらかというと古代祭祀限定での定義だと感じます。

さらにいうと、古代祭祀が絶対にこのような切実なものだけに限られていたかも、まだ断定はできない段階と思います。


2点目は、神と人には必ずそれぞれ領域があり、その間に神が現われるというという論理を用いていること。
ここまではっきり書ける研究者はなかなかいません。
神そのものだけが神聖というだけではなく、神が現われる「人の場との境」にも神聖さが要求されることを前提とするからです。

1点目も2点目も共通するのは、人が従で、神が主であるという謙虚な祭祀であること。
現代的な祭祀には、人が主で、神が従になっているものも多いのではないかと考えています。
人が主で、神が従である祭祀がすでに古代には生まれていなかったか、そこに異論の余地はまだあるのではないでしょうか。

たとえば、吉野政治氏の研究によれば、記紀を編纂した大和朝廷は、すでにアニミズム的な神々を信じていなかった節があります。
敵対する集団の神を信じないのはもちろんあったでしょうが、仮にも記紀に自然神を多く記載して表向きは神として書いているのに、その実はその神の力を信じていなかった感が指摘できます。
古代人は、すでにしたたかであった可能性を取り沙汰しても良いと思います。

吉野政治『日本鉱物文化語彙攷』(和泉書院 2018年)を読んで


「天白磐座遺跡」は水の祭祀場だったとする説

「天白磐座遺跡」はその名のとおり、磐座と目される巨岩の周囲から祭祀遺物が見つかった遺跡です。

通常なら、石の遺跡ですからまつられているのは石の神という発想になりやすいのですが、辰巳氏は水の神だと看破します。

理由としては

  • 渭伊の地名は「井」に起源があり、井伊氏の始祖伝承も「井戸」から生まれたということ。
  • 天白磐座遺跡の北~西~南は川が流れ、井伊谷の水分り(みくまり…里に水を分けて送り出す供給地)だったこと。
  • 浜名湖湖北一円には巨岩が各地に分布しているが、古墳時代に遡る祭祀遺物があるのは、水分の地に立つ天白磐座遺跡だけだったこと。
  • 各地に聖なる井泉は多く記録され、聖なる水をとおして首長霊が更新されるとみなすことができること。

最後の「首長霊」については批判の起こりそうな概念ですが、最後を除けば異論はなく、「天白磐座遺跡」が水の安定的な供給を願うところにあったことは肯けます。


そこから、磐座の神は石をまつるのが本義ではなく、水をまつるという論理になります。
石はあくまでも媒体のようなものであり、石を通して崇めていたのは水ということです。

これに対しての批判点は2つ。

  • 天白磐座遺跡が水をまつる祭祀だから、すべての磐座が水をまつる祭祀だったと言えるか。 
  • 水が神だったとまで言えるか。水は使うものであり、聖なる水も信仰対象ではなく媒体ではないか。

一例を以て、すべての磐座を水の神に帰結するのは暴論でしょう。
辰巳氏も本書で、「磐」は「不動の」「永遠の」「聖なる」の意をもつと指摘しているとおり、磐座において石の要素に神聖性を一切見出さないのは危険です。

また、水の神と結論を出したとしても、その水を生みだす「人智を超越した存在」は何だったのかまでは説明できていません。
水自体は、飲料水としても用水としても、いわば力の働きや産物、恩恵のようなものであり、信仰される本体ではありません。
水を生みだすのは水ではありません。「姿が見えない存在」に求められます。
それを姿の見える石に仮託したとしたら、石が本体で水が媒体という逆転現象も起こり得ます。


石は、祭祀において主なのか従なのか。


辰巳氏は本書においては巨岩の役割について明確に言及していません。
それはすでに辰巳氏のなかでは自明のようなものだからでしょう。

遺跡名を「磐座」と銘打つわけですから当然「磐座」と考えており、神が宿る装置(旧来の解釈でいう「依代」)とみなしているというのが自明ということなのでしょう。
 

と説明したいところですが、辰巳氏は磐座(依代)と石神(神そのもの)を同一視している向きもあります。

辰巳氏はかつて別著『聖なる水の祀りと古代王権 天白磐座遺跡』(新泉社 2006年)の中で、『風土記』に登場する石神は雨を降らせたり川に関わる伝承が付帯することなどから、石神は水神であり、磐座祭祀は水の祭祀であるという論旨を述べています。

この論理を見てもわかるとおり、辰巳氏の中では、磐座と石神の役割が一緒くたになっています。

もちろん、磐座と石神は混然としている概念とみなす立場があっても良いとは思いますが、そうであれば、かつて大場磐雄氏が石神・磐座・磐境の三つの概念を提示したことに対して、それらは同一の概念であったと明言する反駁が必要に思います。

そこがありません。

祭祀遺跡に関わる石が、すべて磐座の機能(依り憑く石)だと限らないことを考える必要があります。
辰巳氏も数々の古墳時代の祭祀遺跡を援用して「水の祭祀」を論じていますが、その中で多くの石敷遺構が取り上げられています。
これらの石もすべて「磐座」だとは辰巳氏も考えていないはずです。
石という素材は共通していても、祭祀の中での石の働きは異なっています。
ではなぜ、「天白磐座遺跡」の巨岩は「磐座」と言い切れるかの論証が必要です。

なお、私は磐座と言い切るのが恐いため、この遺跡を「渭伊神社境内遺跡」と呼ぶ立場をとっています。

辰巳氏は、「水神は石神」ではなく「石神は水神」と表現しています。石より水を主位に置いていることは明らかです。

たしかに、石の神といわれても、石自体にどのようなご利益があるのか、よく考えてみるとわからないですよね。
水は、人々の生活と密接ですから、石より水の方が大事と言えます。

さらに 「天白磐座遺跡」は、別に巨岩から水が染み出て川になっているわけではないので、一見、石と水が直接結びつくわけではありません。


しかし、先に取り上げた吉野政治氏の研究によれば、古典において石と水の関係性は深く、「砂が水辺で成長して石になる」という観念を紹介しています。

この場合、水は石を助ける媒体です。

この立場からアプローチすると、石は従の立場と言い切れるものではなく、石が水を生みだす本体であるという主のような性格さえ帯びています。

石は何だったのか、ただの目印として選ばれたのか、そこに石がなければ石でなくても良かったのかという問題は、もっと紙幅を割いていいと思います。



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