福井県三方郡美浜町には、二つの御膳石が現存する。
こちらについては、橋本裕之氏「御膳石考―弥美神社の祭礼に関する集合的記憶の支点―」(『京都民俗』第22号、2005年)で詳しく論じられており、同論文を参考にしながら紹介したい。
興道寺の御膳石
(美浜町興道寺 日枝神社境内)
日枝神社境内の東、耳川(弥美川)を望む場所にある。
幾度かの場所移転後、現在地でいまだ保存されている。
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興道寺の御膳石。草でわかりにくいがセメントで地表面が固められている。 |
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木野神社境内にある。 |
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石の頂面を上から撮影。 |
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御膳石から耳川越しに弥美神社の方向を望む。 |
耳川を挟んだ対岸の弥美(みみ)神社の五月一日の祭礼時、御膳を供えるために置いていた石である。
なぜ弥美神社から離れた場所で御膳を献ずるのかというと、祭礼時に耳川が増水して渡れなかった頃、この石にお供えをして遥拝したのだという。
この地区にまだ耳川の橋が架かっていなかった時代の話である。
弥美神社宮司だった故・田中伊之助氏が「石ノ信仰ニツイテ」という文書を書き残している(1940~1967年頃の制作か)。この文書に興道寺の御膳石も言及されている。
橋本裕之氏は前掲論文の中で、この文書の全文を掲載している。
御膳石の特徴を表す部分に絞って、箇条書きにまとめておきたい。
- 川岸に残っていて、地上から三尺ほど露出している。
- 石の頂上が平坦で、農具を置いたり弁当を食べたりする時に便利そうだが、そんなことをすると神罰が下るといって土地の住民は敬遠している。
- 弥美神社に御膳を馬にのせて運ぶが、川が増水して渡河できない時はこの御膳石に供えて、遥拝して帰った。
橋本氏の現地調査(実見および聞き取り)によると、さらに次の情報が加わっている。
- 高さ79cm、長辺77cm、短編56cmを測る(地表露出数値)。
- 頂面の平坦部は人工的に削って作りだしたものではないか。
- この主石に付随して、2個の小ぶりの岩石も大切にされており、3個含めて御膳石として扱われている。
- 元々は現在地にあった石ではなく、耳川近くの水田の畔にあった。
- 畔を境にして、上の水田は日枝神社の宮田で、下の水田との段差が30cmほどあった。御膳石も30cmほど埋まっていたという。
- 下の水田の所有者談では、自然の所産というよりも、人工的・意図的に配置された石に見えたという。
- 1977年、土地改良工事の時に一度地中に埋められたことがある。この時、石が風化するための「岩腐り」状態になった。
- その後、地中から掘り出して日枝神社の横を通る農道脇に移設した。当時、御膳石を動かすことに躊躇する、気が咎める雰囲気も地元の中にはあったらしい。
- 1999年、日枝神社の出入口を新設した折に、御膳石はさらに移転され、現在の境内東側に安置された。
「遥拝」について思いを巡らせたい。
遥拝であるから、基本的には信仰対象である神霊との物理的距離が離れている場合に用いる概念である。
御膳石は、神霊に捧げる品々を、遠くの場所からでも転送できる装置である。
それと同時に、奉献物に込められた信仰者の思いをも、神霊に転送する機能を持つ。
そうでないと、参拝の代わりにはならないからである。
本来は、弥美神社という神域の中まで入ることで、参拝は達せられる。
それが、増水というハプニングの時に限り、御膳石の力を借りることで、神域で参拝したことと同じ価値を得られる。
これは言うなら、御膳石遥拝の時だけ、弥美神社の神域が拡大して、御膳石が神域の境界の端を担ったのかもしれない。
だから、物理的距離が遠かったとしても、逆に神霊のテリトリーを拡張することで、そこの奉げ物を神霊が受けとってくれると保証されることになる。
つまり遥拝石とは、単純な転送装置というだけではなく、遥拝する時だけ、信仰対象のテリトリーをその岩石まで拡張する機能を担ったのだと理解することもできるだろう。
ただ、人の心にはグラデーションがある。
遠くの祭神に祈願を届けるのではなく、遠くの祭神が御膳石という装置の力によって、御膳石の場所まで来てくれていると解釈した人も、参列者の中にはいたかもしれない。
この場合、御膳石は神饌台という単一機能だけでなく、一種の呼び寄せ装置でもあり、磐座に近い性格も帯びることになる。
目に見えない観念世界だからこそ、信仰・祭祀における信仰対象の現われ方には絶えず揺らぎや多様性が混じることも、注意しないといけないだろう。
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弥美神社。「王の舞」の民俗芸能が残ることで有名。 |
さて、この御膳石には不敬な行為をすると神罰があるとは前述のとおりであるが、現在は不敬どころか原位置から度重なる移転・改変を受けており、今は特に祭祀の行われていない岩石に変容した。
橋本氏の調査により、御膳石を取り巻く人々の心理にも変化が起こっているのが読み取れる。
田中宮司が記した1967年以前では、御膳石は間違いなく「神聖な岩石」であり、祟り伝承を付帯していた。
それがまず崩れたのは、信奉者ではない外部の工事業者がそれと知らずなのか、1977年の土地改良工事で地中に埋めてしまったことに端を発する。
この時の詳しい経緯はわからないが、地元の人々の理解の上で埋められたのなら、 この時すでに御膳石の祟り伝承と神聖性は相当薄れていたと認められる。
これは、耳川に恒久的な橋が架かってから、御膳石がその遥拝石としての役割を必要としなくなったことと絡み合うのかもしれない。
一方で、地元の人々の理解を得ないまま工事業者が埋めてしまったのかもしれない。
この場合は、人々の御膳石への心理は従前と一緒だった可能性もあるが、この出来事によって、御膳石は視界から姿を消し、記憶の忘却に拍車がかかる契機となった。また、御膳石をこのような状態にしたのに実際に祟り現象が起こらなかったと人々に認識された場合、その時、御膳石の畏怖性は急速に失われたであろうことも想像に難くない。
このように、1977年を境に御膳石は「ある程度動かしても良い」認識の存在になった。
後で再び御膳石が取り出されたのは、御膳石に対する人々の愛情の現われであり、移設時に気が引ける思いが一部の空気にあったのもまだ従前の畏怖性が残っていたことを示すが、それでも最終的に御膳石は「動いた」のである。
一度動いた御膳石に、その点でのタブーはもうない。
だから1999年に再度移転も受け入れられ、3このいしはセメントで固定されるという「保存処理」がなされた。
これはもう、御膳石が現役の祭祀装置ではなく、文化財の一種として人々に認知されていたと言える行為だろう。
それでも御膳石は今でも耳川を望む位置に立ち、博物館の展示品のように、かつての祭祀景観から完全に切り離されたわけではない。
そして、橋本氏が前掲論文で指摘したように、現在も御膳石は「弥美神社の祭礼に関わる集合的記憶」を掘り起こし、再評価する記憶装置(過去の記憶を想起・生成させるための起動装置=ジェネレーター)の役割を果たしているのである。
また、御膳石の頂面が人工的に成形されているのなら、祭祀当初の御膳石は人為加工された存在であり、それ自体には「改変することへの畏れ」は感じられない。
人為加工したのが初めから祭祀目的だったなら、そこには祭祀を執行するための祭具としての意識が先行しており、岩石自体に畏怖性が帯びたのは後天的なものと解釈できる。
それとは別の可能性として、元々は古代に別の理由で加工されていた岩石が、後年に再発見され、これを神意と見て祭祀の石に転用したケースもあるだろう。その場合は、再発見時点ですでに岩石には畏怖性が伴ったと理解して良い。
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日枝神社の入口。獣害除けの電流柵で囲われているので、外して参拝する方式。 |
木野の御膳石
(美浜町木野 木野神社境内)
木野地区の鎮守である木野神社にも、御膳石と呼ばれる岩石が現存する。
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木野神社も入口に厳重な防護柵がある。出入りは元通りに。 |
場所は、木野神社の社殿に向かって右手前で、玉垣に接して置かれたベンチのような岩石がそれである。
興道寺の御膳石と同じく、特別な石であることを示す標示はなく、外野の者にはその出自を外見で把握することはできないだろう。
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木野の御膳石 |
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玉垣の奥方延長線上に弥美神社が。 |
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玉垣外から御膳石を撮影。 |
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別方向から撮影。直方体の整然とした形状。 |
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社殿向かって左にも岩石がある。これらにも埋もれた歴史があるのだろうか。 |
興道寺と御膳石という名称は同じだが、岩石の形状は似ていない。
興道寺の御膳石は立石状に対し、木野の御膳石のほうがより平石であり、御膳を置く分には木野の方が置きやすい。
木野の御膳石も、橋本裕之氏が同論文で調査しており、その要点を以下にまとめたい。
- 高さ41cm、長辺124cm、短辺40cmを測る。
- 石英脈が多数入った砂岩との鑑定。
- 木野神社の祭礼時、御膳と御幣を二つずつ制作し、一つを木野神社に捧げ、もう一つをこの御膳石に捧げるという祭祀を現在も継続している。
- 御膳石を捧げる方角上には弥美神社が位置しており、こちらも弥美神社に対する遥拝の岩石とされる。
- かつて弥美神社の祭礼日には、木野神社を遥拝してから祭礼を開始していたという伝承がある。
- 木野は弥美神社の氏子集落であるが、弥美神社の祭礼には参加せず、木野神社で独自に祭礼を執行している。
これらの点から、橋本氏は木野の御膳石を、木野神社と弥美神社の二系統の祭礼に関する集合的記憶の支点として機能する存在だったと論じている。
岩石信仰の観点で考えれば、木野の御膳石は木野神社の祭礼時、弥美神社の方角に向けて御膳を置き、御幣を立てかける岩石である。
御膳石には御膳だけではなく御幣も立てかけるので、単なる神饌台ではなく、神霊が御膳石に来臨する磐座の機能も有している。
細かく言えば、御幣は御膳石の上ではなく、御膳石に斜めに立てかけている。
それでも、御幣に神霊は来臨するので、御膳石は立てかけられた下の台座の働きとして、磐座の上に神がやってくる構図自体は変わりない。
他にも興味深い点があるのでまとめてみよう。
- 興道寺の御膳石と異なり、木野の御膳石では今も祭祀が行なわれている。
- 弥美神社の祭礼に合わせるのではなく、木野神社の祭礼の日程に組み込まれて使用されている。
- 川の増水と関係なく、木野の御膳石は初めから遥拝すること前提で定期的祭礼に組み込まれている。
- 田中宮司の「石ノ信仰ニツイテ」には、興道寺の御膳石について言及があるが、木野の御膳石は取り上げられていない。
興道寺の御膳石は増水というイレギュラーな出来事によって遥拝に使われたり使われなかったりしたことが想像されるが、木野の御膳石は毎年一回かならず祭祀に用いられた。
この祭祀の定期性の有無が、興道寺は祭祀が失われやすかった(橋の建設があったにせよ)理由になり、木野は今も続いている要因になったのかもしれない。
同様に指摘したいこととして、興道寺より木野の御膳石の方が、岩石の機能も祭祀の内容も洗練されているという点がある。システム化されていると言い換えてもいい。
興道寺の御膳石は
- 不定期に祭祀執行される。
- おおむね遥拝のための奉げ物を置く石として使用された。(磐座的発想は皆無ではないが、少ない)
- 岩石が奉げ物を置く石としては、不適切ではないが、適当と言い切れるほどの平坦面を持ってもいない。
- 弥美神社の祭礼に対して、あくまでも従の関係である。
木野の御膳石は
- 定期的に祭祀執行される。
- 奉げ物を置く石という点では興道寺と同じであるが、御幣も供えて弥美神社の祭神も呼び寄せる磐座的発想も兼ねている。
- 奉げ物を置くに適した合理的な形状の石を選んでいる。
- 弥美神社に対して、独自路線の祭祀体系を用意しており自立的である。
まるで、興道寺の御膳石を見習って、それを体系化したかのような感が木野の同石にはある。
これと併せて考えたいのが、田中宮司の「石ノ信仰ニツイテ」に、木野の御膳石は取り上げられていないという事実である。
前述のとおり、木野神社の御膳石は今も祭祀が継続されている存在であり、そういう意味では、近在の「石ノ信仰」をまとめようとこの文書をかいた田中宮司の耳に届く存在でしかるべきであるが、記述されていない。
はたして、木野の御膳石の祭礼がいつまで遡りうるものなのかはわからないが、興道寺の御膳石の祭祀が途絶えたのと入れ替わるように、木野の御膳石が今も遥拝祭祀を受け継いでいるのはとても興味深い事実と私は見ている。