福井県大野市西大月字磐倉
『延喜式神名帳』記載の「越前国大野郡 大槻磐座神社」とされる。
現在の字も「大月」で、「いわくら」に「磐倉」の字の用例をもつ。
西大月字磐倉の磐座神社 |
境内は鬱蒼とした草木に埋もれるようにして鎮まる。 |
『大野市史 通史編上 原始~近世編』(大野市編・2016年)には、大野郡における磐座名を冠する神社について特筆している。
いわく、大野郡鎮座の延喜式内社である
- 大槻磐座神社
- 高於磐座神社
- 磐座神社
- 篠座神社
(篠座神社については「座」の共通性だけで、必ずしも岩石とのつながりを示すものとは言えないが)
さらに範囲を広げて、越前・若狭における延喜式内社には伊部磐座神社・石按比古神社・石按比売神社もあり、「いわくら」を神格化した社が少なくとも6か所に上っている。
これは他地域と比べても類を見ない分布の濃さであり、『福井県史 通史編1 原始・古代』(福井県編・1993年)でも、集落土着の自然信仰の傾向として岩石があったことが言及されている。
このことは、ことさらに当地が磐座信仰の密集地だったというよりも、延喜式内社の収録基準に若狭・越前地域の磐座群が適合し、多く文献に記録された(そうでない全国各地の磐座は記載されなかった)とも理解できるだろう。
すなわち、本来は磐座単体だと社を必要としないため、岩石単体のまつり場ならば延喜式内社として収録されなかった可能性がある。
一方で当地の磐座神社たちは、神を降ろす座だった磐座に早くから神が常在しだして石神のような形で岩石と神が同一視されたか(=磐座神としての信仰)、あるいは磐座に社殿建築が加わり、早くに磐座の祭祀が社殿祭祀に置き換わったといった仮説が提起できる。
さて、再び大槻磐座神社に話を戻したい。
『福井県大野郡誌 上編』(福井県大野郡教育会・1911年)では当社についての古記録がまとめられている。
同書によれば、『平泉寺賢聖院々領目録』『国史略記』『古名考』『類聚国志』『越前神社考』『越前名跡考』 『深山木』『神祇志料』などに存在が記載されているが、多くの書で書かれているのは大月の地にあるといった所在の内容にとどまり、祭神などの詳細は「知らず」「詳らかにせず」といった内容である。
それは「磐座」の存在についても同様で、古記録からは「岩石としての磐座」の由来や存否について窺い知ることはできない。
そこで現地に目を向けると、拝殿向かって右(東)に3個の岩石が群集しており、これが磐座ではないかとみなされている。
一方で、この岩石群は村人が掘って立てたという情報もあるが、その出来事が事実であるかが不明であることと、かつての埋もれた磐座が再発見されたという意味合いを持たせることもできなくはない。
拝殿横の岩石3個 |
地中から根続きの岩盤というよりは、独立した岩石の様子。 |
上方斜面側から。注連縄が巻かれていた時期もあるらしい。 |
3個の岩石のうち、1個の岩石頂面には酒が立てられていた。 |
神社の立地は山裾に位置するため、社殿背後には裏山がまだ続いている。
境内から見るかぎりでは露岩などは確認できなかったが、山中の岩石群の有無は今のところ確認できていない。
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