三輪山の磐座研究
嘉禄2年(1226年)成立という『大三輪神三社鎮座次第』によれば、三輪山には「奥津磐座 大物主命」「中津磐座 大巳貴命」「辺津磐座 少彦名命」がまつられ、山中の三ヶ所に磐座があることを記している。
三輪山(奈良県桜井市) 標高467.1m
三輪山の祭神をまつる大神神社
ただ、『大三輪神三社鎮座次第』は後世のものによる作(中世~近世)という批判も根強く、仮に中世の言説としても、この「奥津」「中津」「辺津」 という概念がいつまで遡れるものかははっきりしていない。
また、実際には三輪山の中におびただしい数の岩石が散在しており(樋口清之氏「三輪山上に於ける巨石群」1927年、中山和敬氏『大神神社<改訂新版>』1999年)、「奥津」「中津」「辺津」の3つの単体の磐座があるというわけではない。
山中にとどまらず、山麓にも複数の岩石信仰の場が確認されている。
中には、後述する山ノ神遺跡・奥垣内遺跡のように、巨石の周辺から古墳時代の祭祀遺物が出土した遺跡があり、勾玉や石製模造品・土製模造品の遺物散布地も三輪山麓には多く見つかっている。
これら古墳時代の遺跡群は文献資料がなく、岩石の性格を物語るのは本来難しい。
「三輪山の岩石信仰」=「磐座」という半ば定説化したイメージがあるが、岩石信仰は磐座祭祀の形態だけではない。
すべてがすべて「磐座」の機能を担う岩石だったのか、三輪山研究者が安易に断定しているのは早計だと私は思っている。
奈良盆地の西側にそびえる春日山系の山々はいずれも花崗岩地質で構成されているが、三輪山はそれとは異質の斑糲岩から成り立っている山である。
この岩質の違いが、大和盆地の山岳信仰の中でも三輪山が独自の位置を占める一つの要因になったのかもしれない。
樋口清之氏の「三輪山上に於ける巨石群」
三輪山の山内は写真撮影が厳禁のため、山中の様子は一切写真なしで報告しなければいけない。
登山口となっている狭井神社
山中には無数の岩石群があるが、文化財上は2つのグループに分けられている。
1つは、拝殿背後の尾根上に分布する「禁足地裏磐座群」である。
もう1つは、玄賓庵の裏のオーカミ谷と呼ばれる谷間を中心に分布する「オーカミ谷磐座群」である。
考古学者の樋口清之氏は奈良県桜井市の出身であり、青年期に三輪山中を踏査してその様相を論文「三輪山上に於ける巨石群」(1927年)で発表した。
ここで樋口氏は、オーカミ谷の岩石群をA~Eの5群に分類している。
たとえば、玄賓庵南側丘陵上のA群、北側丘陵上のB群は後世の石材利用などにより原状をとどめていないと指摘している。
そして、玄賓庵裏のC群と山頂やや西斜面下のE群は大規模な岩群で、人為的に列石を構築したような規則的な配置も見られると報告している。
しかし、これらの多くは現在許可されている登山道の外に存在しているため、実見者が樋口氏だけという状況であり、人為性が本当にあるのかなどについての再検証はできていない状況である。
大神神社が認定する「三輪山中の公式な磐座」
大神神社の宮司である中山和敬氏『大神神社<改訂新版>』(1999年)には、大神神社神地課が「典型的なものとして折紙をつけた磐座」がマップ化されており、そのドット数は26ヶ所に及ぶ。
中山氏は「磐座線」という表現を用い、4種類のルートを紹介している。
- 社殿裏の禁足地から山頂までの線:山腹に3ヶ所、山頂近くに3ヶ所
- 山ノ神遺跡から山頂までの線:山腹に5ヶ所、山頂近くに2ヶ所
- 檜原神社からオーカミ谷を経由して山頂までの線:山腹に5ヶ所、山頂近くに2ヶ所
- 三輪山南の脇本区から山頂までの線:山頂近くに10ヶ所
「磐座線」とは言うが、いわゆる直線状に磐座が並ぶという類の話ではなく、山麓から三輪山を拝する時の「辺津-中津-奥津」の3ヶ所の磐座がどこのことを指していたか、その想定として4種類の「遥拝の視線」を提示したという意図であることに注意したい。
合計26ヶ所とはかなりの数に上るが、そのほとんどが登拝道から外れた立入禁止の場所にあり、実態はやはり判然としない。
その内の数ヶ所は、樋口氏が報告した磐座と地点が重なるものもあるだろう。
また、山ノ神遺跡の東山中に位置する月山谷には「百目石」、オーカミ谷中腹に「鏡石」、三輪山の東山腹に「木斛」という3ヶ所に関して固有名詞が付されている。
「木斛」は単に樹木のモッコクを指しているだけかもしれないが、百目石・鏡石という名が存在することは注目していいだろう。
登拝道で見られる磐座
では、実際に登拝すると出会える磐座はどのようなものか。
登拝道の道中には、多くの岩石に注連縄が巻かれている光景に出会う。
奥津磐座を除いて、合計7ヶ所においてそのような磐座を確認することができた。
ただ、これらの岩石は先述した中山氏の挙げた26ヶ所から地点の外れたものが多い。
かつて神社が認定した磐座だけでなく、新たにまつられた磐座や、神社側ではなく篤信家の方によってまつられた磐座かもしれない可能性を記しておく。
まず、登拝口と山ノ神遺跡と三光の滝(篤信家によって整備された禊の滝)の3ポイントのほぼ中間に、最初の1ヶ所目に出会える。
ここは三光谷の入口に位置し、登拝口から徒歩約10分の地点である。
次に、三光の滝から尾根を約15分登った山腹に、杉の巨木と共に注連縄の結界が張られた岩群地帯がある。これが2ヶ所目。
さらにそこから5分ほど登った路傍に、人工的に小石を配して磐境状に仕立てた祭り場があり、賽銭も捧げられていた。これが3ヶ所目。
そして、やや視界の開けた広めの尾根を登り、傾斜がやや急になる坂の途中に複数の露岩があり、まつられている。これが4ヶ所目。
坂を登りきると、そこはもう山頂近くに達するが、そこに近接しあって3ヶ所、注連縄の巻かれた岩石がある。そのうち1ヶ所は、二重に注連縄が巻かれていた。
以上、合計7ヶ所の「磐座」と目される岩石群を文面で報告しておく。
山頂の奥津磐座
山頂には高宮神社という祠があり、大物主神の子・日向御子神をまつっている。
祠の周囲は池のように地形が窪んでいる。
旱魃などが起こった時にだけ人々が特別に参拝でき、降雨を祈れば必ず霊験があったといわれる場所で、江戸時代の入山記録も残っている。
先出の樋口氏によれば、高宮神社の南西と北西にFとGの2つの群があり、それは環状列石のような配置を見せる好資料と記している。
登拝道から外れるわけにはいかないので、目を凝らしながら山林の中を観察する程度だったが、そのような環状列石は確認できなかった。
ただ、山林に一部露岩が隠れているのを、高宮神社南西にて僅かながら確認することはできた。それがF群に該当するかどうかはわからない。
高宮神社は山頂にあるが、そこから東に50mほど進んだところに、三輪山磐座群の頂点に位置付けられる「奥津磐座」がある。
大小無数の黒光りした斑糲岩が群集している。
手前から拝んでいる限りでは、岩群の一番奥がどういう様子になっているのか見えない。
空間的な広がりを持つ磐座と言える。
群集の具合は、互いの岩石が高さ無関係で無造作に上下に重なり合いつつも、全体としては地山がほとんど見えないほどに岩石が間断なく敷き詰められており、整然とも雑然とも言えない群集状態である。
ちょうど賽銭箱の奥に位置する岩石は他よりも若干巨大で、外見も亀裂・岩陰を持ち印象的ではある。中心石という位置づけが正しいかは控えなければならない。
奥津磐座のさらに東には、東青木原や東大谷と呼ばれる場所があり、ここだけで9ヶ所の磐座が大神神社に認定されている。
以上、おびただしい磐座の報告となったが、一つの岩石に祭祀が集中することはなく、山から露出するあらゆる岩石に神性を見ようとする心が窺えるだろう。
地山から露わになった岩石が遍在的に神聖視されているという性質が、三輪山という神体山と、数多の祭祀遺跡(祭り場)との関係性をあらわしているように思えてならない。
次の章からは、山中から出て三輪山周辺の岩石祭祀事例を紹介していこう。
九日社
多紀理比売命・狭依理比売命・多岐津比売命をまつる神社。
樋口清之氏「三輪山上に於ける巨石群」(1927年)において、三輪山周辺の拝石の事例として挙げられている。
『桜井市文化財協会『平成12年度秋季特別展解説書 三輪山周辺の考古学』(2000年)の中では「陰陽石」として記載されている。
2体の岩塊が横に並んだ社だが、双方とも高さ50cmほどの小ぶりな規模であり、どれほどの旧状をとどめて、いつ頃からの祭祀跡なのかには検討の余地がある。
九日社の「ほぼ」真東に三輪山頂が位置している。
九日社の「陰陽石」
綱越神社
祓戸大神をまつる神社。
桜井市文化財協会『平成12年度秋季特別展解説書 三輪山周辺の考古学』(2000年)に「磐座」との記載あり。
神社境内の一角に位置し、まつられていることは明らかだが詳細は不明。
綱越神社の「磐座」
素佐男神社
樋口清之氏「三輪山上に於ける巨石群」(1927年)によると「薬師堂祇園社 二箇 伏」として報告され、岩石の名前は「夫婦岩」と書いている。
他に「回り石」という名前もある。この石の周りを3度回る儀礼が伝わっている。
素佐男神社の「夫婦岩/周り石」
志貴御県坐神社
記紀の中で第10代崇神天皇が都を置いた「磯城瑞籬宮」の伝説上の場所とされる。
社殿脇に4個の丸石が横一列に並んでおり、4個の石の手前に玉垣と石鳥居が付設されている。
俗に「磐境」と呼ばれる比較的有名な存在だが、それに比して具体的ないわれなどは不明。
玉垣の奥に4体の岩石が横並びに置かれている
平等寺
寺伝によれば、敏達天皇10年(581年)に聖徳太子が賊徒平定後に十二面観音菩薩を本尊として開基した大三輪寺といわれ、歴史的には鎌倉時代以降に大神神社の神宮寺として栄えたという。
境内の最奥部に「岩屋不動」と「磐座」がある。
「岩屋不動」は人工的に切り石を組んだ石窟の内部に、不動明王の石仏と梵字「ア」(広く仏を表す梵字)の刻まれた石碑と黒色化の進んだ立石の計3つを安置する。
「磐座」は「影向石」の名もあり、地主神をまつる場という。「ドルメン」という形容がぴったりくる構造物だ。
岩屋不動内部
磐座/影向石。上の岩屋不動とまつり方が違う。
大直禰子神社
大神神社の表参道の途中を北側に曲がると大直禰子神社が鎮座する。
主祭神の大直禰子命(大田田根子命)は、崇神天皇の時代に任命された、大神神社の最初の神官だという。三輪氏の始祖で、大物主神の子孫にも当たるので、若宮として位置付けられた。
明治時代の神仏分離の前までは「大神寺」「大御輪寺」「三輪寺」といい、大神神社の神宮寺としての位置付けでもあった。
この神社の境内には「神饌石」と「安産岩」がある。
神饌石は、正月元旦の神火祭の時に、若宮社のすぐ東方にある久延彦神社に対する神饌(神への供え物)を置く石として使われている。
久延彦神社を遥拝する時はこの石の地点から遥拝するように、という話もある。
神饌石は、かつてはこのような使われ方をされておらず、以前は境内に転がっているだけだったともいわれている。
少なくとも現在においては、岩石自体が神そのものという訳ではないが、祭祀行為に用いられ神聖視されているという岩石祭祀事例である。
安産岩については、名称から安産に霊験のある岩石と推測されるが詳細不明。
神饌石
安産岩
夫婦岩
大神神社の表参道を進んでいくと、参道脇に「夫婦岩(めおといわ)」と看板の立つ、2個の草履状の岩石が柵内に安置されている。
「夫婦岩」の名が示すようにいわゆる縁結び・安産の霊験を持つとされる岩石だが、昔は「影向岩(ようごういわ)」「聖天岩(しょうてんいわ)」という名称だったことがわかっている。
「影向」「聖天」という名から、信仰対象が顕現する岩石だったことが伝わる。
また、江戸時代の神社絵図を見ると、参道の中央を塞ぐように「聖天岩」と記載されている。
参道脇にある現在とは「場所」も「名前」も「性格」も異なっていたことがわかる。それはすなわち、岩石に対する認識の仕方が時代で異なっていたことを示す。
他の岩石祭祀の事例を研究する時も、同様の経緯をたどったケースが多く潜んでいるのではないかという啓発資料にもなりうる。
夫婦岩/影向岩/聖天岩
磐座神社
名前の通り、元は磐座だった岩石を神体としてまつる。
玉垣の中には、人頭大ほどの大きさしかない岩石が安置されている。
巨石や巨岩でなくても、神聖視される岩石は存在する。この事実を現代人に常に突きつける存在である。
なお、『大神神社摂末社由緒調査書』(1877年)によれば、磐座神社は別称として、三穂神社・石神皇后神社・岩上皇后社・岩倉社・岩倉祠・岩上宮・石上社があったことが明らかにされている。
三穂神社・皇后神社の名から、かつては大物主命の后である三穂津姫命を祭神とする神社だったようだ。
岩上・石上からは、岩神・石神に通ずる信仰もあったことを窺わせる。
磐座神社
山ノ神遺跡
狭井神社から北東の方向は谷間になっていて、狭井川沿いに踏み跡が続いている。
この踏み跡を5分ほど進んでいくと、三輪山の裾部に山ノ神遺跡が存在する。
三輪山の磐座群は神聖不可侵のため基本的に学術調査ができないが、たまたまここは民間私有地であり、1918年に露岩の傍らから、総数数百点(そのほとんどは玉類)にも及ぶ祭祀遺物が偶然に見つかった。
最初の発見から調査までの3ヶ月の間に、巨石は原位置を動かされ盗掘を受けたらしいが、それでも調査によって見つかった遺物はおびただしく、祭祀用と推測される勾玉・滑石製模造品・土製模造品・各種土器などが出土した。
遺物の様子から、山ノ神遺跡は古墳時代中期初~後期初(4世紀後半~6世紀初頭)の間に祭祀が行なわれた遺跡と位置付けられている。
- 4c後半~5c前半:碧玉製勾玉・剣形鉄製品・小形素文鏡など
- 5c後半~6c初頭:滑石製模造品・土製模造品(鏡・剣・玉に類似した模造品が多い)
遺構自体も、主石となる巨石の周りを5体の小ぶりの岩石が取り囲む形で見つかり、それらの岩石の一帯には割石が敷き詰められ、人工的に地固めされていたと報告されている。
地固めのためだけではなく、視覚的に聖域であることをより強く明示する効果も意図したのかもしれない。
発掘当初は巨石は古墳の石室石材と見る声もあったが、現在は三輪山麓の磐座の遺跡という見方が定説となっている。
盗掘によって原位置からある程度は動かされていると仮定しても、古墳時代において人工的な配置・工法で設置されたと評価される磐座があることは大きい。
それに加えて考古学の歴史においても、古墳時代の磐座遺跡であると認定された最初のケースとして、山ノ神遺跡は学問史上も非常に重要な遺跡と言って間違いない。
山ノ神遺跡
現在の状態は後世の整備によるもので、発掘当時の配置状況とは異なる。
奥垣内遺跡
三輪山周辺で発掘調査がなされた磐座遺跡は、山ノ神遺跡だけではない。
知名度はなぜか格段に劣るが(多分見つかった年代が1965年と比較的新しいから?)、ここで紹介する奥垣内(おくがいと)遺跡も貴重な考古学成果を出している。
久延彦神社の鎮座する小丘から北に微高地が伸びていて、その北端に箕倉山という小丘があるが、その2つの小丘の中間地点あたりに本遺跡は位置する。
ここも民間地で、業者が温泉地開発をしようとここにあった露岩群に重機を入れたところ、露岩の1つに接して須恵器の大甕が出土した。この大甕の中を見ると、さらに小ぶりの杯・高杯・壺など十数点に上る須恵器が収納されていた。
大甕の中には土器だけではなく、多数の滑石製の玉も入っていた。そして大甕自体は下半分を土中に埋めた状態だった。ただ、これが意図的に埋置されたものか自然に埋まったものなのかの見極めが難しい。
大甕以外にも、その周りには滑石製の有孔円板(鏡の模造品と考えられる品)や土師器片などが散布していた。
須恵器の特徴などから、これらの遺物のほとんどは、古墳時代中期末~後期初頭(5世紀後半~6世紀初頭)に製作されたものだと推定されている。ただ一部、中期初頭(4世紀末~5世紀前半)に遡りうる土器も見られた。
ちなみに、現在ここは神社の所有地になっていて、この遺跡の発見を記念して現地に軽く復元がなされている。
といっても下写真の通り、たくさんあっただろう露岩群のうち2個の岩石を公園の中に置いているだけで、元々の露岩状態のよすがを偲ぶことは難しい。
さらに余談だが、この跡地の傍らの地面を軽く観察していたら、須恵器の破片が見つかった。
私が観察した限りだが、古墳時代後期後~末(6世紀後~7世紀初)ぐらいの須恵器杯の特徴に類似していた。奥垣内祭祀遺跡の盛行時期よりかは少し時期が新しいもののようである。
奥垣内遺跡
檜原神社
大神神社の神社群では、檜原(ひばら)神社は最も北に位置する。
大神神社の摂社群の中でも社格が高く、元伊勢伝承地「倭笠縫邑」の伝説地としても知られる。
檜原神社には大神神社と同様、本殿はなく三輪山が本殿であり、三輪独自の鳥居形態である「三輪鳥居」と、その奥にある神籬(ひもろぎ)が祭祀施設として整えられている。
三輪鳥居の奥にある神籬が岩石で構築されているのが肉眼でも拝める。
ただ、現在ある施設は戦後の再建であり、寛政年間(1789-1800年)の大強風で元来の祭祀場は崩壊したと伝わる。元来の神籬の形態が現在と同様かは不明である。
檜原神社
参考文献
- 桜井市文化財協会・編 2000 『平成12年度秋季特別展解説書 三輪山周辺の考古学』(桜井市立埋蔵文化財センター展示図録 第20冊)
- 中山和敬 1999 『大神神社<改訂新版>』 学生社
- 樋口清之 1927 「三輪山上に於ける巨石群」『考古学研究』1
- 樋口清之 1928 「奈良県三輪町山ノ神遺跡の研究」(上・下)『考古学雑誌』18-10・12
- 前坂尚志 1993 「山ノ神遺跡」「奥垣内遺跡」 東日本埋蔵文化財研究会(編)『古墳時代の祭祀-祭祀関係の遺跡と遺物-』《第Ⅲ分冊-西日本編-》
どうもありがといございました。私は一度参拝しましたが、十分なメモも残しておらずありがたいです。敬具。
返信削除ご覧くださりありがとうございます。
削除三輪山から下山して、記憶が抜けないうちにバーッと書いた記憶があります。ブログは私にとって良いアウトプットの場になっています。