鐸比古命の巨岩と鐸比売命の巨岩
大阪府柏原市大県の高尾山(277.8m)の山頂には、かつて鐸比古(ぬでひこ)神社と呼ばれる神社があり、そこから東南へ60~70m下った姫山という場所に鐸比売(ぬでひめ)神社が鎮座していたという。
これは 『延喜式神名帳』で「河内国大縣郡 鐸比古神社 鐸比賣神社」と挙げられていた二社に該当するとされ、現在は山麓の鐸比古鐸比賣神社の一社に遷座・合祀されている。
高尾山山頂は広大な崖面を持つ岩山となっている。
山頂の南側に、鐸比古神社の奥之院が今もある。岩崖の上面に山頂側から回る感じでアクセスする。
「鐸比古大神」の石碑が立つ奥之院エリア。山頂の南側にあり、山頂に通じる車道経由でアクセスすることができる。
奥之院の入口にたつ鳥居。
石塔が献じられた藪の奥にそびえる巨岩。陽光で白く照っている。
神域なので巨岩に登ったり傷つけたりしないようにとの古い注意書。
崖下を覗き込むことは難しく、崖の全体のスケールは何とも言えないが、市内を眺望できる好立地である。
岩場登りの跡も残る。
岩崖から上は岩盤が根続きになっており、岩盤上に小祠がまつられている。
明記されていないが、これが奥之院だろうか。
岩盤は傾斜しながらも一定の平坦面があり、平坦面を囲い込む斎庭のような場所もある。
鐸比売神社の旧社地は姫山にあるというが、そちらは正確なアクセスルートが調べきれておらず、未訪である。
姫山は谷間地形といい、そこにも巨岩があるという。
「比売御前」とも呼ばれ、雨乞いや疫病治癒の場だったという。
巨岩はそれぞれ高尾山の水源地と場所が重なり、西麓の里へ流れる沢水の源流であったということも、信仰要素と無縁ではないだろう。
考古学的にみる高尾山と岩石信仰の解釈
高尾山山頂は弥生後期の遺物散布地であり、高尾山山頂遺跡としても知られる。
遺構の検出状況から、これらは弥生時代の高地性集落だったのではないかと考えられている。
山岳の巨岩信仰で神社の元宮があるという話だけだと、人の手が入らない神聖不可侵な場という先入観が通りやすいが、考古学的事実は、弥生時代にこの山が迅速の入る生活空間であったことを示している。
そして、高尾山山頂から南西の尾根の西側斜面から、弥生前期~中期と推定される多紐細文鏡が発見されている。
考古学者の小林青樹氏は「山の神」(『季刊考古学・別冊27 世界のなかの沖ノ島』2018年)のなかで、多紐細文鏡出土地点の北側と南側にそれぞれ岩塊がそびえていることに注意し、鐸比古神・鐸比売神の巨岩の存在も考慮して、弥生時代における巨岩信仰・磐座祭祀を肯定的に受けとめている。
これらの巨岩が鏡の出土をもって、即、磐座形態での祭祀であったとまで飛躍することは慎重でありたいが、巨岩の林立する山と青銅器の一事例として注目したい。
一方で、山で集落生活を営んでいたという事実もある。
弥生時代当時において、山岳の岩石信仰があったとして、それは人間空間とけっして空間を離しあう関係ではなく、共存しうる関係だったことがわかる。
弥生時代において、山は登られる存在であって、いわゆる禁足知的な観念とはまた別系統のものがあったということになるだろう。
なお、神社の祭神は鐸比古命・鐸比売命であり、「鐸」という神名からどうしても銅鐸との関わりを指摘する声が根強いと思うが、銅鐸は現在のところ発見されていないことも認めなければいけない。
時代が古墳時代後期に下ると、高尾山の山腹に十数基の群集墳が築かれるようになる。
巨岩のある山に同居して祖先の墓域が形成されていくという、岩石信仰と祖霊信仰の関係も全国各地に類例がある。
巨岩は自然地形であるため、当時存在していたことは間違いないが、特別視・神聖視されていたかはまた別問題である。自然物に対して人々が何を思っていたかを可視的な物証で突破する方法論が待たれる。
高尾山麓の鐸比古鐸比売神社。
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