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2019年4月1日月曜日

『石はきれい、石は不思議』(2007年)を素直な気持ちで読む


『石はきれい、石は不思議』は、株式会社LIXILが催した「石はきれい、石は不思議/津軽・石の旅展」のブックレットとして発行され、総頁も80ページに満たない冊子である。



冒頭は「石を拾いに津軽へ。」と題し、津軽の浜辺で拾った石たちのフォトギャラリーの体裁である。
石を見て各々が自由自在に受けとめればよく、さらりとした導入から始まるが、後半になると石に一家言を持つ識者や先達たちのコラムやインタビューが登場する。

あたかも、五感でラテラルに受け止めさせた冒頭に対して、その五感の一つの答えあわせを用意して言語化しようとする後半の構成だった。
深淵に入っていくような意図的な試みのように感じた。

執筆者・話者は次のとおりである。
  • 堀秀道氏(鉱物科学研究所所長)
  • 中沢新一氏(思想家・宗教学者)
  • 奥泉光氏(『石の来歴』で芥川賞受賞の小説家)
  • 中里和人氏(写真家)
  • 牧野喜美雄氏(津軽で石を拾い31年の石の達人)
  • 石戸谷秀一氏(津軽で石を拾い15年の石の達人)

各人が、石に惹かれることについて言葉を発し、LIXIL編集部がそれを文章にまとめている。編集部文責と思われる文章も多く、この世界にかなり造詣の深い人がいるのではないかと思わせる。
タイトルのポップさに対して、中身は大層真面目な本だった。私も大真面目に受けとめて、素直に読んでみたい。


石を拾いに津軽へ。

執筆者名が明かされていないので、おそらく編集部の責によるコーナーだろう。

なぜ津軽が取り上げられるのかというと、石拾いを趣味とする人々の間で津軽半島は錦石を代表とする美しい石が採れる産地として有名だからだ。

本文では「錦石」と「舎利石」の二つが代表格として紹介されている。

錦石は、青・黄・緑の色が織物の錦のように織り交ざった一見して賑やかな石の総称である。
舎利石は小さな粒状の石英を指し、かつてはこれを仏舎利に見立てて仏塔に収められてきて、津軽産は珍重されたという。

そんな津軽で拾った石たちの写真集に、キャプションが添えられているが、その合間に古今東西の先達の格言が挿入されているのも含蓄深い。いくつか紹介しよう。

無言の石は、動物や植物以上に自然の力を強く感じさせるのである。われわれは生命のない石に生命以上に力強いなにものかを感じるのだ(矢内原伊作『石との対話』)

石に浮かび上がるイメージが喚起する想像力の遊び(編集部)

石は地球の記憶装置。石との付き合い方がわかってくれば、地球との付き合い方もわかる(編集部)

石が描く模様とその神秘は、いつの時代も人の想像力をかき立てる(編集部)


堀秀道氏「石の旅 本州最北へ」

堀氏は、先に触れた舎利石についてさらに追究している。

舎利石は鉱物学的には石英とその仲間の玉髄という。
玉髄は ほぼ100%石英だが、そこに不純物が混じると透明感がなくなり、それは碧玉として扱われる。
また、光沢の差もあるようで、碧玉は濡らすと光沢が出るが乾くと鈍くなる。玉髄は乾いていても光沢面を持つ。

玉髄は珍しい石ではなく、全角各地の海岸や川原で見ることができた。
しかし、堀氏が津軽今別の海岸を中心にリサーチしたところでは、長い石拾いの歴史の中でおおむね拾いつくされたのか、 玉髄を見つけることはできなかったという。

碧玉はまだたくさん見つかるようで、現代ではこの碧玉を機械研磨することで「五色の銘石」化し、これが錦石として出回っているという話を付記している。

堀氏はこれを地元を潤す「仏縁」と表現している。
石に対して本来善悪などないはずだが、なぜ人の業が際立って響いてくるのだろうか。


中沢新一氏「石神の先史学」

ここで、山梨県の丸石神研究で有名な民俗学者・中沢厚氏の息子である中沢新一氏のコラム、その名も「石神の先史学」が登場する。この壮大なタイトルに惹かれてこの本を買った経緯がある。

実際は見開き2ページのコラムであるが、限られた紙幅に中沢氏の思想が凝縮されており、相当行間を読む必要がある。

中沢氏がまず取り上げるのは、先史時代の人類が刻んだ岩壁画である。
中沢氏によると、現代の研究ではこれらの岩壁画は、私たちが絵を描くという行為とは異なる意味があったということを明らかにしたらしい。

現代の私たちは、絵を描くという行為を、すでにあるイメージを「表象」するためにおこなうと定義されている。
私たちにとっての絵は、頭の中にある思想の「再現」なのだという。

一方、旧石器の人々にとっての絵を描くという行為は、行為の位置付けが違うという。
「ないものをあらしめる」ために描いたのだという。

それは旧石器の人々にとっては思想やイメージではなく、紛れもない現実だったとみなすということだろうか。
当時の人々にとっては、精霊や霊力はファンタジーではなく現実だった。
しかし、残念ながら「見えない」のである。

実在しているのに、見えないというもどかしさがある。
見えないと、精霊や霊力や現実化するタイミングや場所がわからない。
だから、見えるように絵を描いたという論理である。

現代人は、すでにあるものを見える形にさらに表現する。
旧石器の人々は、ないと困るのであるようにした。

先史時代には、大地に精霊がいるという発想があったと中沢氏は述べる。
大地にいる精霊が、この世界のどこかを「門(境界)」にしていると考えた。

それが洞窟であり、洞窟の岩壁であり、岩や石だったと中沢氏は論及する。


大地に潜む精霊は、こちらの世界に越境しようとしている。そのゲートを開けるために、境界面と考えられる岩石に絵を描くことで、見えないものをあるようにして、精霊が越境できるように変化を起こしにいった。
そういう風に考えるのである。

この「大地に対する岩石の位置付け」が人々の心の中に残り続けた。

神社や教会や寺院などの壮麗な建築物が宗教施設となってからは、それらが神の「門」となったので、岩石を「門」とする考え方は古いものとして追いやられるようになった。

しかし、「人類の心は大地とのつながりを失っては、長く持続していくことはできない」と中沢氏は考える。
その発露として、文明化された時代においても岩石が地表から露出していて、それがある人にとって原初の心を再起させるものだったとしたら、その岩石は後世においても「門」となった。
興味深い形や、Y字形をした場所、門や穴を想起させる場所は、磐座やサエノカミと呼ばれまつられるようになった。

理由は、岩石が「大地との深々とした接触を保っている」からである。
岩山や岩肌・洞窟は大地との根続き感が濃厚に残るが、地表から少しだけ見る露岩や、地表から切り離された1個の石にも、大地を想起させる要素が人類のDNAには刻み込まれているということだろうか。

最後に中沢氏は、このような新しくて小さい「石の神」は「古層の神としての威厳をもち続けながら、少しも威張ったところがない」から「愛している」と吐露する。
二面性を持つものに人は惹かれるというところがうまく集約された表現だと思う。


奥泉光氏「石には宇宙史が凝縮されている」

奥泉氏は『石の来歴』という小説の作者である。
私は『石の来歴』を未読のためまた小説も石の哲学として読みたいが、奥泉氏自身がまとめたところの紹介では以下があらすじである。
太平洋戦争末期、レイテ島で上等兵から「河原の石ひとつにも宇宙の全過程が刻印されている」と聞かされた主人公が、戦後、岩石蒐集に取り憑つかれ、そのために妻は狂気に走り、子供は死に至るという話です。
まさにあらすじなので受け止め方多々だが、奥泉氏自身が種明かしをしているのは、

  • 作者自身が、なんとも思っていなかった石が実は宇宙の歴史を凝縮するものと考えたらすごいということに気づき、その驚きを作品に投影したかった。
  • 人間の営みに対して、石の歴史から見たらほんの僅かのささいな出来事に見え、その時間の流れ方の差をテーマにしたかった。
  • 主人公の苦しみを回復し、励ます要素として石を登場させた。

奥泉氏の話の中で印象深いのは、石は永遠不変ではなく、人間から見たら永久に見える存在だが、石自身の時間の中では石も運動していて、刻一刻と変化し、いつかは死ぬという視点で見ていることだ。

岩は風化作用で細かく砕かれて、石になる。石はやがて砂や土になり、水に運ばれて湖沼や海底に堆積し、固まって再び岩になる。またはマグマに溶けて元に還っていく。石は不動のものと思いがちですが、一瞬も静止することなく変化し、絶えず循環しているわけです。

石の永遠性という、使い古された言葉へのアンチテーゼとして覚えておきたい視点である。

そんな「運動している石」のある瞬間と、私たちの人生のある瞬間が重なり合う。
私たちが見ている石の姿はこういう奇跡的な瞬間なのであり、そこを魅力とみなすのが奥泉氏の見方だ。

奥泉氏はもうひとつ面白い視点を提示している。
石を単なる無機物ではなくひとつの生命とみなす詩人や思想家がいて、その気持ちは理解できるものの、奥泉氏は「やはり無機物は無機物で、人間と石とは違う」という立場を表明していることだ。
その理由がまた独自的で、人も石も同じ生命とみなすと、人間の論理や道徳の根拠がなくなってしまうからだという。

奥泉氏は作家として、石を自分と同じと見ず、他者と捉えたい。
他者の内面に共感しながら、一方で否定的にアイロニカルに見る。
そうやって世界を二重化することで、人と石は違うという立場を堅持しつつ、石の魅力を感じたいという。


中里和人氏「津軽探石行」

中里氏は、津軽の石拾いの達人である牧野喜美雄氏・石戸谷秀一氏の両名に出会った。

両氏の詳細は後述するとして、中里氏は会った感想として「やって来た石は、拾った人そのものの化身」であると表現した。

牧野氏と石戸谷氏のコレクションの差に気付いた中里氏は、どちらにもこの列島の風土が積み重ねてきた文化性に基づいているものと考え、両名でそれが二つの側面で分かれたとみなした。

石の世界の中で、同じリアクションにならないという多様性や両義性、二面性といったものをはらむ記述だった。
それでは実際に石の達人たちのインタビューに移ってみよう。


牧野喜美雄氏「石は人間の気持ちが及ばない世界をもっている」

インタビューから窺われる牧野氏の言葉はやわらかいのに、それでいて直截的だ。

まず、牧野氏の石拾いの信条を感じられる部分を列挙してまとめたい。

  • 海岸で、砂の上に出ていて、見えている石だけを拾う。
  • 掘ってまで探すのは後から来る人の考えるとやりすぎ。
  • 拾った石は天日にさらす。それで落ちる色は落ちていいと思う。
  • 人の作為が入っていない石がいい。人間の感性が無為であることに品格がある。
  • 自然石は、形が気に入らないところがあって、それでいい。気に入らないところがあるからいい。
  • 石の立場に立って考えると、自分以上に石を求める人がいたらそのほうが石にとっていいので、執着せずにあげる。
自然の経過を受けた有様のようなものを大切にする牧野氏からは、自然石に対する感情の言語的なヒントをいただいた気がする。

牧野氏のコレクションは、このように天日でさらすことで「軟らかいところが削れて、硬い所ばかりが残って、何というか、苔むした感じ」の石たちになる。
これを先出の中里氏は「明るくも寂びの利いた、艶やかな色彩世界」と評した。「侘び寂び」感がキーワードだろう。


石戸谷秀一氏「後世に恥じないきれいな石を残していきたい」



牧野氏が「私が持っていない津軽の良い石をみたいなら石戸谷氏」というもう一人の達人、石戸谷氏。
石戸谷氏の石拾いのポイントをまとめてみよう。

  • 貝採り用のジョレンを改良した道具で、波が引いて次の波が来る前に石を採る。
  • 冬の荒波は、海底の石を砂浜に連れてくる。そんな大きい波の後の一瞬を狙う。釣りのイメージだが、命綱をつけることもある危険な行為。
  • 手に取って駄目な石はすぐ海へ戻す。
  • 迷った石は浜側に投げてあとで吟味する。
  • 石を眺める目的は、展示会でどう表現するかの構想を練るため。
  • 磨き方で石の模様はすぐ変わる。磨いてきれいになる石は、きれいにしてあげるべき。


研磨された華やかな原色感。
中里氏の評は「縄文以来見続けてきた堆積色による力」である。
縄文時代の評は異論もあるだろうが、芸術家を刺激した一連の土器・土偶に原色感を見る気持ちは理解できる。そういえば縄文時代の石製品も研磨の文化だった。

石を自然の恩恵の形で享受しようとする牧野氏に対して、石のまだ見ぬ姿を積極的に開拓していこうとする石戸谷氏。
明らかに石の追求のしかたが異なっている。

私には、自然石をそのまま拝して祭祀した人たちの一派と、山に登り岩場を登り頂上を極めようとする修行者の一派の関係とオーバーラップした。

石をどのようにして求めようとしたか、のアプローチが行きつくところは岩石信仰になりうる。
小説家の奥泉氏が「僕自身は石に取り憑かれるまでにはいかなかったけど」と語ったように、石に生命を認めて、石の世界観に人が取りこまれるかどうかが岩石信仰の境界線なのかもしれない。

そのようなところまで思いを馳せながら、本書の最終章に畳み掛けてくるのが「達人の石コレクション」。
これまでの経緯を踏まえて達人の石の写真を眺めていると、何か深いことを思索したくなるけれど、先達の格言の前では陳腐に過ぎるので、最後は「天与の絵画」と題された石のキャプションを引用して終わりとしたい。

フランスの社会学者・哲学者のロジェ・カイヨワは名著『石が書く』のなかで、石そのものがもつ驚くべき模様を克明に綴っている。自然がつくる造形の神秘。芸術家にとって、石は創造の源泉でもあった。


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