巨石・磐座の歴史的経緯を知ることが最初の一歩
石や岩の神秘性や古代の自然信仰を紹介する時の枕詞として、巨石信仰・巨石祭祀という言葉が使われて久しい。
しかし、巨石や巨岩という表現を遡っていくと、『記紀』を代表とする古典に登場しているわけではない。
大石神社や大岩神社という神社名は全国に残っているが、巨石神社や巨岩神社という名の社はない。この傾向は、地名や神名に広げても同じだろう。
ならば、大石信仰や大岩信仰という呼び方のほうが古来のありかたに沿っているが、これらの呼称はなぜかまったく一般的になっていない。
なぜ「大」ではなく「巨」が勝利したのだろうか?
岩石そのものではなく用語の細かい話ではあるが、ここに違和感をもつことから、今回の話を始めたい。
戦前の巨石文化論が21世紀の今でも下地になっている
結論から言うと、これには仕掛け人がいた。
大正時代~昭和初期、海外の巨石記念物(ストーンサークル・メンヒル・ドルメンと呼ばれるもの)が、日本国内にもあるとみなした巨石文化論者たちが一定数いて、海外の研究にならって用語が翻訳・移植されたという過去があった。
しかし、海外のそれと日本のそれは岩石という素材が共通しているだけで、必ずしも海外と国内の巨石が文化的に同一であるというわけではなかった。
これは、日本の代表的な巨石文化論者である鳥居龍蔵博士でさえ、海外と国内の巨石を同一視することは適切ではないと警告していたほどである。
しかし、この戦前の巨石文化論の影響で、現代まで私たちが使う用語が「巨石」に固定化され続けたということは、認めなければならないだろう。
※日本国内には、巨石や巨岩とは呼べないような小石にも信仰はあり、それらが関心の外に置き去りにされることが多い。
磐座という言葉も昔はそれほど使われていなかった
同じように、巨石信仰とほぼ同じ意味で磐座信仰・磐座祭祀という言葉が出回っている。
しかし、たとえば民俗学の祖といわれる柳田國男や折口信夫などの研究を紐解くと、石の信仰に関して言及はあるものの、そこに「磐座」という語はまったくといっていいほど登場せず、現代との温度差がすさまじい。
たとえば、折口信夫「石の信仰とさえの神と」が青空文庫で公開されているので、お時間があれば目を通してほしい。
石の信仰の話をしているのに、そこに「磐座・いわくら・いはくら」は一語も登場しない。他の石関連の文章も同様で、折口は「石」を統一用語として使用していたようである。
柳田國男も「石神問答」などで石神こそ名前に出すものの、磐座に対してはほぼ無視である。
念のため、これは折口や柳田が無知だったということではない。
専門家として磐座という語を知っていて、しかし石の信仰としてはあくまでも一分野を示す語であるとも理解していたから、全体を示す用語として使用していなかったということである。
それが、今は宗教的な岩や石と言えば、あれも磐座、これも磐座と名付けられている現状がある。
このように、巨石信仰と同様、磐座という言葉が独り歩きしている異常事態にも、私たちは違和感を持たないといけない。
過去に書かれた文献を渉猟するかぎり、1930年代以降、神官や神道学者を中心にして磐座をこの種の統一用語として押し出した動きが認められ、それ以降の研究に磐座の語が無批判的に用いられるようになってきた。
なお、磐座を統一用語にすることに論理上の誤りがあることは、大場磐雄「磐座・磐境等の考古学的考察」(『考古学雑誌』第32巻8号、1942年)で早くも指摘されているが、この指摘がなぜか一般化することはなかった。
おそらく、それに代わるこの種の統一的な用語がなかったからだろう。
宗教的な岩石をすべて磐座にまとめる風潮に対して、私は2003年から疑義を挙げているが(「岩石祭祀遺跡に関する包括的な考察」『考古館』第11号で本問題を初発表)いまだ力及ばず、この誤認が根強いままである。
2000年代に入っても、今度は磐座を「イワクラ」という表記で統一用語にする動きも始まった。
1942年に指摘された誤りに基づく磐座を、さらにリバイバルするものであり、以上の経緯をふりかえると、賛もあれば否もあってしかるべきではないだろうか。
岩石信仰をいろどる用語
~いろんな文脈が交錯して飽和状態~
もともと、祭祀や信仰に関わる言葉は巨石・磐座だけではなかった。
思いつくまま、この種の用語をざっくりとだが列挙してみよう。
■ 神道系
- 磐座
- 磐境
- 石神・岩神
- 御形・形石・像石
- 湯津石村・湯津岩群・五百個磐石
- 神体石
- 石占
- 玉
■ 仏教・道教・民間信仰系
- 影向石
- 腰掛石
- 石仏・磨崖仏
- 岩屋・岩窟
- 仏足石
- 礼拝石・遥拝石
- 石敢当
- 庚申塔
- 山ノ神碑
- 板碑
- 町石
- 経塚
- 盃状穴・杯状穴
- 力石
- 百度石
- 金精様
- 道祖神・サエノカミ
- シャグジ・シャゴジ・ミシャクチ
■ 後世の学問から派生したもの
- 弄石
- 水石
- 神籠石
- 石棒
- 性石
- 鏡石・鏡岩
- 姿石
- 形状石
■ 海外の巨石文化研究
- 巨石記念物
- メンヒル・立石
- アリニュマン・列石
- ストーンサークル・ストーンヘンジ・クロムレック・環状石籬・環状列石
- ドルメン・支石墓
- ツムルス
- トリリトン
- モノリス
■超古代文明系
- イワクラ
- 天体観測装置
- 日本ピラミッド(太陽石・方位石・机石)
- ペトログラフ・ペトログリフ・古代岩刻文様
■ニューエイジ・スピリチュアル系
- パワーストーン
- パワースポット
※すべての用語が必ずしも岩石だけを指すものではない。ジャンル分けはざっくりとしたものであり厳密ではない。
「神聖な岩石」を呼称する名称が、本当に色んな文脈(古典由来、海外由来、オカルト由来・・・)から生まれ、煩雑に使われてきたことがわかる。
これらの用語の間には体系的な関連性や統一性といったものはなく、言葉によっては同じ意味を表している用語さえ見られる(影向石=磐座など)。
このように煩雑とした用語を安易に使い続けていくことは、使い手によって解釈の揺らぎが生まれる原因になり、それは読み手や聞き手に思いもよらぬ誤解を持たれる原因にもつながる。
たとえば、巨石記念物関係の用語は海外の巨石文化論を前提とした言葉だから、日本の事例にドルメンやストーンサークルなどの用語を用いると、巨石文化論を下地にしていると誤解されてもおかしくない。
また、磐座という言葉を一般名詞として使う場合も、上記に書いた歴史的経緯を知らないと受け止められるだろう。
さらに「イワクラ」の語を使用するのであれば、その前にいろいろと解決してもらわないといけない前提が多すぎる。
これでは岩石信仰についての話を始める前に、すでに見えないハードルがあるようなものであり、議論は平行線をたどるだろう。
このような問題意識から、私はこういった用語の批判的な分析と、岩石信仰の種類をわかりやすい形で分類化しないといけないと考え、『岩石を信仰していた日本人―石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究―』(遊タイム出版、2011年)を発表した。
くわしい分析は本書に譲るが、ここではそのエッセンスを紹介することで、石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれてきた世界を、一歩先の新たな段階に進めたい。
岩石信仰の種類
~5つのタイプに分類する~
私は『岩石を信仰していた日本人』で、岩石祭祀の類型分類を提示した。
いわば、岩石信仰の種類を一覧にしたもので、2011年時点で約2000例の石・岩を調べて、この石はこの性格だ、あの岩はこういう機能を持っている、と整理していったものである。
集成データはこちらのexcelファイル(岩石祭祀事例集成表)で公開している。
下が拙著に掲載した実際の分類である。
『岩石を信仰していた日本人』より |
これは機能別に整理整頓したものなので、従来の神道・仏教などの宗教による用語の違いや、カテゴライズの呪縛から解き放たれたものである。
2003年頃にこの分類の第1案ができて、以後、2000例をカウントするまで幾度かの分類の見直しがあった。時には、根底からのクラッシュアンドビルトを迫られる場面もあったが、目の前の資料が絶対であるので粛々と分類作業をやり直したこともあった。
その作業の果てに、2011年に上記の分類が完成した。それ以後、現在2019年にいたるまで、この分類を見直す事態には出会っていない。
つまり、新たに知った事例は山ほどあるが、すべてどれかの類型には当てはまってきた。その意味で、ある程度の信頼性を担保できる分類であると今も考えている。
とはいえ、上記分類は専門的となりやや種類が多いので、覚えにくいところもある。
そこで、この記事では5つのグループ(A~E)に集約して、岩石信仰の種類を簡単に説明していこう。
A 信仰対象
神や仏や精霊として信仰された岩石。
岩石が信仰の中心となっている場合、このグループに入る。
気をつけないといけないことがひとつある。
一見、岩石が祭祀の中心(拝まれている対象)になっている場合でも、信仰しているのは岩石ではなく形而上的な別概念の存在(神話上の神、仏典の仏菩薩、故人の祖霊など)であった場合は、厳密には信仰の対象とは呼べない。
祭祀対象=信仰対象とは限らないのである。
祭祀している対象は目で見えるが、信仰対象は必ずしも目に見えないから、このような違いが起こる。
あくまでも、岩石から発する要因で岩石を信仰する場合、岩石が信仰対象と言える。
岩石信仰とは、岩石を用いて信仰した分野一般の総称として私は使っている。
しかし、関心の中心は「人はなぜ岩石に惹かれ、信仰にまで至ったのか」にある。
狭義の岩石信仰と呼ぶとしたら、なぜその岩石を信仰したのかという、岩石そのものに理由を求める時にあるだろう。
石の背後に神の気配を見るのが磐座的な発想だが、石と神は別概念だから、それを言っては全てが磐座だ。— 吉川宗明 (@megalithmury) January 6, 2020
私が問題提起するのはそこではなく、石と神を言葉でなく感覚で同一視する心理。
奇石に出会ってギョッとする感覚は、石を通して別の何かを見ている訳でもない。石を見て、ただ石に惑わされている。
とはいえ、岩石信仰が難しいのは、たとえば石仏や摩崖仏を信仰する人の心の中が、必ずしも「教義上の仏=主」「岩石=従」だったとも言い切れないところである。
現地の村人にとって、教義上の仏という観念的な遠い世界を離れ、目の前に土着する岩石は仏と不可分でむしろ同一視されるようになり、いわゆる分霊や顕現という考え方ではなく、岩石に刻された仏はまさに「そこ」にいるものだったのかもしれない。
この場合、信仰の淵源は岩石ありきで、岩石がむしろ別系統の信仰を取り込んだとさえ見ることもできる。すなわち、「岩石=主」「教義上の仏=従」であり、岩石が信仰対象そのものだと考えたほうが、なぜ岩石が信仰されたのかという岩石信仰の問題意識には近い。
まとめると、信仰対象の中には、
- 信仰対象そのものの岩石
- 別概念の信仰対象を戴くが「岩石>別概念の信仰対象」となった岩石
の二つが、明確な線引きが往々にして難しいものの、グラデーションとして人によって分かれている可能性が指摘できる。
福井県大飯郡高浜町の岩神 |
愛知県豊田市の岩神社 |
B 媒体
祭祀をするために、人が道具として使った岩石。
祭りに使った石製品や装身具、聖域を囲うための列石、奉げ物を置く石、信仰対象や司祭者が座るための石など。石の鳥居や参道の石段も、祭祀のために用いられた道具(装置)と言える。
これらの道具や装置は、人が信仰対象とコミュニケーションをとるために必要ものとして使用された。
すなわち、人と信仰対象をつなぐ「媒体」として働いているので、一言でまとめるなら最適な概念として「媒体」の語を使用した。
磐座や磐境も、まさに神と人をむすぶ媒体である。
祭祀に用いられ、磐座などは神が使用する岩石なのだから、神聖な岩石には違いない。
しかし、磐座はそれ自体が神にはならなかった。
磐座は、神をその場にとどまらせるにふさわしい霊力をもつ岩石だったのである。
これも一つの岩石信仰である。神そのものではない岩石信仰というかたちにも思いを巡らせてほしい。
京都府京都市上賀茂神社の岩上。宮司が岩上に座す岩盤。 |
福岡県北九州市の一宮神社にある磐境。祭祀場の領域を示す神籬施設とされる。 |
C 聖跡
岩石信仰は、祭祀の時だけ信仰されるものではない。
祭祀が終った後、岩石がどのような扱いを受けるかにも注目したい。
全国各地の事例を総覧すると、「神聖な痕跡」と表現できる一群を認めることができる。
説明すると、かつてそこで神聖な行為が行われていたが、今はもう使われていない岩石で、なのに今も神聖なものだと信じられているものを意味する。
「腰掛石」と呼ばれる一群はその代表的なものだろう。
かつて、偉人や聖者が腰かけた(と信じられている)石である。
腰かけただけで、石そのものはただ座られた素材のはずだが、なぜかその石に名前がつけられ、聖地化している。
磐座と呼ばれている事例の中にも、実質上は聖跡と呼んでいいものが相当数あることに気づかないだろうか。
磐座と呼ばれている岩石の前で、今の定期的に神を招く祭祀がなされている場所は、意外と少ない。「元・磐座」「磐座跡」を、今も現役稼働中の磐座もひとくくりにして「磐座」と総称してしまっているのが現状なのである。
実際は、今も祭祀中の磐座と、磐座としての機能を終えた岩石は、位置付けが異なる存在のはずである。
山梨県南巨摩郡身延町の高座石。日蓮がこの石の上に座り説法をした由縁をもつ聖跡。 |
愛知県一宮市の七ッ石。日本武尊が剣を研いだ石と伝承される聖跡。 |
D 痕跡
一方、祭祀終了後に神聖なものとして保存されることはなく、撤収・廃棄される岩石のグループも想定できる。
廃棄まで含めて祭祀行為と見る考えもある。媒体と信じられた岩石が媒体でなくなった時、岩石はどのような扱いを受けるのか、そこにも心性は宿るだろう。
また、祭祀中や祭祀後だけではなく、祭祀をする前の岩石の採取地にも思いをはせてみよう。
聖なる石はどこから採られたのだろうか。石材としての岩石と霊石となる岩石の関係。祭祀集団の活動範囲を知る資料にもなる。
このような生産の跡、廃棄の跡も、岩石祭祀の一連の流れを証明する痕跡として把握できるという点で、痕跡型のグループを設定した。
群馬県前橋市の大室古墳群にある石採り山。葬送施設の石室石材を採掘した生産跡。 |
三重県桑名市の町屋川。石取祭で供える「献石」を拾う河原として指定されている。 |
E 祭祀に至らなかったもの
祭祀には用いられなかったが、特別視され、大切にされてきた岩石たち。
簡単に言えば「岩石信仰の外のグループ」ということになる。
祭祀・信仰とは無関係の民話に登場する岩石や、風光明媚な奇岩名勝などはその一例だ。
教訓を教えてくれる石や、鑑賞の対象としての石、記念碑やモニュメント作品としての石。
鉱物をコレクションしている人や、宝石を大切に保管している人も、このグループに入れることができる。
ただし、美的対象が信仰の対象に変化することも多く、美・芸術と信仰の境界線は曖昧なところがある。
岩石信仰と岩石信仰に至らなかったものの差は紙一重とも言える。だからこれらの事例を知ることも大切である。
和歌山県東牟婁郡串本町の橋杭岩 |
福井県福井市の一乗谷朝倉氏庭園。庭園は観賞対象であるが、宗教的要素と無縁ではない。 |
岩石の観察方法
~これから岩石に出会った時は、こうやって見分ける~
以上、岩石信仰の種類を5つのグループに分けてみた。
この分類は、誰でも追試・再現可能な方法であり、新しく知った事例に対しても、誰もが同じ基準で調査していけるようにしてみたつもりである。
多くの人に活用されてこその研究と考えるからである。
そこで、今からお伝えしたいのが「これから岩石に出会った時の見分け方法」である。
観察・分析すべきポイントなどを前もって決めておかないと、ある事例では着目していたポイントが、別の事例では全く考慮されていないという事態が起こり、一貫性のある情報収集や分析ができなくなる。
だからここで簡単に、岩石祭祀事例の調査手引きみたいなものを作っておこう。
特別視されている岩石か、特別視されていない岩石かを見分ける
最初の一歩は、出会ったその岩石が、特別視されている岩石なのか、それともそうではない「ただの石」なのかを見極めるところから始まる。
とはいえ、つきつめれば、"あなた" がその石を見極めたいと思った時点で、その石はあなたにとってすでに特別視されていることは間違いない。
調査者・研究者は、自らが岩石の歴史を変えてしまうという、こういう危険があることは自覚しないといけない。
しかし今回はそういう話ではなく、"ほかのだれか"にとって特別な扱いを受けているかどうかを考えることにしよう。
特別視の有無は、名前がつけられていたり、柵や台などの付属設備があれば簡単である。そのような付加行為をすること自体が特別視と言えるからだ。
目に見える付加行為がない場合は、難しい時がある。
内面の特別視をどう認定するかは、人に聞かないとわからないからである。
その石の周辺で仮に100人に聞き取りをして、100人全員がその石のことを気にも止めていない答えを返したからと言って、聞き取りをしていない誰かが内面で特別視しているかもしれない。
100人がNo.と言っても、その次に聞く1人がYes.と言えば存在するものが、特別視というものである。
また、インタビューをしたことで「言われてみれば・・・」と、初めてそこでその石を特別視する場合がある。調査をすることで歴史を変えるのである。
ここまで書くと、なんだか認定が難しく業の深い行為に聞こえるが、その重みを自戒としていれば、大きく間違ったことにはならないと思う。
また、基本的には、世界で一人くらいが特別視している石は資料として挙がりにくく、そもそも問題の俎上にも乗らないだろう(私はとても関心がある存在だが)。
つまり、簡単な調査をするぶんには枠外にいる存在なので、結果的に難しいと感じる機会は少ないはず。
ある程度の人が特別視されている岩石は、まず目に見える付加行為があって、見分けは容易であることが多いと言って良いだろう。
祭祀に用いられている岩石か、祭祀とは関係がない岩石かを見分ける
さて、特別な岩石がすべて祭祀・信仰に関わるものかというと、そうではない。
いわゆる先述した「E.祭祀に至らなかったもの」の一群が存在する。
祭祀・信仰と関係あれば、当然、祭祀に用いられれている岩石であり、それを岩石祭祀事例と呼ぶことができる。
では、祭祀・信仰の有無はどう見分けるか。
祭祀・信仰の定義にも関わる深いテーマになるが、 そのあたりを割愛して簡単にまとめるなら、祭祀・信仰には神や仏と呼ばれる、信仰対象がいることが条件となる。
信仰対象は、超自然的存在・超人間的存在・超常識的存在という表現を使って説明したい。
自然の理を超えた存在、人間にはできない力をもった存在、常識では考えられない力をもった存在。人が信仰する対象は、多かれ少なかれ、そのような存在ではないだろうか。それを神と呼んだり仏と呼んだりしてきた。
人を神や仏と呼ぶ場合もあるが、本心からはどうかはさておき、おおむね上の条件を備えた時に呼ぶだろう。
単に尊敬しているという感情との違いは、霊力を認めて、それに畏れを抱いているかどうかの有無で判断したい。
自分にはできないし、他の人間にもできず、人類にはできないと思う力を持っている時に、霊力は認定できる。それに対して、自分に霊力を使ってくれることを願うが、一方で、怒りを買うと災厄が訪れることも危惧する。このような心の動きを信仰心と規定している。
さて、目の前の岩石に込められた人々の思いに、そのような信仰対象の存在が含まれているか。
そこが見分けポイントだろう。
神聖視されている岩石か、神聖視とまでは言えない岩石かを見分ける
祭祀に用いられた岩石は、すべて神聖な岩石と言えるだろうか?
祭祀に使うわけだから、いずれも欠けてはいけない、大切な岩石であることに異論の余地はない。
神聖な岩石と呼ぶからには、その岩石には聖性が宿っていないといけない。
それは先述した、超自然的・超人間的・超常識的な性格である。
岩石を、祭祀をするための実用的な素材として石材のように用いたなら、上記の性格は認められず、祭祀事例ではあるけれども神聖な岩石とは呼べないだろう。
たとえば、お供え物を盛った石皿や、火焚き祭祀の時に使った炉の石材、境内の石の橋や石段は、メインはあくまでも供え物、火を灯すこと、川を渡ること、上へ登ることであり、石はそのために用意された実用的な素材と言える。
私はそれらを「BE.祭祀遂行上必要な部品・利器・石材」として一括している。
そのような実用的な機能が第一義に来るのではなく、別に岩石でなくてもいいのに岩石が用いられる祭祀が第一義となった時、実用から離れた「聖性」というものが認められるのではないか。
信仰しているものは岩石そのものか、岩石とは別の概念かを見分ける
いよいよ最終段階の見分けである。
神聖な岩石は、すべて信仰対象かというとそうではない。
それは先述した「A.信仰対象」と「B.媒体」の二つの違いである。
見分け方は、祭祀の構図をよくイメージしてほしい。
祭祀に必要な要素は、
- 信仰をする人(信仰者)
- 信仰をされる対象(信仰対象)
- 信仰者と信仰対象をつなぐもの(媒体)
この三者である。
前二者は絶対不可欠要件であり、最後者は信仰者しだいでは不必要な場合もある(媒体など必要ではない人もいるだろう)。
ただ、ほとんどの場合は、祭祀に媒体は登場する。媒体がないと、信仰者は願いが届いているのか心配になるし、信仰対象も何かしらの形で信仰者に結果を返さないと伝わらないからである。また、それを第三者にしらしめたい時にも媒体は有効な存在である。
さて、目の前の岩石は、信仰されている対象として語られているか、信仰対象は別にいて、岩石は人と信仰対象の間を取り持つものとして機能しているかで、結論は出されるだろう。
信仰対象と祭祀対象の違いを先述した時にも触れたが、祭祀の中心として磐座が鎮座していた場合も、信仰しているのは磐座ではなく別概念の存在(神話上の神、仏典の仏菩薩、故人の祖霊など)ということもあるので注意したい。
最後にもう一つの注意点に触れると、昔から現在までその事例がずっと同じ性格だったという保証はない。
時代・時期ごとで、人々がその岩石に与えていた役割や認識というのは異なる可能性がある。さらには同時期だったとしても、人によって、所属集団によって、岩石への認識には差異やグラデーションがあった可能性も考えておきたい。
したがって、その岩石がどのような性格であったかについては、時期ごと、人単位でどうだったかを、追究できるかぎり細かく触れてあげてほしい。掬い出されなかった歴史は消えてしまうからである。
最後に
私が岩石信仰の分類を提示した理由は、拙著で記したので再掲したい。
今後、考古学において祭祀遺跡が見つかった場合や、過去に神聖視の対象だったと推測されるものの、すでに記録が途絶えている岩石に出会った場合、この分類を活用することで少しでも現実性のある歴史の復元に寄与できればと願っている。
この分野を研究して約20年になろうとしているが、その間に多くの岩石に出会い、そして多くの関連本や研究を見聞きしてきた。
その多くが、さまざまな岩石信仰の差異を見過ごして、「巨石信仰」や「磐座」の一言でまとめようとしてきた。そのたびに、当時の人々や信仰の当事者に対して心を痛めてきた。
せめて岩石に出会った時、岩石信仰には少なくとも5つの種類に大別され、いずれなのかを考えることで、その多様性に思いを巡らせるきっかけとしてほしい。
この分類に当てはまらない岩石祭祀事例を見かけた方は、ぜひお教えください。
記事とても勉強になりました。今までなんとなく「石」信仰として認識していたものの分類が出来るとまた違った見方ができそうでワクワクしました。ありがとうございます!
返信削除お読みくださりこちらこそありがとうございます。
削除ストーンサークルや立石など、見た目の形で区分することは知られていますが、自然の石を形で見分けるには限界があると感じたので、性格からのアプローチを考えてみました。
大変興味深く読ませていただきました。一般的にも、その岩のある場所の看板にも磐座とされていても、自分には「磐座なのかなぁ…」という疑問がある場所もあってモヤモヤしていましたが、ありがとうございます、だいぶスッキリしました。
返信削除今後、各所岩場(笑)を訪れる時の良い勉強になりました。
メッセージをお寄せくださりありがとうございます。
削除自称磐座が多いのは、本当に神が来たと信じているにせよ、神が来ていたと(学術的に)思い込んでいたにせよ、そうあってほしいという人の自己顕示欲の現れなのかもしれませんね。
はじめまして
返信削除こういった分野の研究されている方を見つけることができ、驚きました。
磐座について質問があります。
私はやはり素人観点から、磐座と決めつけていることが多いのですが、私の住む地域では神社の社殿の上方に岩の集りを見ることが多いです。
多くは注連縄などが施されてあったり、梵字が彫られている、もしくは字名や諱などから判断しています。
それ以外には、人工的な細工。対象の前などに土留めを使用した平場空間や祭壇のようなものの配置。どれも自然ではまずありえないだろうというものを見つけるのですが、この場合には神社を里宮、岩の集まりを奥宮もしくは元宮のような関係で理解していました。
ブログ内すべてを読んだわけではないのですが、この考え方には問題があるでしょうか?
これ以外にも結界として使われていたようなもの。
九州の方では石柱のようなものや大きな岩、依代となるようなものを石體(石躰、石體権現)などと称したり、そのものに彫り込まれたりします。
用語の中には見受けられませんが、この石體は九州だけなのでしょうか?
はじめまして。投稿いただきありがとうございます。
削除お書きになられた内容ですが、大枠で私もそのような判断基準で動いています。
ただし、記録・伝承が残らないケースも多いのと、社殿の手前に岩石をまつるケースに出会うことなどもあるので、社殿の背後に岩石があっても一歩踏み込んで発言できない時が多いのが現状です。
石體(石体)については、石のご神体の意味で一般名詞的に使うのは全国的でもあります。神道系の用語に入れておくべきでしたね。
ただし、一般名詞的に使う石体の用例が文献的にいつまで遡れるかはわからず、その点で九州の石体概念とはまた異なるかもしれません。その点で地域的なものの可能性はあります。