福井県越前市大虫町 大虫神社境内
大虫神社の境内に、摂社・大岩神社が鎮座する。
現地に掲げられた境内地図には「お岩神」の名称も冠せられている。
西村英之「大虫神社」『日本の神々―神社と聖地 第8巻 北陸』(白水社、1985年)では、「お岩さま」と呼ばれているとも書いている。
大虫神社 |
境内社の大岩神社 |
社後に岩石をまつる。 |
背後より |
以下に社頭掲示の文を引きながら、補足説明を加えていこう。
大岩神社
当社は大虫神社の奥の社と称し、古代より上大虫村(大虫町)山地字水谷に鎮座。神体盤石に座処往古より神変、奇異の神徳あり。
上記の記述から、当社は元来この現在地にあったのではなく、上大虫村山地字水谷にあったことがわかる。
「山地」が大字としての「山地」か、一般名詞としての山地か見分けにくい。
越前市や大虫町の字一覧を調べればはっきりするが、いま手元に調査できるものがなくわからない。
大虫町山地や大虫町水谷で検索するだけでは地名がヒットせず、旧社地が地図上でどこなのかも不明である。
「神体盤石に座処」 は、本来の大岩神社は「盤石」に神が座す磐座としての形の信仰だったという語り口である。
後陽成天皇 慶長十三年(一六〇八)三月四日連縄を張る
明正天皇 寛永十年(一六三三)社建立
桃園天皇 寛延三年(一七五〇)小鳥居を建立
大正十年(一九二一)五月一日水谷の旧跡より現在地に遷宮す
旧社地の水谷での沿革に注目したい。
寛永十年に社を建てたとあることから、それ以前は社を持たず、慶長十三年に注連縄が張られたのは、盤石に直接ということが読み取れる。
盤石を以て大岩神社としていたということになる。
「帰贋記」に上大虫の西の山に神という石あり。又天狗岩ともいひならはせり。此の石みずから動いて山下、山上へ所を帰る事ありと、昔よりいひ伝えられる。
「帰贋記」がどのような文献なのか説明はないが、さらに新しい情報が加わる。
「神という石」という記述には、そのシンプルさに少々驚かされるが、これはやや批判的に受けとめたい。
というのも、前掲の『日本の神々―神社と聖地 第8巻 北陸』には別途『越前地理指南』という文献の記述が引用されており、そこには「西ニ山の神といふ石アリ五尺四方也此石自ラ揺キ山上山下へ居をかゆる事アリ天狗岩共云伝」とある。
こちらを信頼すると、「山に神という石」ではなく、正しくは「山の神という石」ではないかと思うのである。
しかし他の記述はほぼ同様の内容であり、石自体が神であったことがうかがえ、天狗岩の別称もあったことがわかる。
石自体が山の下へ行ったり上へ行ったりするということで、この手の伝承は全国に複数見られるが、石自体が人のごとく石を発動しており、ここからは座石としての働きではなく、岩石自体が石神として動いていると言えるだろう。
これは、社頭掲示冒頭の「神体盤石に座処」という磐座的機能とぶつかりあうところで、どのように理解したらよいだろうか。
ひとつは、石神でもあり磐座でもあるという理解。
似ているが異なる解釈として、石神も磐座であるという理解。
次に、石神または磐座のどちらかを真として、もう片方を後世の付会とみなす理解。
文献調査不足のためここでは結論を出さないが、あえて斜に構えるなら・・・。
社頭掲示の「神体盤石に座処」は看板を書いた人物の神道知識(岩・石はすべて磐座という発想)にひきずられているという可能性はある。
一方の「帰贋記」はいつごろの制作かわからないが、社頭掲示の文が同文献から忠実に引用しているのであれば、石神としての記録のほうがより確固としている。
それは神変・奇異の神徳にも通じ、お岩神(大岩神)という神名にも通ずる。
石は又五尺四方計(約一.五メートル)有りて人力の及ぶ所にあらずとある。
石の規模を記しているが、さて、この「石」は、旧社地にある盤石を指すのか、それとも、現在地に置かれている目の前の岩石を指すのか。
目の前の岩石も、規模は1.5m四方と言えばそれくらいの大きさである。
「人力の及ぶ所にあらず」であるから、人が運んだものではないという意味はわかるが、運べないほどの規模というわけでもない。
そもそも、旧社地の盤石をそのまま現在の境内に移した(伝説上の表現では「動いた」)のか、旧社地の盤石と似た岩石を新たに現社地に置いたのか、ここがわからない。
これも全国各地に、どちらのパターンの類例がある。
大正十年に遷座したこととあいまって、旧社地の石の現状と現社地の石の出自が読み取れないが、現地での聞き取りと郷土資料の調査で判明するものと思われる。
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