三重県伊賀市阿保
伊賀国造・阿保氏の祖神である「大村の神」(息速別命)をまつったのが大村神社だ。
境内には、崇敬する地区別に専用の参籠所が各々建てられており、信仰の篤さが漂う神域である。
大村神社の参道の様子。雰囲気がとても良い。
境内に要石社が鎮座する。
要石と言えば、鹿島神宮や香取神宮のものが著名だが、大村神社のそれは関西を代表する要石と言える。
要石の機能は鹿島・香取両宮のものと全く同じ。
大地の荒ぶりを鎮め、地震を防ぐ霊石として信仰されている。
要石社
要石(手前の石は「要石」と刻字した石標)
沿革は次のとおりである。
神護景雲元年(767年)、武甕槌命と経津主命(鹿島と香取の祭神)が常陸下総から三笠山(春日大社)に遷幸する道中、大村神社に宿泊した時にこの要石を奉献したという。
8世紀に日本神話の神が主体になって動いた記録というのも面白いが、鹿島・香取・春日と、中臣氏の影響が色濃く立ち込める。
また、鹿島大社の要石は水戸黄門が地中を掘ろうとしてあきらめた話が伝わっているが、大村神社の要石は掘られたり、掘ろうとされたりした逸話は伝わっていない。
要石の霊験発動の歴史を現地看板より引用しよう。なかなか広範囲に及ぶ戦績だ。
- 安政元年 伊賀上野・四日市
- 大正十二年 関東
- 昭和二年 奥丹後
- 昭和十九年 北伊勢湾沿岸
さて、要石は「信仰の対象」であり「鎮魂の祭祀道具」でもあるという、二面性を持つことについて触れておきたい。
要石は「要石社」として独立した社を持ち、要石自体が「霊の宿った岩石」として信仰・祭祀の対象となっていることは揺るぎのない事実である。
その一方で、要石は伝承上、道中に立ち寄った神々による捧げ物で、国土を鎮めるために設置した祭具として語られている。
道具であり、信仰対象でもあるという、この一見相反した性質をどのように考えればいいか。
この要石に語り継がれてきた歌にヒントが入っていると私は思う。
「ゆるぐとも よもやぬけまじ 要石 大村神の あらんかぎりは」
と詠まれる歌だ。
ここからわかるのは、人々は要石を通して「大村神」を見ているということ。
要石に独立した神格を見ているのではなく、大村神社の主祭神である「大村の神」をかぶらせて見ている。
これは、武甕槌命・経津主命が「捧げ物」とした瞬間、この岩石が「大村の神」の所有物になったという図式と矛盾しないだろう。
神の霊力を送り込み、国土を守護するという祭祀目的を達成するために機能するツール。それが大村神社の要石と理解できる。
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