2019年5月26日日曜日

大虫神社境内大岩神社(福井県越前市)


福井県越前市大虫町 大虫神社境内

大虫神社の境内に、摂社・大岩神社が鎮座する。
現地に掲げられた境内地図には「お岩神」の名称も冠せられている。
西村英之「大虫神社」『日本の神々―神社と聖地 第8巻 北陸』(白水社、1985年)では、「お岩さま」と呼ばれているとも書いている。

大虫神社

境内社の大岩神社

社後に岩石をまつる。

背後より


以下に社頭掲示の文を引きながら、補足説明を加えていこう。

大岩神社
当社は大虫神社の奥の社と称し、古代より上大虫村(大虫町)山地字水谷に鎮座。神体盤石に座処往古より神変、奇異の神徳あり。

上記の記述から、当社は元来この現在地にあったのではなく、上大虫村山地字水谷にあったことがわかる。
「山地」が大字としての「山地」か、一般名詞としての山地か見分けにくい。
越前市や大虫町の字一覧を調べればはっきりするが、いま手元に調査できるものがなくわからない。
大虫町山地や大虫町水谷で検索するだけでは地名がヒットせず、旧社地が地図上でどこなのかも不明である。

「神体盤石に座処」 は、本来の大岩神社は「盤石」に神が座す磐座としての形の信仰だったという語り口である。

後陽成天皇 慶長十三年(一六〇八)三月四日連縄を張る
明正天皇 寛永十年(一六三三)社建立
桃園天皇 寛延三年(一七五〇)小鳥居を建立
大正十年(一九二一)五月一日水谷の旧跡より現在地に遷宮す

旧社地の水谷での沿革に注目したい。
寛永十年に社を建てたとあることから、それ以前は社を持たず、慶長十三年に注連縄が張られたのは、盤石に直接ということが読み取れる。
盤石を以て大岩神社としていたということになる。

「帰贋記」に上大虫の西の山に神という石あり。又天狗岩ともいひならはせり。此の石みずから動いて山下、山上へ所を帰る事ありと、昔よりいひ伝えられる。

「帰贋記」がどのような文献なのか説明はないが、さらに新しい情報が加わる。
「神という石」という記述には、そのシンプルさに少々驚かされるが、これはやや批判的に受けとめたい。
というのも、前掲の『日本の神々―神社と聖地 第8巻 北陸』には別途『越前地理指南』という文献の記述が引用されており、そこには「西ニ山の神といふ石アリ五尺四方也此石自ラ揺キ山上山下へ居をかゆる事アリ天狗岩共云伝」とある。
こちらを信頼すると、「山に神という石」ではなく、正しくは「山の神という石」ではないかと思うのである。

しかし他の記述はほぼ同様の内容であり、石自体が神であったことがうかがえ、天狗岩の別称もあったことがわかる。

石自体が山の下へ行ったり上へ行ったりするということで、この手の伝承は全国に複数見られるが、石自体が人のごとく石を発動しており、ここからは座石としての働きではなく、岩石自体が石神として動いていると言えるだろう。

これは、社頭掲示冒頭の「神体盤石に座処」という磐座的機能とぶつかりあうところで、どのように理解したらよいだろうか。

ひとつは、石神でもあり磐座でもあるという理解。
似ているが異なる解釈として、石神も磐座であるという理解。
次に、石神または磐座のどちらかを真として、もう片方を後世の付会とみなす理解。

文献調査不足のためここでは結論を出さないが、あえて斜に構えるなら・・・。

社頭掲示の「神体盤石に座処」は看板を書いた人物の神道知識(岩・石はすべて磐座という発想)にひきずられているという可能性はある。
一方の「帰贋記」はいつごろの制作かわからないが、社頭掲示の文が同文献から忠実に引用しているのであれば、石神としての記録のほうがより確固としている。
それは神変・奇異の神徳にも通じ、お岩神(大岩神)という神名にも通ずる。

石は又五尺四方計(約一.五メートル)有りて人力の及ぶ所にあらずとある。

石の規模を記しているが、さて、この「石」は、旧社地にある盤石を指すのか、それとも、現在地に置かれている目の前の岩石を指すのか。
目の前の岩石も、規模は1.5m四方と言えばそれくらいの大きさである。

「人力の及ぶ所にあらず」であるから、人が運んだものではないという意味はわかるが、運べないほどの規模というわけでもない。

そもそも、旧社地の盤石をそのまま現在の境内に移した(伝説上の表現では「動いた」)のか、旧社地の盤石と似た岩石を新たに現社地に置いたのか、ここがわからない。
これも全国各地に、どちらのパターンの類例がある。
大正十年に遷座したこととあいまって、旧社地の石の現状と現社地の石の出自が読み取れないが、現地での聞き取りと郷土資料の調査で判明するものと思われる。


2019年5月21日火曜日

大岩大権現(福井県敦賀市)


福井県敦賀市疋田

大岩大権現
麓の疋田地区


疋田地区の登り口に案内は見つからなかったが、疋田浄水場を目指せばそのすぐ近くに「大岩大権現」の標識を見つけることができる。

左が疋田浄水場/右が大岩大権現


手前まで舗装路のため車で登ることもできるが、途中に延命地蔵の滝もあるため、麓から歩くことを薦めたい。徒歩10分もかからない。

大岩大権現下流にある延命地蔵と滝

大岩大権現の由来は現地看板によると、慶応2年(1866年)の大雨で当地で山津波が起こり、その時にこの大岩の存在が大木・落石を防ぎ、水の流れを変え、麓の疋田地区への山津波の直撃を防いだことにより、疋田の人々が大岩大権現と呼んでまつったのだという。

綺麗に手入れされた境内。建物は付属せず、大岩をそのまままつる。
この岩が落石となったら悪石と化しただろうが、他よりもひときわ大きいこの岩が他の災厄から救った。
大岩大権現の裏側に回ると・・・
石の群集が岩陰を作り、向こう側に胎内めぐりのごとく貫通している(写真中央)
現地看板。由来詳細はこちらを参照。



由来どおりであれば、明治維新直前の比較的新しい岩石信仰の事例だが、そこに語られている内容は極めて自然信仰であり、神格化への昇華も極めて汎人類的な心の動きである。

これはそのまま、現代においても数多ある自然災害のなかで生まれた"畏怖"や”奇跡”と通ずるものもあるのではないか。

言い伝えの中に、村を襲う「害なる落石」と、それを防いだ「善なる大岩大権現」という二つの岩石の語られ方が見て取れるのが興味深い。
ここでは、岩石が動かず、動く他の災厄を塞いだという「不動性」が「塞」「サカイ」に通じて信仰要因となっている。

そして、大岩に権現が宿ると村人が判断した決め手は、氏神にお伺いを立てておみくじを引いた結果、山王権現の加護によるものという託宣があったのだという。
時代背景もあってか、自然石をそのまま神に昇格することはあたわず、外部の氏神と山王権現の真意を加えた流れをくみとることができるだろう。

現在も、大岩大権現の隣には川が流れており、下流には滝があり、冒頭で触れたとおり浄水場・配水池も近くにある。
水量の豊かな環境にあることがたちどころにわかり、麓に人が住む限り、大岩大権現に頼る思いは変わることがないだろう。

大岩大権現に隣接したこの岩塊も奉献対象だとわかる。おなじく「動じなかった善神」か。

2019年5月20日月曜日

興道寺と木野にある二つの御膳石(福井県三方郡美浜町)



福井県三方郡美浜町には、二つの御膳石が現存する。
こちらについては、橋本裕之氏「御膳石考―弥美神社の祭礼に関する集合的記憶の支点―」(『京都民俗』第22号、2005年)で詳しく論じられており、同論文を参考にしながら紹介したい。

興道寺の御膳石
(美浜町興道寺 日枝神社境内)

日枝神社境内の東、耳川(弥美川)を望む場所にある。
幾度かの場所移転後、現在地でいまだ保存されている。

興道寺の御膳石。草でわかりにくいがセメントで地表面が固められている。

木野神社境内にある。

石の頂面を上から撮影。

御膳石から耳川越しに弥美神社の方向を望む。


耳川を挟んだ対岸の弥美(みみ)神社の五月一日の祭礼時、御膳を供えるために置いていた石である。
なぜ弥美神社から離れた場所で御膳を献ずるのかというと、祭礼時に耳川が増水して渡れなかった頃、この石にお供えをして遥拝したのだという。
この地区にまだ耳川の橋が架かっていなかった時代の話である。

弥美神社宮司だった故・田中伊之助氏が「石ノ信仰ニツイテ」という文書を書き残している(1940~1967年頃の制作か)。この文書に興道寺の御膳石も言及されている。
橋本裕之氏は前掲論文の中で、この文書の全文を掲載している。
御膳石の特徴を表す部分に絞って、箇条書きにまとめておきたい。

  • 川岸に残っていて、地上から三尺ほど露出している。
  • 石の頂上が平坦で、農具を置いたり弁当を食べたりする時に便利そうだが、そんなことをすると神罰が下るといって土地の住民は敬遠している。
  • 弥美神社に御膳を馬にのせて運ぶが、川が増水して渡河できない時はこの御膳石に供えて、遥拝して帰った。

橋本氏の現地調査(実見および聞き取り)によると、さらに次の情報が加わっている。

  • 高さ79cm、長辺77cm、短編56cmを測る(地表露出数値)。
  • 頂面の平坦部は人工的に削って作りだしたものではないか。
  • この主石に付随して、2個の小ぶりの岩石も大切にされており、3個含めて御膳石として扱われている。
  • 元々は現在地にあった石ではなく、耳川近くの水田の畔にあった。 
  • 畔を境にして、上の水田は日枝神社の宮田で、下の水田との段差が30cmほどあった。御膳石も30cmほど埋まっていたという。
  • 下の水田の所有者談では、自然の所産というよりも、人工的・意図的に配置された石に見えたという。
  • 1977年、土地改良工事の時に一度地中に埋められたことがある。この時、石が風化するための「岩腐り」状態になった。
  • その後、地中から掘り出して日枝神社の横を通る農道脇に移設した。当時、御膳石を動かすことに躊躇する、気が咎める雰囲気も地元の中にはあったらしい。
  • 1999年、日枝神社の出入口を新設した折に、御膳石はさらに移転され、現在の境内東側に安置された。

「遥拝」について思いを巡らせたい。
遥拝であるから、基本的には信仰対象である神霊との物理的距離が離れている場合に用いる概念である。

御膳石は、神霊に捧げる品々を、遠くの場所からでも転送できる装置である。
それと同時に、奉献物に込められた信仰者の思いをも、神霊に転送する機能を持つ。
そうでないと、参拝の代わりにはならないからである。

本来は、弥美神社という神域の中まで入ることで、参拝は達せられる。
それが、増水というハプニングの時に限り、御膳石の力を借りることで、神域で参拝したことと同じ価値を得られる。

これは言うなら、御膳石遥拝の時だけ、弥美神社の神域が拡大して、御膳石が神域の境界の端を担ったのかもしれない。
だから、物理的距離が遠かったとしても、逆に神霊のテリトリーを拡張することで、そこの奉げ物を神霊が受けとってくれると保証されることになる。
つまり遥拝石とは、単純な転送装置というだけではなく、遥拝する時だけ、信仰対象のテリトリーをその岩石まで拡張する機能を担ったのだと理解することもできるだろう。

ただ、人の心にはグラデーションがある。
遠くの祭神に祈願を届けるのではなく、遠くの祭神が御膳石という装置の力によって、御膳石の場所まで来てくれていると解釈した人も、参列者の中にはいたかもしれない。
この場合、御膳石は神饌台という単一機能だけでなく、一種の呼び寄せ装置でもあり、磐座に近い性格も帯びることになる。
目に見えない観念世界だからこそ、信仰・祭祀における信仰対象の現われ方には絶えず揺らぎや多様性が混じることも、注意しないといけないだろう。

弥美神社。「王の舞」の民俗芸能が残ることで有名。


さて、この御膳石には不敬な行為をすると神罰があるとは前述のとおりであるが、現在は不敬どころか原位置から度重なる移転・改変を受けており、今は特に祭祀の行われていない岩石に変容した。

橋本氏の調査により、御膳石を取り巻く人々の心理にも変化が起こっているのが読み取れる。
田中宮司が記した1967年以前では、御膳石は間違いなく「神聖な岩石」であり、祟り伝承を付帯していた。

それがまず崩れたのは、信奉者ではない外部の工事業者がそれと知らずなのか、1977年の土地改良工事で地中に埋めてしまったことに端を発する。
この時の詳しい経緯はわからないが、地元の人々の理解の上で埋められたのなら、 この時すでに御膳石の祟り伝承と神聖性は相当薄れていたと認められる。
これは、耳川に恒久的な橋が架かってから、御膳石がその遥拝石としての役割を必要としなくなったことと絡み合うのかもしれない。

一方で、地元の人々の理解を得ないまま工事業者が埋めてしまったのかもしれない。
この場合は、人々の御膳石への心理は従前と一緒だった可能性もあるが、この出来事によって、御膳石は視界から姿を消し、記憶の忘却に拍車がかかる契機となった。また、御膳石をこのような状態にしたのに実際に祟り現象が起こらなかったと人々に認識された場合、その時、御膳石の畏怖性は急速に失われたであろうことも想像に難くない。

このように、1977年を境に御膳石は「ある程度動かしても良い」認識の存在になった。
後で再び御膳石が取り出されたのは、御膳石に対する人々の愛情の現われであり、移設時に気が引ける思いが一部の空気にあったのもまだ従前の畏怖性が残っていたことを示すが、それでも最終的に御膳石は「動いた」のである。

一度動いた御膳石に、その点でのタブーはもうない。
だから1999年に再度移転も受け入れられ、3このいしはセメントで固定されるという「保存処理」がなされた。
これはもう、御膳石が現役の祭祀装置ではなく、文化財の一種として人々に認知されていたと言える行為だろう。

それでも御膳石は今でも耳川を望む位置に立ち、博物館の展示品のように、かつての祭祀景観から完全に切り離されたわけではない。
そして、橋本氏が前掲論文で指摘したように、現在も御膳石は「弥美神社の祭礼に関わる集合的記憶」を掘り起こし、再評価する記憶装置(過去の記憶を想起・生成させるための起動装置=ジェネレーター)の役割を果たしているのである。


また、御膳石の頂面が人工的に成形されているのなら、祭祀当初の御膳石は人為加工された存在であり、それ自体には「改変することへの畏れ」は感じられない。

人為加工したのが初めから祭祀目的だったなら、そこには祭祀を執行するための祭具としての意識が先行しており、岩石自体に畏怖性が帯びたのは後天的なものと解釈できる。

それとは別の可能性として、元々は古代に別の理由で加工されていた岩石が、後年に再発見され、これを神意と見て祭祀の石に転用したケースもあるだろう。その場合は、再発見時点ですでに岩石には畏怖性が伴ったと理解して良い。

日枝神社の入口。獣害除けの電流柵で囲われているので、外して参拝する方式。


木野の御膳石
(美浜町木野 木野神社境内)

木野地区の鎮守である木野神社にも、御膳石と呼ばれる岩石が現存する。

木野神社も入口に厳重な防護柵がある。出入りは元通りに。


場所は、木野神社の社殿に向かって右手前で、玉垣に接して置かれたベンチのような岩石がそれである。
興道寺の御膳石と同じく、特別な石であることを示す標示はなく、外野の者にはその出自を外見で把握することはできないだろう。

木野の御膳石

玉垣の奥方延長線上に弥美神社が。

玉垣外から御膳石を撮影。

別方向から撮影。直方体の整然とした形状。

社殿向かって左にも岩石がある。これらにも埋もれた歴史があるのだろうか。

 興道寺と御膳石という名称は同じだが、岩石の形状は似ていない。
興道寺の御膳石は立石状に対し、木野の御膳石のほうがより平石であり、御膳を置く分には木野の方が置きやすい。

木野の御膳石も、橋本裕之氏が同論文で調査しており、その要点を以下にまとめたい。

  • 高さ41cm、長辺124cm、短辺40cmを測る。
  • 石英脈が多数入った砂岩との鑑定。
  • 木野神社の祭礼時、御膳と御幣を二つずつ制作し、一つを木野神社に捧げ、もう一つをこの御膳石に捧げるという祭祀を現在も継続している。
  • 御膳石を捧げる方角上には弥美神社が位置しており、こちらも弥美神社に対する遥拝の岩石とされる。
  • かつて弥美神社の祭礼日には、木野神社を遥拝してから祭礼を開始していたという伝承がある。
  • 木野は弥美神社の氏子集落であるが、弥美神社の祭礼には参加せず、木野神社で独自に祭礼を執行している。

これらの点から、橋本氏は木野の御膳石を、木野神社と弥美神社の二系統の祭礼に関する集合的記憶の支点として機能する存在だったと論じている。


岩石信仰の観点で考えれば、木野の御膳石は木野神社の祭礼時、弥美神社の方角に向けて御膳を置き、御幣を立てかける岩石である。
御膳石には御膳だけではなく御幣も立てかけるので、単なる神饌台ではなく、神霊が御膳石に来臨する磐座の機能も有している。
細かく言えば、御幣は御膳石の上ではなく、御膳石に斜めに立てかけている。
それでも、御幣に神霊は来臨するので、御膳石は立てかけられた下の台座の働きとして、磐座の上に神がやってくる構図自体は変わりない。

他にも興味深い点があるのでまとめてみよう。

  • 興道寺の御膳石と異なり、木野の御膳石では今も祭祀が行なわれている。
  • 弥美神社の祭礼に合わせるのではなく、木野神社の祭礼の日程に組み込まれて使用されている。
  • 川の増水と関係なく、木野の御膳石は初めから遥拝すること前提で定期的祭礼に組み込まれている。
  • 田中宮司の「石ノ信仰ニツイテ」には、興道寺の御膳石について言及があるが、木野の御膳石は取り上げられていない。


興道寺の御膳石は増水というイレギュラーな出来事によって遥拝に使われたり使われなかったりしたことが想像されるが、木野の御膳石は毎年一回かならず祭祀に用いられた。

この祭祀の定期性の有無が、興道寺は祭祀が失われやすかった(橋の建設があったにせよ)理由になり、木野は今も続いている要因になったのかもしれない。

同様に指摘したいこととして、興道寺より木野の御膳石の方が、岩石の機能も祭祀の内容も洗練されているという点がある。システム化されていると言い換えてもいい。

興道寺の御膳石は

  • 不定期に祭祀執行される。
  • おおむね遥拝のための奉げ物を置く石として使用された。(磐座的発想は皆無ではないが、少ない)
  • 岩石が奉げ物を置く石としては、不適切ではないが、適当と言い切れるほどの平坦面を持ってもいない。
  • 弥美神社の祭礼に対して、あくまでも従の関係である。

木野の御膳石は

  • 定期的に祭祀執行される。
  • 奉げ物を置く石という点では興道寺と同じであるが、御幣も供えて弥美神社の祭神も呼び寄せる磐座的発想も兼ねている。
  • 奉げ物を置くに適した合理的な形状の石を選んでいる。
  • 弥美神社に対して、独自路線の祭祀体系を用意しており自立的である。

まるで、興道寺の御膳石を見習って、それを体系化したかのような感が木野の同石にはある。
これと併せて考えたいのが、田中宮司の「石ノ信仰ニツイテ」に、木野の御膳石は取り上げられていないという事実である。

前述のとおり、木野神社の御膳石は今も祭祀が継続されている存在であり、そういう意味では、近在の「石ノ信仰」をまとめようとこの文書をかいた田中宮司の耳に届く存在でしかるべきであるが、記述されていない。

はたして、木野の御膳石の祭礼がいつまで遡りうるものなのかはわからないが、興道寺の御膳石の祭祀が途絶えたのと入れ替わるように、木野の御膳石が今も遥拝祭祀を受け継いでいるのはとても興味深い事実と私は見ている。

2019年5月19日日曜日

泉岡一言神社(福井県三方上中郡若狭町)


福井県三方上中郡若狭町中野木

大和葛城山の一言主大神を当地に勧請した神社だが、創祀の委細ははっきりしていない。

泉岡一言神社境内

当社について詳しく紹介してあるwebページを2つ紹介しておきたい。

福井県神社庁の泉岡一言神社のページ
福井県神社庁|泉岡一言神社

福井県小浜市の和菓子店である耕養庵の一言神社のページ
一言神社

こちらによると、文永2年(1265年)の文献に「泉岡一言宮」の字が見えるようで、鎌倉時代までの足跡は辿れるようである。

また、勧請された時に一言主大神は「吾宮祠を好まず」と告げたそうで、そのため境内に本殿は存在せず、当社は「盤境」によって宮となすという。

「盤境」はすなわち「磐境」と見ていいが、社頭掲示で使用されている語であるため、この語の初出がいつまで遡れるかは不明である。

実際に、本殿をまつる位置には立石が1体置かれ、幣帛が捧げられている。
現状のまつられかたは、岩の境というより憑依物としての依代のような感がある。

拝殿とその奥の立石

盤境とされる立石


また、当社の背後の山を野木ヶ岳(野木山)と称し、その東南に支峰として野木小山がある。その山頂に当社の奥の院が鎮まるという。
明応3年(1494年)、野木山頂において雨乞いの祈願が小浜市の明通寺の僧によって行われ大雨が降ったという記録が同寺の「明通寺文書」に記されている(大森宏「泉岡一言神社」『日本の神々―神社と聖地 第8巻 北陸』白水社、1985年)。

野木ヶ岳(泉岡一言神社は写真右端の山裾)。写真右の支峰が野木小山。

こちらは未訪であるが、福井県神社庁のページに掲載されている画像が奥の院の画像であり、本社の立石と瓜二つの立石をこちらもまつり、やはり社祠はない。
山頂の立石のほうが野趣に溢れ、それを山麓に分霊した岩石が現在本殿代わりにまつられている立石といったところだろうか。

境内には他に、「一心」と字が刻まれた岩石や、一切の標示がないが玉垣に囲われ本殿と類似した構造の立石がまつられている。

標示に「御神意 一心」とある。石肌にも刻まれ、これ自体がまつられている。一心祈願の当社の由来にまつわる岩石か。

境内参道脇にまつられた一画

立石の手前に平石が見え、玉垣一帯を玉石を敷き詰める。それぞれの石の役割が異なる。

社頭には黒石が献ぜられている。一心祈願の折に黒石を以て献ずるらしい。

御神木 夫婦杉

夫婦杉の幹分かれの鞍部に積まれた石たち。


以上、さまざまな岩石祭祀の姿を伝えている。

前掲の『日本の神々―神社と聖地 第8巻 北陸』の泉岡一言神社の項には磐境を始めとする岩石信仰には言及されておらず、現在のところ、これらの祭祀を説明している記録にまだ出会えていないのがもどかしいが、近在の古墳群の分布とも絡めて興味のやまない場所である。

2019年5月13日月曜日

鵜の瀬と若狭姫神社の子種石(福井県小浜市)


福井県小浜市下根来 鵜の瀬 / 福井県小浜市遠敷 若狭姫神社

鵜の瀬(鵜之瀬)


鵜の瀬は、遠敷川が折れ曲がる淵とその奥に広がる岩壁から構成される。水中洞穴があるという。

若狭姫神社・若狭彦神社の境外神域に位置付けられている。


鵜の瀬は遠敷川の淵の名称で、若狭国一宮の祭神である若狭姫と若狭彦が最初に現れた場所という。
そして、両神は最終的な鎮座地を求め、ここ鵜の瀬から離れて、川の下流である現若狭姫神社と若狭彦神社の地へ移った。

神が最初に降臨した地と、神が最終的に鎮座した地という発想について少し述べたい。

従来民俗学や古代祭祀の研究で語られてきた神の姿は、田の神や山の神の発想のように、定期的な間隔(たとえば一年という間隔)で降臨する存在として語られることが多かったように思う。
または、アニミズムのように、最初からそこに居続ける神の姿も代表的なものだろう。

これを岩石信仰の世界に当てはめれば、 定期的に来臨する神の姿は磐座的思想であるし、たえずその場に常在する神の姿は石神的発想と言える。

それに対してのアンチテーゼとして鵜の瀬の彦姫神の来臨のしかたに注目したい。
鵜の瀬は最初に現われた場所であるが、そこに今も定期的に現れるという形も、ずっと居続けるという形もとらず、両神は下流の遠敷の地へ移動し、そこで神社祭祀の流れで常在した。

初めから聖地にいたわけではなく、どこかから来臨した存在だったが、そこに一度とどまり、そして、しばらくしたら別の場所に移るという「不定期感」そして「非固定感」。

古代祭祀の世界は、定期的に来訪する神と、常在神的な発想の二者択一ではなく、もっと多様性のある動きをとっていたことがわかる。
神の移動は、神の論理でのストーリー性があると言い換えてもいいだろう。

鵜の瀬はこのような文脈から、彦姫両神の立場からは「元・鎮座地」「鎮座地跡」と言ってもいい位置付けだが、それと入れ替わるように鵜の瀬は奈良東大寺二月堂の「若狭井」伝承の聖跡という新しい位置付けを与えられた。

東大寺二月堂の若狭井と、鵜の瀬の水中洞穴が繋がっているという信仰がある。
遠地同士が繋がっている伝承は、全国各地に見られる。
東大寺との絡みは、中央集権国家の世界観の中に組み込まれたと推測されるものであり、私はそこまで深掘りするものではないが、水を媒介にして若狭―大和間の神聖な存在のシェアをしたり、 双方の聖地に箔をつけたりする行為には注目したい。

岩壁の窪み近景


鵜の瀬に隣接して、白石神社という社がまつられている。
白石大明神、または鵜の瀬大神とよばれる神がまつられ、若狭彦神社の奥宮とされている。

白石という名前については、漢字表記のまま受けとめると、鵜の瀬を形成する岩壁の白い岩肌を神格化したものと感じられる。事実、岩壁には注連縄が渡されていて、淵だけでなく岩壁も神聖視されている。
しかし、白石は新羅の転訛という説もあるようで、安直に白い石と断ずることは避けておこう。

鵜の瀬の信仰の中心は岩壁ではなく、二月堂若狭井と繋がる水中洞穴である。
水中洞穴というから、川の水中の岩壁側に穴が開いているのだと思われるが、目視でこれだと特定するのは難しい。
岩壁に洞穴状の窪みは見られるので。水面下の岩壁にも類似する穴があるのだろう。
かつては淵がもっと深かったといい、現在の景観を見ているだけでは勘違いする恐れもある。

神聖な岩石にあいた穴という意味では、洞穴は岩屋に通じ、これは磐座と共通する「岩石の内部空間に神を宿す」という思想である。

彦姫神が出現したのは鵜の瀬という話は先述したが、出現したのが淵というだけでなく、具体的にはこの洞穴を指すかどうか。それとも岩石に来臨したのか。原記録にはどう記述されているのだろう。

白石大明神、鵜の瀬大明神と彦姫神の関係性も気になるところである。
一般的にはすべて同神とされるが、鵜の瀬に今はいない彦姫と完全に同一の扱いとはされていない。あえて言うなら御魂の性質が異なるか、分霊的な評価となる。
また、神名としてはそれぞれ意味するところが異なる可能性がある。歴史的に同神と言い切れるか、それとも地主神と勧請神の関係に近いのか。

資料調査が足らないまま書き連ねているので着想はこれくらいにとどめておきたいが、鵜の瀬という存在を淵だけで語るか、石を絡めて語るか、彦姫や地主神、若狭井などの要素と絡めて語るかで歴史的な位置付けは相当変わるのではないかと思う。


若狭姫神社の子種石


若狭姫神社と若狭彦神社は、下社と上社の関係である。

若狭姫神社境内には岩石祭祀の事例として子種石があるので紹介しておきたい。

子種石(女器陰石・男根陽石)

裏側より撮影。後方に見えるのは若狭姫神社拝殿。


いわゆる陰陽石の事例に属すが、他例のように撫でるなどの儀礼はなく、シンプルに祈る行為を以て霊験ありとなす。

陰陽石であり、霊験の根本は「子宝」にあるようだ。
女性の恋愛、安産、子孫の繁栄などはそれに付随するものと思われる。

佐伎治神社裏山の大岩(福井県大飯郡高浜町)


福井県大飯郡高浜町宮崎





2015年に「再発見」された大岩である。
その経緯を報道した福井新聞の記事(下リンク)が詳しい。

伝説大岩を工事関係者が偶然発見 高浜の山中、神社に言い伝え | 福井新聞ONLINE

要点を列挙してみる。

  • 大岩は高さ14メートル、周囲40メートルを測る。
  • 2015年、砂防ダムの調査に来た業者が大岩を見つけて佐伎治神社の宮司に報告した。
  • 宮司談「昔から大岩があることは、先代の宮司らから聞いていた。山林の地名自体が大岩とも伝えられていた」
  • 大岩は宮司によっておはらいされ、「神宿る岩」と命名された。
  • 『高浜町史』によれば、佐伎治神社の裏山には砕導山城(さいちやまじょう)がかつてあり、掲載地図には神社の南に大岩が図示されているという。

以上のことから、大岩は地中には埋もれていたわけではなく、町史編纂時点でも図化されていた存在のようであり、その存在は完全に見失われていたわけではない。
それが2015年、業者経由で神社の耳に入ったことで、「再発見」となった経緯が浮かび上がっている。

佐伎治神社の裏山の大岩と聞くと、否応なく神社信仰との関係が取りざたされるが、社頭概誌には佐伎治神社が元はこの地ではなく、別の場所にあったことが記されている。

往昔は或は薗部村なる深田の中園池林という処に在りしとも言い、或は現今の城山の地に在りしとも言う
(社頭概誌)

佐伎治神社は延喜式内社であるが、鎮座地が当初から固定化されていたと考えることには慎重であらねばならず、そうすると大岩との関係は歴史的には切り離して考えたい。

ただし、一方で現在この大岩は、佐伎治神社によっておはらいをなされた上で「神宿る岩」として、この21世紀に神聖視の対象となったことも揺るぎのない事実である。



地名としての「大岩」からは特別視の意識は読み取れるが、 佐伎治神社遷座以前あるいは以後における神聖視の時期があったかは読み取れない。

立地的には山の入口から5分歩いた山麓寄りの山腹で、砂防ダム調査時に見つけたとあるとおり、沢沿い谷間の環境である。
他例における水と岩石信仰の親和性の高さを鑑みれば、この大岩自体の聖なる環境条件としては十分そろっている。

佐伎治神社公式サイト


2019年5月7日火曜日

岩神/おんじく石/温石(福井県大飯郡高浜町)


福井県大飯郡高浜町岩神

高浜町岩神の地名の元になった岩石が現存する。



一見すると路傍の小堂であるが、遠慮しつつ中をのぞいてみると、そこにあるのは仏像ではなくまるで古木のような異形の岩石だった。

木の幹が石化したような形状と、石の左側と右側の質感もかなり異なる。


『福井県史 通史編1 原始・古代』(福井県発行、1993年)によると、高さは約3m、胴回りは約2mの大きさと書いてある。

これは「おんじく石」「おんじゃく石」の別名があり、いわゆる「温石」とされている。
温石と聞くと、石を熱して布などで包むことで暖をとった自然の知恵であるが、誤解してはいけないのは、この異形の岩石自体を暖めて抱きついたというようなものではない。

文政3年(1820年)の『西国巡礼略打道中記』に、この岩神の最古の姿を伝える記述がある。
青柳周一氏「江戸時代の越前・若狭を旅した人々」(『福井県文書館研究紀要』第 12 号、2015年)に岩神の該当部分が全文公開されている。こちらを元に紹介していこう。
岩神 こくぞぼさつ(虚空蔵菩薩)ト申て、大きないわがある
当時、岩神がすでに虚空蔵菩薩の石仏として崇敬されていたことがわかる。
神であり、仏であった。
小供がかなづちでかじりとりにして(中略)一もんじや、かわんせかわんせト申てやかましく申
子供がこの岩神を金槌で削り取って、「この石のかけらは一文じゃ、買え、買え」とやかましかったという。
これは、この道中記の作者が当地を訪れた時に目撃した光景だったのだろう。
子供たちのたくましさが伝わるのとともに、岩神を欠けさせることへのタブーは感じられない(念のため、霊石の一部を欠いて薬やご利益とする信仰は栃木県日光の手掛石など複数あり、特異なことではない)。

四畳半もあるどうの内らに、大きないわがある
岩神が当時、すでに堂の内部に安置されていたことがわかる。虚空蔵菩薩の仏堂だったのだろう。
づつうのいたすおり、ひでぬくめて、いたむ所へあてるなり、又はらいたのせつハ、ぬくめてきれでつつミてあてるトなをるト子供が申候
頭痛があると、この石のかけらを火で温めて患部に当てたり、腹痛の節にも石のかけらを布で包んで当てると治るという触れこみだったそうである。

つまり、温石は単なる暖房器具ではなく、体の痛みを熱によって和らげる治療の道具だった。
もちろんそれは今考えると温熱療法に基づく効能であるが、本記録を読むかぎり、それはどんな石でもいいという論理にはなっておらず、虚空蔵菩薩に見立てられた岩神の体たる石片だったからこそ、体を治す力をさらに促進すると信じられ、それは貨幣価値すら帯びたのである。

前掲の『福井県史』は、虚空蔵菩薩の縁起と温石となった由来も収録している。

虚空蔵菩薩は、ある巡礼者がこの岩に虚空蔵菩薩の札を貼って、悪霊を追い払った故事に由来するという。
温石については、虚空蔵菩薩の札が貼られた数年後、伝兵衛という家の老母が最初に岩神を削り取って人々に売り払い、霊験があったことからこの風習が広まったとある。
虚空蔵菩薩の信仰が先で、温石の霊験が後続であるという時間の前後関係が、口承上で明確になっているのが興味深い。

また、大元のこの石がなぜ岩神として神聖視されるようになったかも説明がある。
いわく、この岩の上で村人がうたた寝をしていたところ、夢に神が登場して「われ岩神なり。この世をば打ちこわしてやる」とおっかないことを言うので、この岩をまつって今の祠を建てて鎮めたのだそうである。

この祠は最初は藁屋根だったが、ある人の夢に岩神が登場して、「藁屋根は藁が落ちるのが汚らしく、また、頭の上がどれだけ伸びるかわからないから瓦葺きにしてくれ」と告げたので、瓦屋根の建物に作り替えたという伝承まである。

頭の上がどれだけ伸びるか、は岩神自身がさらに大きくなるということだろうか?
そうすると成長石の性質をもち、石自身が欠かされても問題はない理屈にもなりそうだが、石が大きくなると藁屋根でも瓦屋根でも困ったことになるはず。
神の論理はよくわからない。

堂に掲げられた額。「岩神」以外の字が判読しにくい。


2019年5月6日月曜日

書写山円教寺の護法石/弁慶のお手玉石(兵庫県姫路市)


兵庫県姫路市 書写山円教寺境内

昔、この石の上に乙天、若天のふたりの童子がこの石に降り立ち、寺門を守ったという伝説が残っている。また別名「弁慶のお手玉石」と呼ばれ、この大きな護法石を、弁慶はお手玉にしたといわれている。
(現地看板より)

書写山円教寺の護法石

乙天は不動尊、そして若天は毘沙門天が童子に姿を変えたものとされており、仏の顕現である。

伝承の構造としては、聖なる存在が石の上に降り立った影向石の事例であり、聖地における信仰の中心という位置づけではなく、いわゆる眷属的な信仰対象が登場することにより、円教寺という霊地の神聖性をさらに高める役割を担ったものと言える。

また、ここに弁慶伝説が加わって二重構造の伝承石となっている。
二つの石の直径はそれぞれ径85cmと70cmを測るといい、それをまるで力石の習俗のごとく怪力ぶりを物語る聖跡としても見ることができる。

影向石や磐座的な機能を負う岩石としては台座感がすくなく丸形石だが、神仏の姿形を模した石や中に信仰対象を宿らせた語り口ではなく、あくまでも石上に神仏を呼び寄せる装置として語られている。

書写山円教寺の護法石

二つのお手玉石の右に接して岩塊があり、はじめこちらが護法石かと勘違いした。
看板を読む限りは護法石はお手玉石と同一物なので柵内の二石だが、この岩塊にも目が止まる。

書写山円教寺の護法石

背後の山肌は抉られていて岩肌が露出している。
円教寺境内には他にも建物を建てる時に地形改変で露出したであろう岩肌を確認することができる。